◎明治4年7月、維新政府は初めて強固な安定を見た
服部之総『随筆集 moods cashey』(真善美社)から、論文「福沢諭吉」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
『福 沢 諭 吉』
今日その生誕百年祭が祝はれてゐる「福沢諭吉」は、明治四年〔1971〕以後の福沢諭吉である。あの、りん然として調子の高い「学問のすゝめ」以降の福沢である。
「学問のすゝめ」はひとしく不拘束なるものである。そこには併し、背後に確乎たる一〈ヒトツ〉の社会的基盤が脈づいてゐる。そればかりではない、一つの明確な政治的指向がある。時の政権の将来に対する満腹の同情と信頼があり、鞭韃がある。
錦旗〈キンキ〉東京城に飜つてのちも、福沢の心事は暗く閉ぢがちであつた。「出島」演説の日のごとく昂揚するすぐあとから、子供を坊主にしやうかとまでひとりで沈みきつた。
「その時の私の心事は実に淋しい有様で人に話したことはないが今打明けて懺悔しませう、維新前後無茶苦茶の形勢を見てとてもこの有様では独立は六つかしい他年一日〈イチジツ〉外国人から如何なる侮辱を被る〈コウムル〉かも知れぬ、さればとて今日全国中の東西南北何れを見るも共に語る可き人はない、自分一人では勿論何事も出来ず亦その勇気もない、実に情ない事であるが、いよいよ外国人が手を出して跋扈〈バッコ〉乱暴と云ふときには自分は何とかして其禍〈ワザワイ〉を避けるとするも行く先きの永い子供は可愛さうだ、一命にかけても外国人の奴隷にさしたくない或は耶蘇宗〈ヤソシュウ〉の坊主にして、政事人事の外に独立させては如何、自力自食して他人の厄介にならず其身は宗教の坊主と云ヘば自から〈オノズカラ〉辱しめを免がるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心はなくして子を思ふの心より坊主にしやうなどゝ種々無量に考へた事があるが」(「自伝」)
政府内部と云はず、維新後の革命と反革命、開化非開化の嵐は明治四年まで上下を吹きまくつて、安定することがなかつた。福沢にとつて暗殺の不安が一番大きかつたのは明治三年〔1970〕で、村田蔵六がその前年凶刃に斃れたのも福沢の驚きまでにも反動非開明派の手でやられたのである。
明治四年七月、維新政府ははじめて一応強固な安定を見た。それと共に廃藩置県以下の開明的諸変革の大波が、堤〈ツツミ〉を切つてはんらんした。福沢にとつてはたゞ寝耳に水である。いかに瞠目して始めて「政治」を彼は凝視したか! そして歓喜したか!
「俗に云ふ悪に強きは善にも強しの諺に漏れず、昨日までの殺人暴客は今日の文明人となり、青雲に飛翔して、活発磊落〈ライラク〉、云ふとして実行せざるはなく、実行して功を奏せざる事はなし。傍観の吾れ吾れにおいても拍手、快と称す」(「全集」緒言)。
「当時、洋学者流の心事を形容すれば、恰も〈アタカモ〉自分に綴りたる筋書を芝居に演じて、其の芝居を見物するに異ならず、因より〈モトヨリ〉役者と作者と直接の打合せもなければ、双方とも隔靴の憾み〈ウラミ〉はあるべきなれども、大体の筋に不平を見たることなし」(「福翁百話」)。
福沢とその「塾」とのこの日までの悲壮なる主観如何はべつとして、それなしにも維新政権とその施政はありしがまゝの姿をとつたにちがいない。史家は誰しも見らることである。
だからといつてこのときの「作者」としての福沢の自得を笑止がる〔わらう〕権利もまた史家のものでない。なぜならこの日の自得こそ今日「福沢諭吉」百年祭を祝はせるための現実の契機となつてゐるものだ。福沢が旧幕以来あれほど桑原がつた〔避けた〕ところの「政治」に、就中〈ナカンズク〉禁物視した維新政権――大久保〔利通〕に、伊藤〔博文〕・井上〔馨〕・大隈〔重信〕に近づくための第一直接の契機はたゞこれに在つた。福沢がインテリたり、ドン・キホーテたる旧境を一躍揚棄できた飛込台はこれであつた。
あとはすべてそこからの当然の帰結にすぎない。『学問のすゝめ』はいはゞ実践期としての福沢の後史をマークする宣言書である。「慶応義塾」もまたその使命を当然に変更した。それはもはや単なる「洋学」のためのロマンチックな「出島」ではなく、新興日本資本主義の基盤部分にむかつて、ついで上層建築に向つて、簇々〈ソウソウ〉と有為新進の担当者を送りこむためのベース・キャムプとなつた。
彼の後史は研究さるべき余白をなほ存分に残してゐる。一応後史を見た目からもいちど前史をふり返るとき、明治四年以前の諸論策中殊に経済学に関する部分――チェンバーに拠つた「西洋事情」外篇、ウエーランドによった「西洋事情」第二篇、其他が興味あるものとして映じてくる。まだ生気を失つてゐないこれら初期俗流経済学の「エレメント」が、政治に関心なき前史時代いかに素朴に主張され、後史時代にいたつていかに拙劣に――同時に切実に――変形されていつたかを見ることが出来る。ひとり経済学ばかりではない。薬味箪笥のごとく万能な彼の「文明」思潮のあらゆる領域について前史から後史を区別するためのいくつかの屈折点が認められるであらう。〈71~76ページ〉
「明治四年七月、維新政府ははじめて一応強固な安定を見た」とある。この年の7月14日(旧暦)に、廃藩置県の詔書が下されたことを指している。
服部之総『随筆集 moods cashey』(真善美社)から、論文「福沢諭吉」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
『福 沢 諭 吉』
今日その生誕百年祭が祝はれてゐる「福沢諭吉」は、明治四年〔1971〕以後の福沢諭吉である。あの、りん然として調子の高い「学問のすゝめ」以降の福沢である。
「学問のすゝめ」はひとしく不拘束なるものである。そこには併し、背後に確乎たる一〈ヒトツ〉の社会的基盤が脈づいてゐる。そればかりではない、一つの明確な政治的指向がある。時の政権の将来に対する満腹の同情と信頼があり、鞭韃がある。
錦旗〈キンキ〉東京城に飜つてのちも、福沢の心事は暗く閉ぢがちであつた。「出島」演説の日のごとく昂揚するすぐあとから、子供を坊主にしやうかとまでひとりで沈みきつた。
「その時の私の心事は実に淋しい有様で人に話したことはないが今打明けて懺悔しませう、維新前後無茶苦茶の形勢を見てとてもこの有様では独立は六つかしい他年一日〈イチジツ〉外国人から如何なる侮辱を被る〈コウムル〉かも知れぬ、さればとて今日全国中の東西南北何れを見るも共に語る可き人はない、自分一人では勿論何事も出来ず亦その勇気もない、実に情ない事であるが、いよいよ外国人が手を出して跋扈〈バッコ〉乱暴と云ふときには自分は何とかして其禍〈ワザワイ〉を避けるとするも行く先きの永い子供は可愛さうだ、一命にかけても外国人の奴隷にさしたくない或は耶蘇宗〈ヤソシュウ〉の坊主にして、政事人事の外に独立させては如何、自力自食して他人の厄介にならず其身は宗教の坊主と云ヘば自から〈オノズカラ〉辱しめを免がるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心はなくして子を思ふの心より坊主にしやうなどゝ種々無量に考へた事があるが」(「自伝」)
政府内部と云はず、維新後の革命と反革命、開化非開化の嵐は明治四年まで上下を吹きまくつて、安定することがなかつた。福沢にとつて暗殺の不安が一番大きかつたのは明治三年〔1970〕で、村田蔵六がその前年凶刃に斃れたのも福沢の驚きまでにも反動非開明派の手でやられたのである。
明治四年七月、維新政府ははじめて一応強固な安定を見た。それと共に廃藩置県以下の開明的諸変革の大波が、堤〈ツツミ〉を切つてはんらんした。福沢にとつてはたゞ寝耳に水である。いかに瞠目して始めて「政治」を彼は凝視したか! そして歓喜したか!
「俗に云ふ悪に強きは善にも強しの諺に漏れず、昨日までの殺人暴客は今日の文明人となり、青雲に飛翔して、活発磊落〈ライラク〉、云ふとして実行せざるはなく、実行して功を奏せざる事はなし。傍観の吾れ吾れにおいても拍手、快と称す」(「全集」緒言)。
「当時、洋学者流の心事を形容すれば、恰も〈アタカモ〉自分に綴りたる筋書を芝居に演じて、其の芝居を見物するに異ならず、因より〈モトヨリ〉役者と作者と直接の打合せもなければ、双方とも隔靴の憾み〈ウラミ〉はあるべきなれども、大体の筋に不平を見たることなし」(「福翁百話」)。
福沢とその「塾」とのこの日までの悲壮なる主観如何はべつとして、それなしにも維新政権とその施政はありしがまゝの姿をとつたにちがいない。史家は誰しも見らることである。
だからといつてこのときの「作者」としての福沢の自得を笑止がる〔わらう〕権利もまた史家のものでない。なぜならこの日の自得こそ今日「福沢諭吉」百年祭を祝はせるための現実の契機となつてゐるものだ。福沢が旧幕以来あれほど桑原がつた〔避けた〕ところの「政治」に、就中〈ナカンズク〉禁物視した維新政権――大久保〔利通〕に、伊藤〔博文〕・井上〔馨〕・大隈〔重信〕に近づくための第一直接の契機はたゞこれに在つた。福沢がインテリたり、ドン・キホーテたる旧境を一躍揚棄できた飛込台はこれであつた。
あとはすべてそこからの当然の帰結にすぎない。『学問のすゝめ』はいはゞ実践期としての福沢の後史をマークする宣言書である。「慶応義塾」もまたその使命を当然に変更した。それはもはや単なる「洋学」のためのロマンチックな「出島」ではなく、新興日本資本主義の基盤部分にむかつて、ついで上層建築に向つて、簇々〈ソウソウ〉と有為新進の担当者を送りこむためのベース・キャムプとなつた。
彼の後史は研究さるべき余白をなほ存分に残してゐる。一応後史を見た目からもいちど前史をふり返るとき、明治四年以前の諸論策中殊に経済学に関する部分――チェンバーに拠つた「西洋事情」外篇、ウエーランドによった「西洋事情」第二篇、其他が興味あるものとして映じてくる。まだ生気を失つてゐないこれら初期俗流経済学の「エレメント」が、政治に関心なき前史時代いかに素朴に主張され、後史時代にいたつていかに拙劣に――同時に切実に――変形されていつたかを見ることが出来る。ひとり経済学ばかりではない。薬味箪笥のごとく万能な彼の「文明」思潮のあらゆる領域について前史から後史を区別するためのいくつかの屈折点が認められるであらう。〈71~76ページ〉
「明治四年七月、維新政府ははじめて一応強固な安定を見た」とある。この年の7月14日(旧暦)に、廃藩置県の詔書が下されたことを指している。
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