◎なにゆえ余は日独ソの連携に賛成したか(近衛文麿)
近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その四回目。引用にあたっては、漢字による表記を「ひらがな」、「カタカナ」に直すなど、原文に少し手を入れた。
第二、対ソ親善関係の確立
三国同盟の第二の具体目標は、独ソ不可侵条約成立後の独ソ親善関係を更に日ソ関係に拡大して、日ソ国交調整を図り、でき得れば進んで日独ソの連携に持つて行き、これに依りて英米に対する日本の地歩を強固ならしめ、以て支那事変の処理に資せんとすることこれである。
元来余は熱心なる日米国交調整論者であつた。昭和九年〔一九三四〕自ら米国に赴き、朝野の士に親しく懇談したのも、何とかして日米間の問題に解決点を見出し、以て太平洋の平和に貢献せんとする微意にほかならなかつた。
しかしながら事志と違ひ〈タガイ〉、その後日米の国交はただただ悪化の一路をたどり、殊に支那事変以来は両国の国交は極度の行詰りを呈するに至つた。かかる形成となりし以上は、松岡〔洋右〕外相のいへる如くもはや礼譲とか親善希求とかいふ態度のみでは国交改善の余地はない。もちろん日本政府としてはかかる親善希求にのみ終始したわけではない。歴代の外相、殊に有田〔八郎〕、野村〔吉三郎〕両外相は外交の主力を米国政府との直接交渉に向け、日米間最大の問題たる支那問題に関する了解に到達するため惨澹〈サンタン〉たる努力を重ねたのである。
しかしながらこれらの努力も何らの効なく、もはや米国相手の話合の途〈ミチ〉を以てしては、目的を達すること絶望視されるに至つたのである。しかも日本が世界に孤立する危険は刻々に迫つて居た。ここにおいて唯一の打開策はむしろ米国の反対陣営たる独伊と結び、さらにソ連と結ぶことによりて米国を反省せしむるほかはない。独伊だけでは足りない。これにソ連が加はることによりて初めて英米に対する勢力の均衡が成り立ちこの勢力均衡の上に初めて日米の了解も可能となるであらう。即ち日独ソの連携も最後の狙ひは対米国交調整であり、その調整の結果としての支那事変処理であつたのである。
日米国交調整論者なりし余は一面において対ソ警戒論者であつた。対ソ接近を好まざる余が何故〈ナニユエ〉に日独ソの連携に賛成したかといへば上述の如く、当時の形勢においては一方においてむしろかくすることが米国との了解に到達し得べき唯一の途と考へられたのみならず、他方警戒すべきソ連の危険は日本とドイツとが東西よりソ連を牽制することによりて十分緩和し得ると信じたからである。
ドイツは松岡スターマー会談録にもある如く、日ソ国交調整に努力すべく約束し、スターマー特使は帰国後大に努力すべしといふて去つた。かくてドイツは、少くともソ連外相モロトフが、十五年〔一九四〇〕十一月ベルリンを訪問した頃までは日独ソ連携の方向に向つて進んで居たのである。その証拠には当時ドイツよりリッベントロップ腹案なるものが送られて来たのである。即ち左の如し。
日独伊を一方としソ連を他方とする取極〈トリキメ〉を作成し
一 ソ連は戦争防止平和の迅速回復の意味において三国条約の趣旨に同盟することを表明し
二 ソ連は欧亜の新秩序につきそれぞれ独伊および日の指導的地位を承認し三国側はソ連の領土尊重を約し
三 三国およびソ連はおのおの他方を敵とする国家を援助し又はかくの如き国家群に加はらざることを約す
右のほか日独伊ソ連何れも将来の勢力範囲として
日本には南洋、ソ連にはイランインド方面、ドイツには中央アフリカ、イタリーには北部アフリカ
を容認する旨の秘密了解を遂ぐ。
このリ外相〔リッベントロップ外相〕腹案に対しては政府として同意の旨を答へ、リ外相は同年十一月モロトフソ連外相にこれを提示したのである。〈二一~二三ページ〉
ここで近衛は、「日独ソの連携も最後の狙ひは対米国交調整であり、その調整の結果としての支那事変処理であつたのである」と述べている。三国同盟を推進したことを肯定する論理である。すなわち近衛は、ここで、三国同盟を推進したのが自分であったこと、そして、三国同盟の捉えかたが、基本的に松岡外相と同じだったことを、みずから認めているのである。