◎福沢は、眼あって触手なきインテリ
服部之総『随筆集 moods cashey』(真善美社)から、論文「福沢諭吉」を紹介している。本日は、その二回目。
慶 応 義 塾
サラリーマンたりヂャーナリストたる(而も自分で其の点を冷静に自覚し自嘲してさへゐたと思はれる)それまでの福沢の一切の抑圧された情熱が、慶応義塾に向つて、一気にひたむきに放出されたのである。「抑圧された情熱」は彼が豊前中津藩大阪屋敷勤務下級藩吏の二男に生れた時以来、そして百五十俵の旗本格「翻訳職人」の辞表を書く日まで、久しいものである。その間、「門閥は親の敵〈カタキ〉でござる」と心に叫びはしてもついぞ陽に「門閥」と闘つたことのない、固く抑制され、踏晦された魂であつた。これを関東織物業中心地帯の資本家兼地主たり、かつかゝるものをその多彩な「志士」活動の社会的地盤とした渋沢栄一の戊辰前史と比べてみれば、思〈オモイ〉半ばに過ぎるものがあらう。渋沢は中途で「転向」したが、転向前は飽くまで攘夷討幕に、転向後はあくまで佐幕開国に、一身を殉ぜんとした不拘束の前史をもつてゐる。この差を両者の「気質」に求めることの不当なのは維新後その死にいたる二人についてみればよからう。渋沢のごとく自己の政見に向つて不拘束たりうるための社会的地盤から福沢は隔絶してゐたのである。旧幕時代の福沢は典型的な近代インテリでありしかも他から独自化せるインテリであつた。
幕末政情に対する福沢諭吉のその時々の政見は資料が示す限りに於て相当透徹せるものであつた。上出「唐人往来」(全集第一巻「序」)は「西洋事情」よりも遥かに平俗に書かれたものだが中に盛られた自由主義的開国論は構成完備してゐる。文久二年〔1862〕渡欧の船中で松木弘安〈コウアン〉(後の寺島宗則)らに向ひ「とても幕府の一手持は六つかしい。先づ諸大名を集めて、独逸連邦のやうにしては如何」と述べ(「自伝」)幕府を首班とする大名連邦論が右派綱領として日程にのぼつた慶応度〈ド〉にいたると「(大名)同盟の説行はれ候はゞ随分国はフリーにも可相成候得共〈アイナルベクソウラエドモ〉、This Freedom is, I know, the Freedom to fight among Japanese. 如何様〈イカヨウ〉相考へ候ふとも、モナルキに無之〈コレナク〉候て〈ソウライテ〉は、唯々大名同志のカジリヤイ〔齧り合い〕にて、我が国の文明開化は進み申さず云々」(慶応二年十一月七日附、福沢英之助への書翰、「福沢諭吉伝」第一巻)と記し、いづれもその時期にとつては現実的なラディカルな政見を抱懐したのである。にも拘はらず彼自身は遂に何一つ現実的でもラディカルでもなかつた。といふのも彼は自己の政見が実現さるゝための如何なる可能性も、いかなる勢力も、内外にこれを認むることを得なかつたし、又触知しうるための能動性を自ら欠いてゐたからである。
当時――右の手紙を福沢が書きつゝあつたころ、西南倒幕派は既に攘夷のスローガンを撤去し、「大名同盟」の右派綱領に悉く反対して福沢の云所〈イワユル〉「モナルキ」〔monarchy〕のために着々道を舗き〈シキ〉つゝあつた。然も福沢にとつて西南倒幕派はいつまでも「彼らが取つて代つたらお釣の出るやうな攘夷家」(「自伝」)として映じ、緒方塾時代の同窓村田蔵六〈ゾウロク〉(大村益次郎)の如き死ぬまで福沢の目には「云々の攘夷家」である。所詮眼あつて触手なき、福沢はインテリであつた。
幕末日本の中に現実的に一切の曙光を見失つている彼は、彼自身の内部に凡ゆるものを――そして彼自身の内部は「西洋」の中にすべてのものを、期待しなければならぬ。もとよりこの事は彼が終世さうであつたやうに当時から熱烈な「愛国者」であつたことゝ矛盾しない。矛盾しないばかりか、彼の現実の一切の情熱はこの矛盾の統一という一事に向つて、然りあまりにインテリ的な非政治的な、それだけ機械的で空想的でロマンチックな統一のために、ひた押しに注がれた。慶応義塾の創立がそれである。教育によつて日本人の頭を改造することから始めやうといふのが、幕末変革期の一切物に絶望した彼の悲壮なる結論であつた。
