礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

午前中という時刻はない(田中光顕)

2018-03-24 06:33:43 | コラムと名言

◎午前中という時刻はない(田中光顕)

 本日は、政教社(静岡市深草)から刊行されていた月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介してみたい。
 山雨楼主人とは、ジャーナリストにして歴史研究家であった村本喜代作〈ムラモト・キヨサク〉の筆名である。ここで、「宝珠荘の偉人」とは、明治・大正・昭和の政治家で、静岡県蒲原町〈蒲原町〉に居を構えていた田中光顕〈ミツアキ〉を指す。

 静岡県近代人物考(11) 山 雨 楼 主 人
政治家の巻(6)
(山雨楼主人著「交友七十年」より)

 宝珠荘の偉人
 私と田中光顕とは、静岡民友新聞時代、その紙上に連載中の「書画道」と題する私の随筆を、毎日愛読しておった田中が、熊沢一衛〈イチエ〉(静岡電鉄KK専務)の秘書であった広瀬倹三(広瀬修造の実兄)を通じて一度逢いたいという伝言があったので、大正十四年〔一九二五〕五月十八日、広瀬を先導として蒲原の宝寿荘〈ホウジュソウ〉に彼を訪問したのが、私と田中との初対面である。広瀬は熊沢の芝川時代からの股肱〈ココウ〉であったが、酒仙という言葉がその侭〈ママ〉当はまる〈アテハマル〉男で、酔っ払って汽車に乗るとすぐ眠る癖があり、乗越しの常習者であった為、東海道筋の駅長で広瀬を知らぬものはない程の有名人になった。それでも熊沢は彼を重用して、枢要機密の仕事はすべて広瀬に任せていた。一体どうして熊沢があの呑ン兵衛〈ノンベエ〉を信用するのかと不思議に思う人が多かったが、ある時熊沢は、広瀬に関する秘話を紹介して人々のこの疑問を解いた。
「広瀬は安城〈アンジョウ〉の駅夫から辛棒して、遂には浜松駅の小荷物主任にまで昇進したが、是非民間の実業会社に入りたいというので、つて〔伝〕を求め四日市製紙の重役の紹介で芝川工場に赴任した。鉄道の同僚は広瀬の前途を祝福して盛大な送別会を開いてくれた。広瀬が芝川に来て会社の人々に赴任の挨拶をしたが、どういう手違いかその任務がきまっておらず、机も椅子も仕度してないので、仕方なし小使部屋に入って休息していると、そのうちに、『小使、小使』と呼ぶものがある。誰れかほかに小使がいるのかと思ったが、誰れも返事をせぬのに、又『小使、小使』と一層大きな声で呼び立てたので、放っても置けぬと思って広瀬が顔を出すと、『オイ、小使、煙草を買って来い』と命ぜられた。そこで広瀬が、ハハア俺は小使に採用されたのだナ、道理で机も椅子もない筈だと感付いて、わざわざ新調して来た背広を脱ぎ拾て、汚い絆纏〈ハンテン〉を着てその日から本物の小使に成り済した。三ケ月ばかり経った時、本社から重役が来て初めてそれが間違いだったと判り、俄に〈ニワカニ〉社員の辞令を出したが、それまで文句一つ言わず黙って小使をやっていた広瀬という男、凡人じゃアない」
 此熊沢の話は、同時に熊沢が広瀬を重用した動機を説明したものに違いない。広瀬は私を田中に紹介して後、数年間熊沢の秘書として働いていたが、昭和七年〔一九三二〕一月二十一日、五十七才で病没した。
 田中光顕のことは私の旧著「書画道」(昭和十五年〔ママ〕六月十日刊行)中にも詳細に記述してあるし、熊沢一衛著「青山余影」〔青山書院、一九二四〕その他幾多の田中光顕伝が世上に頒布されているので、私は本書中においてはこれ等の著書に殆んど記載されていない事柄について書いてみよう。
