礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ボース氏をかくまったのは頭山満さんの一派です(中谷武世)

2021-09-06 00:12:23 | コラムと名言

◎ボース氏をかくまったのは頭山満さんの一派です(中谷武世)

 中谷武世『昭和動乱期の回想』(泰流社、一九八九)から、「昭和動乱前期の回想(対談)」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 北一輝、鹿子木員信、大川周明
  マルクス的社会主義じゃないな。私は北一輝さんにはただ一回しか会っていないのです。しかし、例の「日本改造法案」を徹夜で写した。この本に書かれた日本改造に関する北さんの考え方に共感するところが多かった。私の思想にいろんな面に影響を持っているのはやはり鹿子木〈カノコギ〉〔員信〕博士です。当時、鹿子木さんは鎌倉の禅寺に住んでいたが、私達は時々そこへ訪ねていって話を聴いた。
 中谷 朝日奈宗源〈アサヒナ・ソウゲン〉が管長をしている円覚寺ですね。
  そう、円覚寺に行って、僕は坐りはしなかったけれども。そして、一緒に山登りもした。
 中谷 鹿子木さんは槇〈マキ〉〔有恒〕さんと一緒に登山家でしたね。
  登山家です。そういうことで鹿子木さんとはたびたび会っているし、それから何と言うか、人間的な影響力というものも、鹿子木さんから受けたものが非常に多いと思うのです。だけど、北一輝から受けた感銘も強かったね。火花が散ったような、パアーッと一度だけだけれども、非常に強い印象を焼きつけられたのは北一輝です。
 中谷 鹿子木さんとの関係も私の場合も先生ともほぼ同じなんです。それで岸信介の名前を屢々聞いたのも、鹿子木さんからです。それは私が「日の会」に入って早々の或る日の会合で、三浦一雄君が、是非鹿子木先生に会えと、きょうは来る予定だったが来なかったから、こうこうというところへ行って会えということで、そこへ行って見るとたしか芝高輪の或る高等女学校の教室なんです。そこで鹿子木先生が、そこの高女の卒業生二十名ばかり集まった会合で何かレクチュアされているのです。こういう女性連にこんなに六ヶ敷しい話をしてわかるのかと思う程、熱心にレクチュアしているのです。黒板を見ますと、今でも忘れませんが、「不滅の現代」という題なんです。そしてニイチェを説いて、ニイチェは、われわれの時代に続くこれからの一世紀、約百年は世界史上かつてなき戦争の時代である、かつてなき大戦争の時代が続く、その意味に於て現代は不滅である、というのです。そして、世界はニイチェの予言の通りになりましたが、そういう調子で、ニイチェの哲学と歴史観を口述しているのです。北一輝とはまた違った意味で、非常に新鮮な魅力を感じました。鹿子木先生の人柄、講演の内容よりも寧ろその気魄というか、ヒタ向きに打ち込んで行く熱意。さすがにやはり「日の会」の人達が私淑するだけのことはあると思いました。それからは鹿子木先生が「日の会」の事実上の指導者、私がその常任幹事ということで、先生と私の非常に長い関係が始まるわけです。「日の会」はそういうことで鹿子木先生を中心に、時折大川周明さんが満鉄組をつれてやって来る、というような関係でした。私は大川周明と会ったのは寧ろ猶存社での方が多かった。後に大川さんを中心に「行地社」というのを私達や満鉄組、 そして安岡正篤〈ヤスオカ・マサヒロ〉さんも加わられて、作ることになります。ところで、岸先生と大川周明との出会いはいつ頃ですか。
  それはやっぱりその頃ですが、私は大川周明氏には学生時代に一度か二度会っているけれども、あまり大川さんとの関係は深くはなかった。私と鹿子木さんみたいなところまではいっていなかった。学生時代の大川さんからの影響力というのはほとんどないと思うのです。それよりもむしろ、後に満州に私が行くようになってから、大川氏との交流は笠木良明君を通じてあるようになったわけです。
 中谷 大川さんは当時、東京の丸の内にあった満鉄東京支社の中の東亜経済調査会の主事でしたね。その下に笠木良明とか、今も生きておって、このあいだも「民族と政治」に論文を載せて貰ったのですがロシア通の島野三郎君、それに綾川武治〈アヤカワ・タケジ〉君、こういう諸君がおりまして、われわれのグルーブでは、彼等を満鉄組と称した、そういう連中があそこに蟠踞〈バンキョ〉しておった。それで大川さんはむしろ実行派で、鹿子木先生が思想的指導者、そしてその奥の院に、我々仲間が、特に笠木君などその呼び名をよく使った「魔王」こと北一輝が鎮坐して、法華経を読んでいる。そして何か世間に問題が起ると、あの独眼龍の片眼を光らせて革命を説く、といった陣容でした。これが日本の革命的民族運動、或は民族主義的革命運動の初期、所謂「昭和大動乱」の前期、或は胎動期であったこと御承知の通りです。猶存社には、中心人物の一人に満川亀太郎〈ミツカワ・カメタロウ〉さんという人が居ましたね。あの豪傑共が寄っている中で、満川さんのような、円満で重厚な人格者もおったわけで此の人も熱心なアジア主義者でした。東大の学生の「日の会」の運動が他の大学にも波及しまして、早稲田大学では「潮の会」、慶応大学では「光の会」、拓殖大学では「魂の会」というように学生団体が相次いでできてきまして、猶存社系統の運動というのは、ずっと広がっていったのです。

