◎ドイツとの提携は、実に危険なことである(ハル国務長官)
ウィキペディア「須磨弥吉郎」によれば、須磨弥吉郎は、‶1940年12月、「東機関(とうきかん)」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した〟という。
須磨の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)の記述は厳密さに欠けるが、それによれば、スペイン赴任ため横浜を出港したのが、一九四〇年(昭和一五)一二月二八日で、ハワイのホノルルに着いたのが、翌年の元旦。その後、サンフランシスコ、ニューヨーク、バミューダを経由して、ポルトガルのリスボンに着いたのは二月二八日。そこから陸路、スペインのマドリッドに到ったのも同日で、着任は三月一日だったという。
須磨は、同書で、スペインでの情報収集活動についても語っているが、「東機関」については一言も触れていない。
さて本日は、同書の「独との提携懸念」の章(一五四~一五九ページ)を紹介する。この章で須磨は、一九三九年(昭和一四)の八月以降に起きたことを語っている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。
独 と の 提 携 懸 念
欧戦不介入由来
昭和十四年二十日には、僕が満州国大使館に転勤命令を受けた。中国に転じた加藤外松〈ソトマツ〉公使の後を襲うて、新京にある日本大使館の代理大使になるためであった。谷正之の後が加藤外松であったのだ。人間にはよく縁というものがあるらしい。不思議にも加藤外松と僕とは、よく縁がある。
僕がドィツから帰って欧米局に入ったのは、加藤外松が同局第二課長の時であった。それ から僕が北京に行ったのは、加藤外松が北京から天津の総領事になった後であった。官舎も そのまま引受けた、それがまた新京で後釜になるとは面白いものである。
その頃、新京では植村〔彦之丞〕中将が関東軍司令官で、磯谷〈イソガイ〉〔廉介〕少将が参謀長であった。当時は不思議なことだが、満州国に行く外交官は、概して関東軍のアグレマン(同意)を得ねばならない例であった。
日米通商航海条約は、僕の転勤命令があってから一週間で、廃棄を通告されたのだから、堀内〈ホリノウチ〉〔謙介〕駐米大使から、暫く僕を米国に留任させたいと強く電請したが、アグレマンの関係があるというので聴き入れられなかった。僕には急遽満州に行くようにと電命があった。条約廃棄通告の前後通告も急いでまとめた。八月二十八日にはワシントンを発つことに定めた。
〔※「昭和十四年二十日」とあるのは、原文のまま。文脈から、昭和十四年八月二十日のことであろう。堀内謙介駐米大使は、須磨の留任を希望したが、「聴き入れられなかった」という。これは憶測になるが、須磨自身は、満州国での新しい職務に対して、かなり「ヤル気」になっていたのではあるまいか。〕
独接近の危険を指摘
その一週前の二十一日、ハル国務長官を暇乞い〈イトマゴイ〉に訪問した。長官はいつにない能弁である。
「いい時機に帰朝されるのは、米国側でも嬉しく思います」
「それはどういうことですか」
「日米の関係は全く重要な段階にあるのですから、帰られたら御見聞をそのまま政府に伝えられて、両国関係の好転に努められたいのです」
こう云って長官は中国で米国側の受けた損害について委しく陳べ、そのために米国の対日感情は、予想以上悪化していることを率直に陳べたものであった。二十五日にはサムナア・ウェールズ国務次官や、ホーンベック極東部長以下国務省の幹部から送別の宴を張られた。その席上で極東部長は云った。
「日本の最近の傾向は、英米から離れてドイツに親しむようだから、そこに危険があると思 います」
その席に列した人々も、異口同音に、僕が日本に帰ったら、是非この点について重大な注 意を喚起すべきだという趣旨を繰返していた。
