礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

シベリア鉄道でやって来たヒットラーの密使

2021-09-19 01:52:56 | コラムと名言

◎シベリア鉄道でやって来たヒットラーの密使

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「突然来た独密使」の章(一八五~一九〇ページ)を紹介する。この章では、第二次近衛内閣(1940・7・22~1941・7・16)時代のことが語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    突 然 来 た 独 密 使

 三国同盟由来
 日本の運命を決したのが、日独伊三国同盟であった。その同盟の発端となった日は、昭和十五年〔一九四〇〕九月九日であった。九月九日は偶然にも私の誕生日だ。
 その日の夜九時、東京駅に一人のドイツ人が降り立った。彼はシベリア鉄道でやって来た。 途中の動静一切の新聞掲載を予め〈アラカジメ〉禁止していたので誰一人気づかなかった。
 これに先立つ二日前、九月七日の朝に、松岡〔洋右〕がわざわざ情報部長室にやって来て、
「樺山事務官を大臣秘書官にくれないかね」と云った 
 同事務官は僕の仕事に欠くべからざる役をしていたので、半分はここに置いて欲しいと云った。それでよいこととなったが、結局樺山は、終始松岡の四谷の私宅で仕事するようになった。
 その樺山事務官が、くだんのドイツ人を東京駅に出迎えた。そこにはオット大使だけがいたという。
 この三人が、九時二十分には松岡邸に到着した。その男がまず一片のフルスカップ〔foolscap〕の紙を松岡に渡した。ヒットラーからのメッセージであった。
 たった一頁しか書いてなかったが、それこそ実に三国同盟そのものであり、それがその通り、運命の文書になるのであった。松岡はドイツ語が読めないから、件〈クダン〉の男は英語に飜訳した。
 頭の早い、また事実、頭の鋭くて早いことを他人に示すことを忘れない松岡は、一遍の飜訳でそれを呑み込んだと云った。そして大体その通りの条約を発効期間内に締結しようとさえ云ってしまった。
 このように、この九月九日の夜、九時半から十時五十分までの約一時間半の間に実は、日本の運命が決せられてしまった。この件の男こそスターマー特使であり、後日駐日ドイツ大使になった人である。今はスイスの武器商の東京支配人である。

〔※ここに出てくる樺山事務官とは、樺山資英(一九〇七~一九四七)のことである。同姓同名で、貴族院議員などを務めた樺山資英(一八六九~一九四一)とは別人。また、「松岡の四谷の私宅」とあるが、当時の松岡洋右の自宅は、渋谷区千駄ケ谷にあった。おそらく、須磨の記憶違いであろう。〕

 つんぼ桟敷の首相
 この恐るべき事実は、もちろん極秘にとり運ばれた。近衛〔文麿〕首相も暫くの間は、つんぼ桟敷であった。
 それなのに、僕だけはその九月九日の夜から一切を知ることができた。というのは、樺山資英事務官が毎日一切の電報を読んでは、僕に報告するのが任務であったから、九月九日の 夜も、四谷から帰宅の途中、荻窪に立寄って一日中に起った松岡邸での一切をも報告して行ったからである。
 この一切を例の筋によって知り抜いている僕は、実のところ、こんな恐ろしい三国条約を手にかけることは飽くまで避けたいと思った。近衛首相にも打明けて、再度にわたって阻止してみたが、大勢はもう動かすべくもなかった。

〔※「荻窪に立寄って」とあるのは、荻窪の須磨宅に立ち寄っての意味。〕

 策謀者とみなされる
 僕は予めできていたスケジュールに従った。二十四日の夜東京を出発して、大阪の外交懇談会にでかけたところが、翌二十五日夜、東京から至急電話があり、松岡が自身で出て、僕に夜行で直ぐ帰京しろと云う。二十六日朝帰京して、松岡に会ってみると、翌二十七日には三国同盟も発表してくれとのことであった。
 最後の〔外務省〕情報部長である僕に特に発表させたのも運命であったかも知れない。この経過を終戦後、進駐軍が調べてみた、何としても、僕だけが三国同盟の由来を当初から知り抜いていることが分った。そしてその条約の発表をもしているのだ。
 松岡と並んで、三国同盟の主たる策謀者だと判定した。ここにも理由があって、終戦の年の十二月六日発表された最後のA級戦犯九名の中に、近衛、木戸らと共に僕を連座させたものらしい。そのことは、僕がスペインから帰朝して、連合側の最高検察当局に取調べられた際直感したものである。

〔※松岡は、須磨に近い樺山資英事務官を引き抜き、スターマー特使の出迎えを命じたが、おそらくこれは、外務省情報部長の須磨を三国同盟に関わらせようとした、松岡の策略だったのであろう。はたして須磨は、そうした策略に気づいていたかどうか。気づいていて、あえて策略に乗った見ることもできる。〕

 あやうく断頭台
 そのうちに、キーナンやタヴェナーなどの検事が、
「どうしてあなただけが三国同盟のことを初めから知り抜いていたのですか」
と追及するから、僕は笑った。
「あなたがた検察最高当局ともあろうものは、も少し深く調べておらねばならぬはずです」ともいった。
 この時の問答から、僕を三国同盟の巨魁と誤解しているなと直感したのである。その時僕 は樺山資英事務官にまつわる事実をぶちまけた。彼らは驚きの眼を瞠った〈ミハッタ〉。同時にこれはしまったといった表情をさえ見せた。
「それでは、その樺山君というのは今どこにいますか」
「なんでも、今は相当の重病人で慶応に入院中だと聞いています」
 その翌日慶応病院で、米国検察当局の物々しい臨床訊問が行われた。もちろんのことだが、 樺山答弁が一々僕の陳述に符合したから、検察側は正に一本まいったわけである。その頃、樺山事務官は胃癌であったので、その取調べから間もなく他界した。
 僕も実は連のいい人間である。もし樺山君がもっと早く世を去っていたら、僕が何と証言しても、確かめる術〈スベ〉がないので、あるいは僕も断頭台に送られていたかも知れない。
 運命というものは、本当に細かい、かぼそい一本の絆に支えられているに過ぎないのだ。外交も正にその通りである。
 その細い絆を早く見通すかどうかに、一国の、東洋の、世界の運命が懸って〈カカッテ〉いるのだから、考えると恐ろしくなる。
 僕は今この秘録一章を綴って行くうちに、人生の、外交の、それこそ人事の一切が「剃刀の刃」を渡っていることに気づく。

「突然来た独密使」の章は、ここまで。この章の最後で、須磨は、「あるいは僕も断頭台に送られていたかも知れない」と述べている。須磨は、一九四五年(昭和二〇)一二月に、A級戦犯として逮捕・拘留されたが、それから三年、一九四八年(昭和二三)一二月二四日の発表で、釈放されることになった。ちなみに、この日は、A級戦犯七名の処刑がおこなわれた日の翌日にあたる。この日に釈放の発表があったのは、安倍源基・後藤文夫・岸信介・児玉誉士夫・葛生能久・大川周明・笹川良一を含む十九名であった。須磨が、その十九名のひとりだったということは、それだけ彼が「重要人物」と目されていたことを物語っている。とはいえ、須磨が「断頭台に送られていた」可能性は、まずない。強引に三国同盟を推進した大島浩や白鳥敏夫でも、東京裁判での判決は終身刑だったからである。
 次回は、この章に続く「用意周到な松岡」の章を紹介する。

*このブログの人気記事 2021・9・19(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする