◎日本は全くバスに乗り遅れてしまう(武藤軍務局長)
須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
本日は、「外交官総て更迭」の章(一八〇~一八五ページ)を紹介する。この章では、米内内閣の崩壊(1940・7・16)と第二次近衛内閣の成立(1940・7・22)について語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。
外 交 官 総 て 更 迭
運命の近衛内閣
米内政府倒閣の爪は磨かれた。〔一九四〇年〕七月七日の日華事変記念日に,有田外相が日比谷公会堂で講演すると、途中で東方会の暴漢が現われて妨害し大混乱を来した。これも下手すると、米内内閣の命取りになるらしかったが、この講演会の主催者だった熊谷〈クマガイ〉〔憲一〕内閣情報部長が、実に機敏に立ち廻った。一も二もなく外相らに対して陳謝して事なきを得た。
こうなると、さすがの軍部にも容易に倒閣に成功する手はなくなった。到頭、畑〔俊六〕大将は陸相として不適当ゆえ、内閣から抜けることが一番手取り早いということになった。
しかしこれは最後の切札なので、まず武藤〔章〕陸軍省軍務局長が、欧州におけるドイツの躍進ぶりを前にして、米内にのんべんだらりと居座られたのでは、日本は全くバスに乗り遅れてしまうという理由で、米内の退陣を要請するために、石渡〔荘太郎〕内閣書記官長を訪問して、その趣を伝えた。
書記官長は言下に断った。国際政局についての観測の相違は不幸なことであるが、それによって退陣するならば、国家に重大な不幸を及ぼすかも知れない。断じて下らない〈サガラナイ〉と言明した。
そこで、武藤は最後の手段に訴えねばならなくなった。畑陸相に迫って辞表を提出させる こととし、遂に畑大将からその意味の手紙を米内首相の手許にだすに至った。
〔※ウィキペディア「熊谷憲一」よれば、熊谷憲一が内閣情報部長になったのは、一九四〇年二月。〕
日本内政の脆弱性
石渡書記官長の筆になる悲壮な退陣声明書が出された。米内内閣は崩壊した。部内の不統一のために退陣すると卒直に陳べた。
その後には、新体制で待っていた近衛内閣〔第二次近衛文麿内閣〕が生れるのだが、組閣に先き立って、松岡〔洋右〕、東条〔英機〕、吉田〔善吾〕の三人がまず枢軸参加の下相談をした。意見が一致したと発表された。それゆえ、この内閣は早急に枢軸に入るのだと知られた。
こうしてみると、米内内閣の倒れたのも、近衛内閣の生れたのも、ヒトラーの戦運が物凄い勢で開けて行くに際しては、日本は躊躇なく枢軸側につかねばならぬという外交理念に依ったのだ。
このように明瞭に日本の外交上の転換が推進されたのは、海外事情が内政に及ぼす影響の一場面とも考えられぬことはないが、それよりも日本内政の脆弱性と浮動性とに帰せねばなるまい。
松岡外相は、この外交の一転機を明確にするため、在外使臣はもとより、在外領事館に至るまで、一応総ざらいに更迭することとした。そしてその後にドイツの大島〔浩〕、イタリーの堀切〔善兵衛〕、アメリカの野村〔吉三郎〕というように部外からも入れると同時に、本省の幹部もこれに当てることにした。
僕はこの間の形勢がよく分っていたので、真先きに松岡外相に辞表を出した。
「君の辞めることは禁ずる。そして君だけは外にでるのを暫く後廻しとして、情報部長をやってもらいたい」というのが松岡の命令であった。
〔※須磨は、外務省情報部長を辞任すべく、松岡外相に辞表をだしたところ、留任を求められた。「松岡の命令」と言っているが、要するに、須磨が松岡の要請を受け入れたということであろう。〕
松岡枢軸外交進む
その頃、外務省の情報部は廃されて、情報局ができることになっており、伊藤述史〈ノブミ〉がこれ主宰することになってから、一日も早くそこに事務を引継ぎたかったが、それさえ許されず、僕は全くおかしなことになった。松岡は東条とは密接な連絡を取りつつ、ぐんぐん枢軸外交の素地をつくった。
九月一日、近衛首相をその私邸である荻外荘〈テキガイソウ〉に訪れた。そして新体制を推進することは、この際やむを得ないとしても、今直ちに枢軸外交に一転することは考えものだと主張した。
近衛首相は、それもそうだが、今となっては致し方ないと応酬した。そしてその底意は、 ドイツは場合によっては勝つだろうという点にあった。
「僕はそう思わない」
「それはどうして?」
「米国の参戦は明らかだからである」
近衛首相は、松岡が米国の参戦は瞹眛だと云っているばかりでなく、その当時ルーズヴェルト大統領が第三回目の出馬をすることは確実だが、当選はあやしく、共和党に負けるかも知れないといっていることを指摘した。
僕は、それは誤算である。ルーズヴェルトは第三回目の立候補すれば、必ず当選するに決まっていると主張した。そして、ルーズヴェルトの「三選は参戦だ」と語呂を面白くして強調した。
「そうかね!」
と首相も半信半疑であった。
〔※「外務省の情報部は廃されて、情報局ができる」とある。ウィキペディア「情報局」によれば、情報局の発足は、一九四〇年(昭和一五)一二月六日で、このとき、内閣情報部、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課の情報事務が、情報局に一本化されたという。〕
強引に渡米の命令
二日の夜、僕が大阪に外交懇談会を開いて話しに行っていると、急に松岡から電話で呼び返された。三日の夜、帰京すると松岡は驚くべきことを云った。
「君は特派使節と早変りして米国に渡り、ルーズヴェルト三選についての情報を集め、大い にわが方に有利にしてはくれないか」
僕はこんなに驚いたことはなかった。実は早速、一日に近術首相に述べた意見の通り「三選は確実で、三選は参戦」であると強調したがきかない。すでに、三井汽船の船足の早い清澄丸〈キヨスミマル〉というのに部屋を二つ取ってある、とさえ云った。僕は極力その愚策であることを述べ、首相にも相談して再考するよう迫った。
皮肉である。四日の朝のニュー・ヨーク電報では、ムッソリーニが特派した某伯爵が、大統領選挙に因んで策謀するために渡米した形跡があるとの廉〈カド〉で、上陸禁止になったと伝えられた。もちろん、松岡はその思い付きの実行を断念した。
この事を嗅ぎつけて二六新報という夕刊紙が特報したので、外人記者会見で問題になった。近衛内閣はこうして、成立すると同時に激浪に曝されていた。それは松岡という爆弾を持っていたばかりでなく、軍部の横車がポンプ仕掛で待っていたからである。
松岡の顔色は特に蒼かった。僕のように、毎朝体操をして、真裸で陽〈ヒ〉にあかくなっているものからみると正気の沙汰ではなかった。
ここまでが、「外交官総て更迭」の章である。次回は、これに続く「突然来た独密使」の章を紹介する。