◎運転手の職務放棄でバスが動かなかった(1945・8・16)
昨日の続きである。終戦の翌日、一九四五年八月一六日(木)に家を出た原田種成一家は、その日は、中之条町折田在住の教え子・折田秀一宅に一泊し、翌日一七日(金)は、長野原町在住の知人・桜井東介氏の紹介で、同町の川原湯温泉・敬業館に一泊した。その際、桜井東介氏から、「宿泊用の米」まで提供されている。敬業館での宿代も、かなり割引いてもらったはずである。ずいぶん、恵まれた身分ではある。
八月一八日(土)に前橋に戻ると、部屋を借りている農家から、「部屋を明けてほしい」と通告された。このとき、原田種成は考えもしなかっただろうが、「養蚕を始めるので」という農家の言葉は、単なる口実だったと思う。「終戦と知って、すぐに温泉に出かけるような気楽な一家には、もう部屋など貸したくない」というのが、農家のホンネだったろう。露骨に、「出ていってくれ」と言わなかったのは、群馬師範学校教授という身分(高等官)に対する遠慮があったからであろう。
ところで、昨日、紹介した文章には、次のような一節があった。
三人の子供を連れ、市内電車に乗って渋川に行き、中之条行きのバスに乗って中之条に着いた。そのころは吾妻線が未完成で、鉄道はなかった。吾妻線は小串鉱山から採れる鉄鉱石と火薬に必要な硫黄を運ぶために突貫工事をしていたがまだ完成していなかったのである。中之条で長野原行のバスに乗換えようとしたが、バスの運転手が戦争に負けたことに腹を立ててどこかへ行ってしまって今日はバスが動かないという。
当時の交通事情がうかがえる貴重な証言である。「市内電車に乗って渋川に行き」とあるが、この「市内電車」というのは、東武伊香保軌道線(東武鉄道伊香保線)のことである。この電車は、前橋線・高崎線・伊香保線の三路線からなっていたが、原田一家が乗ったのは、前橋から渋川にいたる前橋線であろう。ウィキペディア「東武伊香保軌道線」によれば、前橋線は、一九四五年八月五日の前橋空襲によって、前橋駅前―岩神(いわがみ)間は、しばらく運休となっていた。原田一家は、岩神以北のどこかの駅で前橋線に乗車し、渋川駅前で下車したものと思われる。
渋川からは、中之条行きのバスに乗ったとある。文脈からすると、このバスは、省営自動車線吾妻線のバスだったと思われる。東亜交通会社『時刻表』第二〇巻第一一号(一九四四年一二月)一六七ページによれば、その当時、東武自動車会社四万(しま)線が、渋川から中之条経由で四万に至るバスを運行していた。原田一家が、この四万線のバスに乗車した可能性も、否定はできない。ちなみに、四万線のバスを利用した場合、渋川―中之条間の所要時間は一時間四五分前後、運賃は一円一〇銭である。
なお、同『時刻表』同号の一七三ページによれば、省営自動車線吾妻線は、起点が渋川で、終点は、県境を越えた真田であった(長野県小県郡〈ちいさがたぐん〉真田町〈さなだまち〉)。また、ウィキペディア「吾妻線」は、吾妻線は、一九四五年八月五日に、渋川駅―中之条駅間一九・八㎞で、鉄道による旅客営業が開始されたと記している。しかし原田一家は、営業開始間もない、その「鉄道」には乗っていない。渋川―中之条間を鉄道が走るようになった後も、引き続き、同区間を省線バスが走っており、原田一家は、そのバスのほうに乗ったのであろう。
中之条に着いた一家は、そこで長野原行のバスに乗換えようとした。しかし、運転手の職務放棄という事件があって、バスが動かなかったという。当時、こうした理由による交通機関の運休が、ほかでも頻発していたのかどうか、そうした事例を記録している資料があるのかどうか、ぜひ知りたいところである。