◎東亜同志会の顧問はラス・ビハリ・ボース
先週の土曜日、久しぶりに国会図書館に行ってきた。まず調べたのは、「東亜同志会」についてである。一九三九年(昭和一四)七月に摘発された「不穏事件」は、この団体のメンバーによるものだった(当ブログ、本年六月七日以降の記事参照)。
「科学技術・経済情報室」に赴き、永田哲朗編『戦前戦中右翼・民族派組織総覧』(国書刊行会、二〇一四)を開くと、次のようにあった(漢数字を算用数字に改めた)。
東 亜 同 志 会
創立 昭和13年11月11日 ―― 20年9月14日
所在地 東京市浅草区浅草今戸町2-1 ―― 荒川区日暮里6―328
目的 世界平和と人類福祉に貢献する
役員 理事長 宇佐美元章
理事 杉森政之助
主事 杉森政之助
顧問 坂西利八郎
ラス・ビハリ・ボース
備考 印度独立、排英運動を起こす、杉森は14年7月、野口藤七と英大使館、松平宮相襲撃準備中検挙
短い記述だが、重要な情報が含まれている。所在地の浅草今戸町(あさくさいまどまち)は、杉森政之介と野口藤七が逮捕された「山谷の木賃宿」に近い。杉森の名前は、「政之介」ではなく、「政之助」となっている。
顧問の坂西利八郎(ばんざい・りはちろう)は、陸軍中将、貴族院議員。なかなかの大物である。太田金次郎によれば、坂西利八郎は、土肥原賢二の「北支時代における上官」だった(先月三一日の当ブログ記事参照)。
一番、驚いたのは、ラス・ビハリ・ボースが会の顧問だったことである。ラス・ビハリ・ボース(ラース・ビハーリ・ボース、Rash Behari Bose)は、日本に亡命していたインド独立運動家である(一八八六~一九四五)。
この記述を読んだうえで、改めて一九三九年(昭和一四)の「不穏事件」について考えると、東亜同志会が目指していたのは、インド独立を含む東亜の解放であって、その障害となるイギリス大使館、および親英米派(天皇側近、海軍関係者、外務省関係者)を襲撃しようとしたのが、この「不穏事件」だったのであろう。ちなみに、当時の宮内大臣・松平恒雄は、天皇側近であり、その長女は、秩父宮雍仁親王に嫁していた。欧米局長・外務次官・駐米大使・駐英大使を歴任し、親英米派としても知られていた。
この当時、日独伊三国同盟への加盟をめぐって、国内では激しい政争が生じていた。反英米派が、すなわち三国同盟推進派で、その中心は陸軍および民族派であった。この争いに勝利したのは、三国同盟推進派で、一九四〇年(昭和一五)九月、ベルリンで日独伊三国同盟が締結された。
結果的に見ると、この同盟を締結したことによって、大日本帝国は、破滅への途を歩むことになったのである。
よく知られている通り、戦後の東京裁判では、海軍のA級戦犯に対して、ひとりも死刑判決が出なかった。これは、海軍が、最後まで強く、三国同盟に反対していたという事実と、おそらく無関係ではあるまい。