◎ラジオ放送の経過を伺いたい(大谷憲兵中佐)
須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
本日は、「新方針に横槍」の章(一七五~一八〇ページ)を紹介する。この章も、米内光政内閣の時代の話である。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。
新 方 針 に 横 槍
倒閣運動の犠牲
昭和十一年二月二十二日土曜日、毎朝行っていた外務省幹部会で僕が提案したのはこうでもあった。
物情いかにも騒然として、国内はもちろん外国でも、日本の行衛〈ユクエ〉について明確な考をもてなくなった際であるから、この新事態に対処する外交新方針を声明すべきではないかというのである。
一同は賛成した。僕の考への骨子は「東亜ならびに太平洋地域」に対する新方針を掲ぐ〈カカグ〉べきだという点にあつた。こうして日本内外の注意を欧州の禍乱からそれさせようとするにあった。有田〔八郎〕外相も大いにやれという。そして宮松調査部長と西欧亜局長(今の駐英大使)と僕の三人が起草委員に任命された。
二十五日には閣議で有田外相がこの案に触れたところ、石渡〔荘太郎〕内閣書記官長が真先きに賛成した。全閣僚もこれに和した。ところが驚いたことに、その夜、朝日新聞政治部長から、東亜自主宣言というものがでるそうだが、と問い合せがあった。その頃特に日本の閣議では秘密が保てなかった。何でも後から聞いた話では、〔石渡〕書記官長と桜内〔幸雄〕蔵相の口から洩れたという。
翌二十六日の新聞にはでかでかと出た。こうなると外国にも響くから、一日も早くださねばならない破目になった。僕の手で二十八日朝には脱稿して、その日、〔米内光政〕首相、〔有田〕外相、〔畑俊六・吉田善吾〕陸海両相の四相会議にかけて同意を得た。
〔※冒頭に、「昭和十一年二月二十二日土曜日」とあるが、昭和十五年六月二十二日土曜日の誤りである。この本には、こういう重要な誤りが散見される。「西欧亜局長(今の駐英大使)」とある人物の名前は不詳。なお、この「西欧亜局」というのは、「欧亜局」の誤記ではないだろうか。〕
陸軍、放送に不満
ところが、この頃から陸軍部内から不満の声が聞えてきた。何も今急いで東亜共栄圏宣言めいたものをだす必要はない、との趣旨らしかったが、その底意〈ソコイ〉は、いずれも枢軸側に立つことにせねばならぬから、それからで宜しいという点にあるらしかった。
二十八日午後、外、陸、海の関係幹部の打合せ会が開かれたが、僕は生憎、クレーギー〔英国〕大使とのビルマ・ルート問題などで忙しくて欠席し、堀第一課長が代って出席した。その報告によると、陸軍から強く反対の申出があったが、結局すでに閣議でも、四相会議でも承認されているというので、二十九日に有田外相からラジオを通じて放送されることに決ったという。
その夜、新聞記者諸君が外相か僕かに是非会見したいという。僕が会うと、記者団の質問は、陸軍が翌二十九日の放送には絶対反対というのに、それでも強行するのかという点に集中した。僕はこの日の午後の陸海軍側との打合せ会には出席しなかったが、その際の詳しい報告ではそんなことはなかったはずだと答えて別れた。
その夜中になると、同盟通信の土子や朝日の吉武などの記者諸君から矢継ぎばやに電話で、陸軍は今度のラジオ放送は、情報部長が強行するものだと、大変な激昂ぶりだと知らせてきた。
しかし、二十九日正午から、有田外相のラジオ放送は予定の通り行われた。
〔※有田八郎外相の演説「国際情勢と帝国の立場」は、一九四〇年(昭和一五)六月二九日、ラジオで放送された。その内容は、翌日の新聞に掲載されたという。〕
憲兵隊に呼出される
日本は急いで枢軸側に立つどころか、腰を落ちつけて東亜の諸地域との経済関係の展開に没頭することが知れ渡った。
三十日の日曜日の朝は霽〈ハレ〉だった。十年一日の如く実行している通り、真裸〈マッパダカ〉で六貫目の薙刀〈ナギナタ〉を振っていた最中憲兵隊から使いが来た。
「実は大谷中佐が参上するところですが、昨日のラジオ放送についての日日〈ニチニチ〉や読売の記事では、閣下が軍部の方が外務省より却って弱気であるといわれたとあるので、軍部内の統制上是非とも伺わねばならないことがあります。ちょっと憲兵隊まで御出頭願いたいと申すのですけれど……」
僕にはぴんとくるものがあった。実際は僕が何もいったわけはないのだから、それは正式に陸軍省からいってきたらいいと開き直れば、正に米内内閣を倒す術中に陥ることになるので、
「参りましょう」
と軽くでた。その憲兵中尉は、僕の毎朝の行事を絶賛したりした。
十一時頃憲兵隊へ着くと大谷〔敬二郎〕中佐が出て来て、
「今日は御昼食を一緒にさせて頂いて、ラジオ放送の経過を伺いたいのです」と笑いながら 云った。
僕はさらさらと総てを話した。そして二人で鰻丼〈ウナドン〉を食べた。三時近い頃、憲兵隊の車で外務省へ送ってくれた。
この事が知れ渡ると大きく響いた。その時である、後の吉田〔茂〕首相も情報部長の室を訪れて、僕を慰問してくれたものである。その後、有田外相と畑陸相とが数回往復した結果、
「外務、陸軍両省間に起ったラジオ放送問題にまつわる噂は、事実無根であり、両省間のわだかまりは円満解決した」
という趣旨の共同発表があって、けりがついた。
けれども、倒閣運動としては、まんまと失敗したので、新たな手が考えられた。
〔※大谷敬二郎著『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)三六九ページによれば、この朝、須磨宅にやってきたのは、佐藤太郎憲兵中尉である。〕
背後に武藤軍務局長
その時の大谷中佐は、その後大佐になり、捕虜虐待などのかどで戦犯に問われたが、全国を逃げ廻り、数年経って女中と隠れているところを逮捕された。
僕が蓼科高原にいた秋のある夕方、諏訪署の刑事が大谷大佐を追跡してきて、僕にその人柄などを訊いたことがあった。世の中は面白いものである。
客観的に見れば一つの小説でもある。ここでも僕は、ものというものは押しつめて考えるものではないと熟々〈ツラツラ〉思わせられる。永い眼でものを見るものだと常に心の中で念願して、修養の一助ともしているが、それはこんな事実からも教えられているのだ。
しかも何の因果か僕もやはり戦犯に指定され、それもAクラスになったのに、首が飛ばずに済んだのは、現在の生ある所以で感激に堪えないが、その理由の一つには、その時僕が憲兵隊に出頭しており、その背後の軍部の立役者が武藤〔章〕中将、当時の軍務局長であったという現実もあったのである。
人間には先きが見えないものだ。
「新方針に横槍」の章は、ここまで。この章の最後で須磨は、自分が憲兵隊に出頭させられた一件の黒幕は、武藤章陸軍省軍務局長だったと述べている。ただし、その根拠は示されていない。
次回は、この章に続く「外交官総て更迭」の章を紹介する。