元駐日大使もした共和党の外交界ヴェテランであるウィリアム・カッスルにその翌日〔二六日〕会うと、
「極東局のソルスベリイ書記官から昨日の会合のもようを伝聞したが、日本に帰ったら、日 本は英米側と提携することが、最も大切であることを強調して貰い度い〈タイ〉がこのことは強調し過ぎるということはないのです」と云っていた。
〔※ハル国務長官ほか、アメリカ側関係者の須磨に対する期待は大きかった。須磨の実力は、それだけ高く評価されていたのであろう。しかし、その後における須磨の動向を見ると、最終的には彼は、アメリカ側のそうした期待を裏切る形になったと言える。〕
ハル長官再び警告
同じ日〔二六日〕に、当時から米国随一の評論家であったウォルタア・リップマンに会うと、才媛の 名高い夫人と同席で、僕に茶をすすめながら夫妻が交々〈コモゴモ〉云った。「日本は海の国です。海では、米英と提携する外はありません。米英との海の上での諒解があったら、日本の将来は洋々たるものがあるのです」
このことは、かって欧州からの帰途立寄った安岡正篤〈マサヒロ〉君と鼎坐して、世界の問題を論じあった時にも強調した点と同じである。
いよいよ八月廿八日が来た。その午後にワシントンを発つというのに、その朝また特にハ ル長官の需め〈モトメ〉があって外務省に行く。
長官は云った。
「お忙しいところ、しかも御出発の直前お目にかかりたかったのは、もう一度、東京政府へ の切なる申入れをお話し致したかったのです」
こう前置きしてから、暫く間を置いて語をついだ。
「実は平沼〔騏一郎〕内閣では、ドイツとの提携を真剣に考えている様子ですが、これは実に危険なことであります」
「よくわかりますが、特に危険と言われるのは?」
「それははっきりしています。もしヨーロッパに戦乱が起ったら、日本はそれに参加することになる危険が無いとはいえません」
「それでは長官は、ヨーロッパには戦争が必至と思われますか」
「まず、そう見ねばなりません」
長官のこの一言は何時にないはっきりしたものであった。それから、僕の印象に深く刻まれた他の一言は、日本は危険だということである。
〔※ハル国務長官は、日本がドイツと提携することの危険性を強く訴えている。日本がドイツと提携した場合、そのことによって日米間の戦争が起きうること、アメリカはその可能性を視野に入れていることを、ハル長官は、こうした形で「警告」したのではないだろうか。〕
ヒトラーの開戦
僕はその日の午後、二年半住み馴れたワシントンを出発した。九月一日サンフランシスコ に着くと、ヒトラーがいよいよポーランドに侵入して、欧州大戦の幕は切って落されたのだ。
二十八日の会見でハル長官が、僕に対して欧州戦争開始を殆んど肯定していたのは、確か な情報を握っていたのだなと思われた。
長官の最後の会見で二つの言明が印象され。その中の一つの欧州戦争の分は的中したとなると、さて、日本が欧州戦中に入ることに関連しての危険を背負うか、どうかが僕を深く考えさせた。
「日本の危険」も実現するのではないかと、僕は気になった。
サンフランシスコで佐藤敏人総領事のところで松村基樹領事の遺骨を引取った。松村君は僕の南京総領事時代の右腕であった。当時僕と共に南京、上海で働いた人には、前の岡崎〔勝男〕外相、大田一郎タイ国大使、朝海〈アサカイ〉〔浩一郎〕在英公使と並んで四天王の一人といわれ、最も才腕無比で嘱望されていた。贔屓のひきだおしでもないが、ポーランドの領事になったのが因で、そこで自分で運転した自動車事故でこの世を去った。未亡人がその遺骨は是非僕に持ち帰らせたいと待っていたものであった。
大洋丸に、その愛友松村君の遺骨と、日本の危険という長官の言葉とを抱いて僕は日本に 急いだ。欧州不介入を成し遂げたいと念ずる心で一ぱいであった。
「独との提携懸念」の章は、ここまで。次回は、この章に続く「みなぎる強硬論」の章を紹介する。