 田中光顕は、天保十四年〔一八四三〕土佐国高岡郡佐川町〈サカワチョウ〉に生れ、父は充実、母は献子、維新前浜田辰弥といった。土州支藩深尾家の足軽格で微禄なものだったが、文久二年〔一八六二〕四月吉田東洋を高知城下の帯屋町〈オビヤマチ〉街上〈ガイジョウ〉に暗殺した志士郡須信吾を叔父に持ち、若冠にして既に土州勤王党の血盟者であった。十一才の時、郷校名教館に入り、経史〔経書と史書〕を山本澹斎に、算学を伊藤徳裕に、剣道を古沢義正に、天文推歩術を黒岩文吉に学び、十九才にして土州勤王党の巨頭武市瑞山〈タケチ・ズイザン〉の門に入り、武芸を麻田勘七に学んだ。そして二十一才の時上洛、二十二才脱藩して長州に走り、それより国事に奔走した。私〔村本〕の深く交った人で、高杉東行〔晋作〕、久坂玄瑞〈クサカ・ゼンズイ〉、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允〈タカヨシ〉、三条〔実美〕、岩倉〔具視〕の諸卿、さては近藤勇〈イサミ〉まで知っていたのはこの田中一人であって、大正時代においては、独り国家の元勲たりしのみならず、別の意味においても真に国宝的人物であって、偶然とはいえ筆硯〈ヒッケン〉を楽しむ私がこの人と機縁を結んだことは、不思議な運命でもある。
 田中は、明治四年〔一九七一〕、岩倉大使一行と外遊し、帰朝後陸軍会計監督長、元老院議官、戸籍頭、帝室会計審査局長、恩給局長、会計検査院長、警視総監、学習院長等の官職に就き、明治二十八年〔一八九五〕宮内大臣となり、雲上生活十一年半、明治大帝崩御後は僅かに臨時帝室編修局総裁の官職についてただけで、前半は岩淵の古渓荘に、後半は蒲原の宝珠荘に悠々自適の晩年を送り、九十七才の高齢をもって肺炎に殪れた〈タオレタ〉。
 田中は一般世間では、宮内省官僚の権化〈ゴンゲ〉の如く噂したが、実際には全く正反対の人物であった。もっとも訪問時間のことなどは、流石に宮内省流に正確なものであって、私などが電話をかけて訪問の打合せをする時、「明日午前中に伺います」というと、「午前中では困る。午前何時何分の列車で蒲原駅に到着するか」と反問する。最初は一寸面喰らったが、約束の列車で蒲原駅に到着すると、チャンと駅頭に定紋〈ジョウモン〉付の人力車が出迎えていて「どうぞ」と乗車させ、俥〈クルマ〉が宝珠荘の入口の坂にかかると、 車夫がリンリンとベルを鳴らす。程なく玄関にかかると、そこには田中自身が直立不動の姿で出迎え、「サアどうぞ」と自ら先導して応接室に案内する。成程これでは午前中などという漠とした話では迷惑するであろうと思った。田中はその書簡には、仮令〈タトイ〉簡単な端書でも必ず年月日を明記する。「よく月日だけ書く人が多いが、その時には判っても、後世になると何年の何月何日だか判らなくなる」と話した。時間励行のことについても、「よく午前中に訪問するといって来る人があるが、午前中という時刻はない」と言う。私などもこの組でいささか赤面した。従って辞去する時刻も大体予告して置かぬと、食事の用意、俥の準備などがあるので、黙っていると会談中に必ず問い質される。その代り来客と会談中に中座して、他の客と応接するなどという失礼なことはせぬ。ある時私が訪問会談中に、女中が名刺を持って来て取次いだのは、東京の某顕官の秘書であった。どうするかと思って黙って見ていると、田中は無造作に女中に命じて、「只今来客中でお目に掛れぬ」と断わった。名剌の主は何か重要な急用件があったと見えて、何時頃なら御都合がよろしいか伺って欲しいと女中に依頼して尋ねて来た。
「お急ぎの御用のようですから、僕にはお構いなく……」と私が気を利かせた心算で遠盧すると、田中は私と女中の双方に言い聞かせるように、
「人を訪問するには自から礼儀がある。突然訪ねて来られても御約束はできない。今日は先約の御客様があるからお目に掛れないよ」ど言った。こうしたことは宮内省流で厳格であったが、これは儀礼が正しいというだけで、その後私の訪問中、東西の名士でわざわざ訪問する人も沢山あったが、相手の人物の地位などはこの人の眼中にはなかった。田夫野人といえども、先約あるものを尊重して、その他の者は何人といえども、平然として面会を謝絶した。田中は今日の言葉でいう民主的思想の持主で、地位や名誉によって応接態度を一二にするような封建的なところは絶対になかった。【以下、次回】

 最初に、「交友七十年」とあるのは、山雨楼主人(村本喜代作)の著書『交友七十年』(山雨楼叢書刊行会、一九六二)のことである。
 また、文中に、旧著「書画道」とあるのは、同じく山雨楼主人(村本喜代作)の著書『書画道』(書画道刊行会、一九二六)のことである(「昭和十五年」とあるのは、「大正十五年」の誤り)。

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