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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高杉東行は物に驚くということがなかった(田中光顕)

2018-03-25 04:43:46 | コラムと名言

◎高杉東行は物に驚くということがなかった(田中光顕)

 昨日の続きである。月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 私は田中光顕と交際して得るところが三ツあった。その一ツは維新前後の大人物の生のままの資料を聴取したこと、その二は彼の人格から学び取った修養、その三は雲上生活宮中秘話である。維新前後の人物は、あの大変革に処して活動しただけに、勤王と佐幕とを問わず、名だたるほどの人物はいずれも非凡の器量を持っていた。田中が最も崇拝した高杉東行〔晋作〕などについても、いろいろと面白い話を聴いた。高杉は吉田松蔭〔ママ〕門下においては、久坂玄瑞と共にその双壁に数えられたが、田中は一度京都の料亭で逢って、次に馬関〔下関〕で会った。京都で逢った初対面の時には、坊主頭だったので、
「どうしたのです」と聞いたら、
「梅毒で毛が抜けたから剃ってしまった」と呵々大笑しておったそうだ。この坊主頭の高杉が、首に頭陀袋〈ズダブクロ〉を掛け、若い芸者に取囲まれて蛮声を張りあげ、
「坊主頭を叩いて見れば、南京かぼちやの音がする」と唄い興ずる酔態は、土州から初めて上洛した田舎武士の田中には、あれが有名な長州の高杉かと驚いたそうだ。
 二度目に馬関で逢ったのは、京都から薩長連盟の斡旋に下った時で、初めて高杉と胸襟を開いて語ったが、忽ちにしてその人物識見に推服し、是非共門下に加えて欲しいと懇望したところ、高杉は言下にこれを拒絶して、
「私は人の師となる器ではない。同志として、また友人として交際しよう」と答えた。仕方がないからその侭交際を続けていると、ある時高杉が田中の佩刀〈ハイトウ〉を見て、それが安定〈ヤスサダ〉在銘の名刀(十津川にて入手せるもの)であったところから、
「これはよい刀だ。代りをやるから私に譲ってくれ」と言った。田中は好機到来とばかり、
「譲れというなら差上げてもよいが、その代り私を入門させてくれるか」と反問した。暫らくジッと田中の顔を眺めていた高杉は、その熱情に溢るる願望を看取してか
「よかろう、私は君の師となる器量ではないが、それ程に望むならば御世話いたそう」と快諾した。折角友人として対等に交際しようというものを、無理に弟子になりたいという田中も面白いが、豪放磊落の高杉にもまたこうした奥床しい謙譲があった。門下に入った田中の高杉に対する第一問は、
「この変革の時世に処する途〈ミチ〉を教えて頂きたい」と質問した。これに対して高杉は、
「君、両三年は軽挙盲動を慎んで学問を専一にされたがよい。そのうちには英雄の死所〈シニドコロ〉があるであろう。英雄というものは、変なき時は、乞食となって隠れておればよい。その一朝〈イッチョウ〉天下に変ある時は竜の如く行動せねばならぬ」と教えた。高杉は豪毅濶達、胆斗〈タント〉の如き人物で、物に驚くということがなかった。 田中が人間はどうしたら大胆になれるかと聞いたら、
「数々の艱難〈カンナン〉に逢うがよい」と即答したそうだ。ある時田中が高杉の書をもとめたら、彼は折柄〈オリカラ〉王陽明の詩集を読んでいたが、
「どうも王陽明は豪かった。王陽明は亭午〔まひる〕に到って暁鐘を撞いたとあるが、私などは夕陽に及んで未だ暁鐘が撞けない」と独言をいいながら、
「四十余年唯夢中 而今醒眼始朦朧 不知日已過亭午 起向高楼撞暁鐘 田中君嘱録 王守仁詩 東狂生」
と書いてくれた。この書は私も一見したが、田能村竹田〈タノムラ・チクダン〉風の筆意を執った気品の高い傑作であった。
(高杉は慶応三年〔一八六七〕四月、下関において病歿、享年二十九才)【以下、次回】

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