礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

コトバは、一元両儀三才四大五行十界百科万有にわたる

2024-11-08 00:17:28 | コラムと名言
◎コトバは、一元両儀三才四大五行十界百科万有にわたる

 山中襄太『国語語源辞典』(校倉書房、1976)から、「序論」を紹介している。本日は、その二回目で、第5項から第8項までを紹介する。

5.国語辞典は語源を説明しないという変態
 言語起源論と語源学とはまったく別物であるから,西洋では語源の研究はその後もさかんに行われて,多くの研究もでたし,多くの語源辞典もでた。また語源辞典と銘打たない普通の辞書でも,語源説明をつけることを本態としている。にもかかわらず,日本では一部の語源辞典らしいものもないといってもよく,また普通の国語辞典も「語源説明をつけない」ことを本態としているのである。こういう変態的な国語辞典が,まるで本態であるかのような大きな顔をしてまかり通っているのである。こういうことは,りっぱな語源辞典や国語辞典を持っている欧米諸国に対して,日本の国の恥ではないかと思われる。しかしそれを国の恥とも思わず,学界の無責任とも思わず,学者も自らを反省せず,国民も学者を責めず,それでおたがいにのほほんとしていられる日本という国は,実にありがたい国なのか,それとも悲しむべき国なのか。
6.民間人だけが語源を研究
 そういう変態的学界だから,語源をまともに研究しようとする人は,アカデミックな,オーソドックスを以て任じている学者の中には,ほとんどなかったのである。馬鹿といわれ,気遠いといわれながらも,語源研究をやっている人は,民間の野人である。地位も肩書もなく,学閥師弟の関係もなく,したがって誰に遠慮も会釈もなぐ気兼ね引け目もなく,学界のタブーの束縛も受けない自由な立場にある人たちである。
7.語源源研究には雑学が必要
 こういう人たちは,だいたいレッキとした学歴もなく,地位も肩書もなく,名声もなく,多くは貧賤発奮,自習独学,迂路〈ウロ〉曲進,八宗兼学,雑学専門といった,いわゆる「八百屋先生」が多いらしい。およそ語源というものは,言語学や国語学だけではどうにもならない面がたぶんにある。そういう専門の学問以外に,浅くとも,広い外国語の知識と,さらに進んでは,あらゆる文化科学,自然科学の一般に,知識とはいえないまでも,関心と,興味と,理解とを持っていることが望ましい。たとえば神話,伝説,民俗,民族,宗教,史学,考古学,文学,音楽,美術,工芸,芸能,職業など人事百般から,自然現象,自然科学の概略,すなわち,天文星辰から地理,地学,動植拡物,いわゆる山川草木にいたるまで,一元,両儀,三才,四大,五行,十界,百科,万有に通じていることが望ましい。コトバというものは,そういうもののすべてにわたっているからである。
8.深い専門よりも広い雑学
 しかしアカデミックな国語学者や言語学者は,その専門の学問に対しては,たしかに誰よりも造詣が深く,見識が高く,たしかに大家ではあろうが,語源に関してはどうであろう。また上述のいろいろの学問の分野に対する造詣はどうであろう。専門以外のことを知らないのが,かえってその専門に対する造詣が深いことを示すかのようなふりをなさる学者もないではなく,世間にもまたそんなふうに考える人もあるらしい。しかしこと語源研究に関しては,浅学ではあっても,しかし浅学の博学であることが望ましい。微視的に深いよりも,浅くとも巨視的であることが要求される。一品専売の専門店よりも,何でも売っている雑貨店,雑学専門の「八百屋先生」が適任であるらしい。〈4~5ページ〉【以下、次回】

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