鳥羽伏見に敗走した将軍慶喜東帰して、江戸城内外戦火を予期して沸騰するさなかから、芝新銭座〈シバシンセンザ〉に「慶応義塾」が産声をあげた。動乱最中〈サナカ〉とて地所も材料も労賃も馬鹿安にあがつたとはいへ、出費は悉く印税を蓄積した私財を以つて成つた。彼が一生その「権利」のために戦つた「生命及び財産」の一切をあげて、明日は兵火に焼けるかもしれぬ一洋学道場の建設に敢へて捧げたのである。この時はじめて彼は、昨日までの中津藩小吏としての、「翻訳職人」の旗本としての、投機的著訳業者としての、無力な灰色のインテリとしての抑圧された久しき存在から解放され、信念に向つて不拘束なるすべての瞬間が約束する愉悦と感激の人たりえた。
彼の目には幕府以上の「非文明」の権化にすぎない官軍参謀村田蔵六が、湯島の岡から上野の森に大砲をぶつ放しつゝある時、有名な「出島」演説が塾で聞かれた。「昔し昔し拿破翁〈ナポレオン〉の乱に和蘭〈オランダ〉国の運命は断絶して本国は申するに及ばず印度地方まで悉く取られて仕舞つて国旗を挙げる場所がなくなつた所が世界中纔か〈ワズカ〉に一箇処を残したソレは即ち日本長崎の出島である、シテ見ると此慶応義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつてもいまだ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である世間に頓着するな」(「自伝」)。
いまは踏晦のためでなく主張のための、抑圧された魂でなく不拘束の魂の吐く――政治的無関心! 情熱やよし、結局はしかし、中世と現代を逆に組立てた場合のドン・キホーテの情熱にすぎなかつた。彼にはまだ、この精神的昂揚の最高の瞬間に於いても、背後には何一つ現実的な勢力は見出されてなかつた。〈65~71ページ〉【以下、次回】
服部之総『随筆集 moods cashey』(真善美社)から、論文「福沢諭吉」を紹介している。本日は、その二回目。
慶 応 義 塾
サラリーマンたりヂャーナリストたる(而も自分で其の点を冷静に自覚し自嘲してさへゐたと思はれる)それまでの福沢の一切の抑圧された情熱が、慶応義塾に向つて、一気にひたむきに放出されたのである。「抑圧された情熱」は彼が豊前中津藩大阪屋敷勤務下級藩吏の二男に生れた時以来、そして百五十俵の旗本格「翻訳職人」の辞表を書く日まで、久しいものである。その間、「門閥は親の敵〈カタキ〉でござる」と心に叫びはしてもついぞ陽に「門閥」と闘つたことのない、固く抑制され、踏晦された魂であつた。これを関東織物業中心地帯の資本家兼地主たり、かつかゝるものをその多彩な「志士」活動の社会的地盤とした渋沢栄一の戊辰前史と比べてみれば、思〈オモイ〉半ばに過ぎるものがあらう。渋沢は中途で「転向」したが、転向前は飽くまで攘夷討幕に、転向後はあくまで佐幕開国に、一身を殉ぜんとした不拘束の前史をもつてゐる。この差を両者の「気質」に求めることの不当なのは維新後その死にいたる二人についてみればよからう。渋沢のごとく自己の政見に向つて不拘束たりうるための社会的地盤から福沢は隔絶してゐたのである。旧幕時代の福沢は典型的な近代インテリでありしかも他から独自化せるインテリであつた。
幕末政情に対する福沢諭吉のその時々の政見は資料が示す限りに於て相当透徹せるものであつた。上出「唐人往来」(全集第一巻「序」)は「西洋事情」よりも遥かに平俗に書かれたものだが中に盛られた自由主義的開国論は構成完備してゐる。文久二年〔1862〕渡欧の船中で松木弘安〈コウアン〉(後の寺島宗則)らに向ひ「とても幕府の一手持は六つかしい。先づ諸大名を集めて、独逸連邦のやうにしては如何」と述べ(「自伝」)幕府を首班とする大名連邦論が右派綱領として日程にのぼつた慶応度〈ド〉にいたると「(大名)同盟の説行はれ候はゞ随分国はフリーにも可相成候得共〈アイナルベクソウラエドモ〉、This Freedom is, I know, the Freedom to fight among Japanese. 