礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

服部之総の「福沢諭吉」(1934)を読む

2024-11-01 00:01:13 | コラムと名言
◎服部之総の「福沢諭吉」(1934)を読む

 ここでまた、服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)を採り上げる。
 同書には、計10本の随筆が収められているが、その四番目に置かれているのは、「福沢諭吉」である。「随筆集」に収録されているが、これは、レッキとした論文である。
 岩波文庫『黒船前後・志士と経済他十六篇』の解題によれば、「福沢諭吉」の初出は『歴史科学』の1934年(昭和9)12月号という(原題は、「福沢諭吉前史」)。三回に分けて紹介したい。

     福 沢 諭 吉

      著 述 家
 慶応二年〔1866〕丙寅初冬附「西洋事情」初篇は出版後一年間の売捌高〈ウリサバキダカ〉だけで、正版偽版とりまぜ十万部のうへにのぼつた。福沢諭吉生誕百年祭を祝ふけふび〔今日日〕、日本の出版屋にとつて涎〈ヨダレ〉の垂れる記録である。同書二篇(明治二年〔1869〕)で紹介されたウエーランド「経済要論」はこの年までにアメリカで二十数版を重ねた教科書だが、その二十数版の総部数はわずか五万、その五万を捌いた年月は三十年にわたつてゐる。当年日本のプブリクム〔publicum〕は、「西洋事情」の部数によれば、国際的に見ても驚異的な比率であらう。
 けれどもこのとき著者福沢諭吉は、一年十万の洪水的読者層からは、完全に無縁な一介の文筆家であつた。「無縁な」といふのは政治的に無縁なる意味である。「西洋事情」(全集第一巻)初篇三巻は「独り洋の文学技芸を講究するのみにてその各国の政治・風俗如何を詳かにせざれば、仮令ひ〈タトイ〉、その学芸を得たりとも、その経国の本に反ら〈カエラ〉ざるを以つて、啻に〈タダニ〉実用に益なきのみならず、却つて害を招かんも、亦計るべからず」といふ立場から、「英亜開版の歴史地理誌数書を閲し〈ケミシ〉中に就いて西洋列国の条を抄約し、毎条必ずその要を掲げて史記、政治、海陸軍、銭貨出納〈センカスイトウ〉の四目と為し、即ち史記以つて時勢の沿革を顕はし、政治以つて国体の得失を明かにし、海陸以つて武備の強弱を知り、銭貨出納以つて政府の貧富を示」したものである。これに、文久元年〔1861〕渡欧に際して見聞した西洋一般の風俗制度の解説紹介を巻頭に附したものが「西洋事情」初篇三巻である。福沢の書は宿屋の客引〈キャクヒキ〉案内にすぎぬものという蔭口が、慶応三年〔1867〕版「西洋旅案内」を中心としたものであらうと、これとかれと、つとめて政治的無関心を装うた上で何の差があらう。諭吉自身が抱懐する政治的見解はこの書のすべての頁から最大の注意を以て隠匿された。逆に諭吉の自由主義的徹底開国論が宣伝されてゐる「唐人往来」は、「江戸鉄砲洲〈テッポウズ〉某」の匿名で、而も版行されず写本として、幾分流布されたのみであつた。「西洋事情」初篇三巻がこの「唐人往来」と同時代に――文久度〈ド〉帰朝後起稿されたものであることは高橋誠一郎氏の考証(「福沢先生伝」)がある。一方を遂に版行せず、他方を而も慶応二年冬まで待つて版行した。すでに佐幕派にとつても倒幕派にとつても、「西洋事情」は自家政見のための辞引〈ジビキ〉であり、語彙であつた。一方偽装されたこの書の政治的無関心と、他方倒幕派そのものから「攘夷」のスローガンを陰に抛棄させた「慶応」度必至の内外諸政情と、相まつて驚異的な十万の読者大衆をこの書に獲得させたのである。
無表情のまゝ日々江戸城内の外国方翻訳御用所へ出勤し、帰れば福沢塾で英語を教へ、佐幕派の人間とも倒幕派の人間とも交際はあるが、政治的にはまるで関係しない。「徳川の政府に雇はれたからと云た所が是れはいはゞ筆執る翻訳の職人で……只職人の積りで居るのだから政治の考と云ふものは少しもない」(「自伝」)。ひとり踏晦〈トウカイ〉しながらせつせと印税を稼いだ。
 「西洋事情」初篇三巻 慶応二年初冬
 「雷銃操作」     慶応三年四月
 「西洋旅案内」    同年七月
 「条約十一国記」   同年十一月
 「訓蒙窮理図解」   同年十二月
 「西洋衣食住」(筆名片山淳之助)同年十二月
 「西洋事情」外篇三巻 同年四月〔ママ〕
 「兵士懐中便覧」   慶応四年〔1868〕七月
 「洋兵明鑑」     明治元年〔1868〕晩冬
「彼の著作は、今浩瀚〈コウカン〉なる十七巻の全集として行はれてゐるが、其内容を検し〈ケミシ〉て見るとその著述の多種多方面なること実に驚くの外はない。彼れは当時西洋の事情に対して殆ど無智識であつた日本人に向つて、世界の地理と歴史とを教へ、物理科学を教へ、天文学の初歩を教へ……小銃射撃から攻城野戦の法をまで教へたのである。一例をいふと、往年日本の陸軍の小銃に改良を加へた有名な村田〔経芳〕少将という銃法の大家があるが、此人の如きも亦た射撃の事は始め福沢の著書に依て学んだといふことである。一人の学者著述家が、独りでこれ丈け多種多様の仕事をするといふことは、今後に於ては全く不可能ではないかと思ふ」(小泉信三氏、「英訳福翁自伝」の序、中央公論昭和八年〔1933〕十月号)
 その通りたり、それ以上たり。
 この多方面の訳著は、今日の凡ゆる投機的訳著業者の場合と全く同様に、決して偶然の配列をもつものではない。「西洋事情」続篇の筆を休めて、時到らば「雷銃操作」の翻訳にかゝらねばならない。「先生がこの書を翻訳された由来は、当時長州征伐のことあり、長州方は小人数で且農兵などを使用したが、其武器は新式であつて、なかんづくライフルの如き、その勢〈イキオイ〉当るべからず、徳川方の敗戦は全くこれがためだとの評判であつた。先生これを聞き、近いうちに日本国中にライフルの流行を見るであらう。何とかしてライフルの事を書いた原書を得たい……(「福沢諭吉伝」)」。そこで、芝口〈シバグチ〉和泉屋善兵衛店で偶然ライフルに関する古本「原書」を入手した日から異常な苦心がはじまるのである。
 このライフル本は大いにあたつて発売数幾万にのぼつた。ついで「慶応四年」七月付「兵士懐中便覧」は東北連合軍のため仙台で版行され、これと戦ふべき官軍熊本藩の依頼によつて大至急で翻訳上梓された「洋兵明鑑」には「明治元年晩冬」の序文が附せられてゐるといふ風で、着想自在、度胸もふんべつも満点のヂャーナリストであつた。
 因みに〈チナミニ〉この種軍事物は、十七巻の全集中、この内乱期を除いてはたゞ一部安政四年〔1857〕緒方塾でへんな動機で脱稿して「全集」で始めて活字になつた「築城書百爾〈ペル〉之記」全六冊があるだけだ。〈59~65ページ〉【以下、次回】 

「西洋事情」外篇三巻の刊行年月が「同年四月」となっているが、ここは、「慶応四年八月以前」などとすべきところであった。

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