 日本の民族主義学生運動とインド独立運動の結びつき
  そこで、僕の方から聞きたいのは、猶存社や「日の会」の運動がインドの独立運動と結びついたのは何かのキッカケがあったのかね。
 中谷 インド人のラス・ビハリ・ボース氏が亡命して来た時に、これを新宿の中村屋にかくまったのは頭山満〈トウヤマ・ミツル〉さんの一派ですが、これには大川周明氏が関係していたことは御承知と思いますが、直接「日の会」がインドの独立運動に結びついた契機は、当時アタル事件というのが起りました。それは、日本にいたインド人のアタルという東京外語学校の教授が英国の大使館からスパイになれといわれたのを拒否し、ガンディの所謂「真理を把持」して服毒自殺したわけです。その追悼会を「日の会」主催で東大の三十二番教室でやったのです。その会で講演をしたのが鹿子木員信〈カズノブ〉、大川周明、中野正剛〈セイゴウ〉、島野三郎、そして早大の武田豊四郎教授、これはインド通でした。そして亡命中のインド志士ラス・ビハリ・ボース氏も出席して演説はしなかったが、壇上に上って礼拝しました。隠れ家の新宿中村屋から始めて公衆の前に姿を現したわけです。それに北一輝さんがフロックコートを着込んでやって来ていました。演説はしませんでしたが、演壇の直ぐ下に坐り込んでいました。大変な盛況で、私が開会の辞を述べ、以上の各弁士が熱弁を揮い、聴衆に非常な感銘を与え、特に鹿子木さんが、ガンディの思想を紹介しました。これが日本の民族運動とインドの独立運動とが結びついたキッカケとなったわけです。それまでの紋付羽織で桜の棒をついている国家主義団体でなく、革新的で、インドの革命やアジアの解放につながる民族主義運動という「日の会」の性格が、この講演会ではっきりしたわけです。(アタル追悼会については後述)(岸対談終)

 だいぶ前のことだが、テレビで『パンとあこがれ』という連続ドラマを観た。新宿中村屋らしきパン屋の話で、そこにラス・ビハリ・ボースらしきインド人が出てきた。いま、インターネットで確認すると、一九六九年にTBSテレビで放映されていたドラマだった。登場人物は、すべて仮名で、「タクール」というのが、ラス・ビハリ・ボースに相当する人物らしい。このタクールを演じていたのが、若き日の河原崎長一郎だったとは知らなかった(当時、三十歳)。

今日の名言 2021・9・6

◎自らの策に溺れた感がありました

 菅義偉首相の総裁選不出馬表明を受けて、東京新聞記者・望月衣塑子(いそこ)さんが語った言葉。「人事権を行使しようとしても状況を変えられない、人を従わせられないという状況は菅さんにとって相当つらかったと思います。それこそが、菅さんの権力の源泉だったわけですから。」9月4日のネットニュース(AERAdot.8:00配信)による。

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