如何様〈イカヨウ〉相考へ候ふとも、モナルキに無之〈コレナク〉候て〈ソウライテ〉は、唯々大名同志のカジリヤイ〔齧り合い〕にて、我が国の文明開化は進み申さず云々」(慶応二年十一月七日附、福沢英之助への書翰、「福沢諭吉伝」第一巻)と記し、いづれもその時期にとつては現実的なラディカルな政見を抱懐したのである。にも拘はらず彼自身は遂に何一つ現実的でもラディカルでもなかつた。といふのも彼は自己の政見が実現さるゝための如何なる可能性も、いかなる勢力も、内外にこれを認むることを得なかつたし、又触知しうるための能動性を自ら欠いてゐたからである。
当時――右の手紙を福沢が書きつゝあつたころ、西南倒幕派は既に攘夷のスローガンを撤去し、「大名同盟」の右派綱領に悉く反対して福沢の云所〈イワユル〉「モナルキ」〔monarchy〕のために着々道を舗き〈シキ〉つゝあつた。然も福沢にとつて西南倒幕派はいつまでも「彼らが取つて代つたらお釣の出るやうな攘夷家」(「自伝」)として映じ、緒方塾時代の同窓村田蔵六〈ゾウロク〉(大村益次郎)の如き死ぬまで福沢の目には「云々の攘夷家」である。所詮眼あつて触手なき、福沢はインテリであつた。
幕末日本の中に現実的に一切の曙光を見失つている彼は、彼自身の内部に凡ゆるものを――そして彼自身の内部は「西洋」の中にすべてのものを、期待しなければならぬ。もとよりこの事は彼が終世さうであつたやうに当時から熱烈な「愛国者」であつたことゝ矛盾しない。矛盾しないばかりか、彼の現実の一切の情熱はこの矛盾の統一という一事に向つて、然りあまりにインテリ的な非政治的な、それだけ機械的で空想的でロマンチックな統一のために、ひた押しに注がれた。慶応義塾の創立がそれである。教育によつて日本人の頭を改造することから始めやうといふのが、幕末変革期の一切物に絶望した彼の悲壮なる結論であつた。
鳥羽伏見に敗走した将軍慶喜東帰して、江戸城内外戦火を予期して沸騰するさなかから、芝新銭座〈シバシンセンザ〉に「慶応義塾」が産声をあげた。動乱最中〈サナカ〉とて地所も材料も労賃も馬鹿安にあがつたとはいへ、出費は悉く印税を蓄積した私財を以つて成つた。彼が一生その「権利」のために戦つた「生命及び財産」の一切をあげて、明日は兵火に焼けるかもしれぬ一洋学道場の建設に敢へて捧げたのである。この時はじめて彼は、昨日までの中津藩小吏としての、「翻訳職人」の旗本としての、投機的著訳業者としての、無力な灰色のインテリとしての抑圧された久しき存在から解放され、信念に向つて不拘束なるすべての瞬間が約束する愉悦と感激の人たりえた。
彼の目には幕府以上の「非文明」の権化にすぎない官軍参謀村田蔵六が、湯島の岡から上野の森に大砲をぶつ放しつゝある時、有名な「出島」演説が塾で聞かれた。「昔し昔し拿破翁〈ナポレオン〉の乱に和蘭〈オランダ〉国の運命は断絶して本国は申するに及ばず印度地方まで悉く取られて仕舞つて国旗を挙げる場所がなくなつた所が世界中纔か〈ワズカ〉に一箇処を残したソレは即ち日本長崎の出島である、シテ見ると此慶応義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつてもいまだ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である世間に頓着するな」(「自伝」)。
いまは踏晦のためでなく主張のための、抑圧された魂でなく不拘束の魂の吐く――政治的無関心! 情熱やよし、結局はしかし、中世と現代を逆に組立てた場合のドン・キホーテの情熱にすぎなかつた。彼にはまだ、この精神的昂揚の最高の瞬間に於いても、背後には何一つ現実的な勢力は見出されてなかつた。〈65~71ページ〉【以下、次回】
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