◎『福翁百余話』の「独立の忠」を読む
福沢諭吉の『福翁百余話』(初版一九〇一、時事新報社)に、第九話として、「独立の忠」という話が入っている。この話は、戦中の一九四一年(昭和一六)八月に出た改造文庫版『福翁百話・余話』では、削られている。戦後の一九五一年(昭和一六)一二月に出た創元文庫版『福翁百話』で、これを読んでみたい。
独 立 の 忠 (九)
人として自から〈オノズカラ〉禽獣に異なるを知り、其精神の高尚至極霊妙至極なるを悟りて人間の本分に安んずるときは、其霊心の発する所仮令ひ〈タトイ〉自から〈ミズカラ〉知らざるも正しく忠孝の旨に適して、其人は純粋の忠臣孝子たらざるを得ず。之を独立の忠孝といふ。例へば一国に君主を仰ぐ所以の本来を尋れば、之を社会公心の集点と為し、不完全なる民心をして帰する所を一にせしむる為めの必要に出たることなれば、(或は君主を立てざる共和政国には憲法を以て君に代ふ其義一なり。)君主の地位は容易に動かす可らず〈ベカラズ〉、時勢或は利ならずして強ひて之を動かさんとすることもあらんか、君位の動揺は取りも直さず民心の動揺にして、一国変乱の不幸なり。斯る〈カカル〉不幸の時勢に際して独立の士は一身の小利害を言はずして必ず平和の方針に向ひ、時としては生命財産を犠牲にしても此方針を守る可し〈ベシ〉。否な〈イナ〉単に事に迫りて然るのみに非ず〈アラズ〉、其平生〈ヘイゼイ〉に於ても人心を高尚に導き、苟も〈イヤシクモ〉禽獣の真似【まね】せしむることなくして、以て社会の変乱を其未だ発せざるに予防して世安維持の天職を勤めんとするものなれば、治にも乱にも身の方針を誤ること少なし。而して其士人の進退は必ずしも時の君王の厳命に接して止む〈ヤム〉を得ず事に当るに非ず、又その殊恩を蒙りて報恩の為めにするに非ず、直接の恩命如何〈イカン〉は固より〈モトヨリ〉問はずして唯自尊自重、人たるの本分を忘れず、其本心の指示する所に従ふて自から忠義の道に適するのみ。忠義の心自動にして他動ならざるを知る可し。古人の言に、其食【そのしよく】を食【は】む者は其事に死すと云ふ。在昔〈ザイセキ〉国君が国土を私有し、其私有の私財を以て臣下を養ひ、臣下は衣食の返礼に忠義を尽すの意味ならんなれども、此義果して然りとすれば、其食を食まざる者は聊か〈イササカ〉不忠にても苦しからずとの意味も随て〈シタガッテ〉生ぜざるを得ず。左り〈サリ〉とは治安の為め危険至極ならずや。畢竟〈ヒッキョウ〉忠義心の発源〈ハツゲン〉を他動に帰して人生自尊の本来を忘るゝが故に斯る危険に陥ることなり。其身既に自から忘れて進退共に他に動かさるゝとあれば、忠も不忠も唯他人の言に従ふのみにして、時としては大に方針を誤ることある可し。例へば古来世の中に乱臣賊子甚だ少なからざる其中に真実の野心を懐【いだい】て乱賊を恣〈ホシイママ〉にする者あり、又或は至極正直の人にして乱を起し、乱に与み〈クミ〉して失敗の後、方向を誤りたりなど後悔する者あり。本来の悪人が悪を為すは格別なれども、正直一偏の善人にてありながら敢て乱を企てゝ愧る〈ハズル〉所なきのみか、生命を棄てゝも志を達せんとする者多きは何ぞや。此種の人は其心事固より善にして、自から忠臣義士と認め曽て〈カツテ〉心に疚【やま】しきものなきが故なり。其疚しからざるは何ぞや。忠義と名くる局部の教〈オシエ〉を聞き、自から自身を忘れて他を仰ぎ他を信じ、一切の判断を他に任じて自身独立の思案なきが故なり。古来幾多の戦争内乱にて其名義は様々なれども、敵味方の双方に就て見れば双方共に忠臣義士ならざるはなし。恰も〈アタカモ〉忠義と忠義との衝突にして、其人の心事を尋れば固より同一様にして、正邪は唯勝敗に由て分るゝのみ。勝てば官軍、負れば賊の諺は事の真面目〈シンメンモク〉にして、忠臣義士と乱臣賊子と其間に髮〈ハツ〉を容れず、誠に危険なりと云ふ可し。蓋し〈ケダシ〉開闢〈カイビャク〉以来今の文明の程度に於て世界万国の人民を平均して真に独立する者とては甚だ少なく、随て之を教るの法も亦局部を専〈モッパラ〉にして徳心発起の大本を説く可らず。忠と云ひ孝と云ひ恰も徳教の切売〈キリウリ〉して之を導くこそ是非なき次第なれども、文明の目的は人間社会の安寧に在り、其安寧の根本は人々自から其身の尊きを知りて随て社会の利害を判断するに在り。教育者徳育者の深く思ふ可き所のものなり。(十月三十一日)
末尾の(十月三十一日)は、時事新報の一八九七年(明治三〇)一〇月三一日に掲載されたことを示す。
さて、上記の「独立の忠」であるが、改造文庫版の校訂者・富田正文は、なぜ、この話を削ったのだろうか。言い換えれば、この話のどこに、問題があると見たのだろうか。
富田が、問題があると見たところは、何か所かあったと思われるが、そのうちで最も大きかったのは、下線を引いた部分であろう。なにしろ、当の福沢諭吉が「誠に危険なり」と言っているぐらいだから。【この話、続く】