◎小阪修平の「習俗について」(1984)を読む
先日、とよだもとゆき氏のホームページで、「小阪修平さんのこと」という記事(二〇〇七・八・二〇)を読んだ。その中に、次のような一節があった。
―「ことがら」創刊号だったと思うが、小さな文があった。今は手元にないので記憶がかなりぼんやりしているが、ある職場でひとりの人間の勤務状態・態度をめぐって、それをとりまく職場の仲間の心の動きをとても深く分析しているものだった。だれもが、もちろんわたしも陥りそうな、組織における心理の流れについて鋭く抉る文だった。それは権力をめぐる小論といってもよい。―
とよだ氏のいう「ちいさな文」が何を指すのかが気になって、『ことがら』の創刊号に限らず、全号に目を通してみたが、それらしいものが見あたらなかった。そこで、とよだ氏のホームページ宛てに質問してみたところ、すぐに回答があった。第五号(一九八四)掲載、小阪修平「習俗について(一)」であった。私の探し方が悪かったために、とよだ氏に余計な手間を取らせてしまったことを申し訳ないと思っている。
改めて読んでみると、この「習俗について(一)」は、とよだ氏が指摘する通り、優れた文章である。そこで本日は、とよだ氏に対するお詫びを兼ねて、この文章について紹介してみることにしよう。なお、その後、この文章の続編が『ことがら』誌上に登場することはなかった。
小阪修平は、西岡寿美子さんという詩人が、同じ職場のA君について書いた文章について、次のような分析をおこなう。話が込み入るが、西岡さんの文章については、すでに鎌倉諄誠〈ジュンセイ〉さん(故人)による批判があり、小阪の分析は、この鎌倉による批判を踏まえてのものである。原文には、西岡さんの文章が引用されているが、ここではそれを再引用することはしない。
わたしのこの論考も鎌倉の示唆によるところが大きいのだが、鎌倉にもその辺りの事情はよくつかめていて、「『A君の月曜病とよんで、笑っていたものである』という一文は、主語が隠蔽された文であり、「この言語は職場の支配的な雰囲気としての言語であり、語り手は一瞬にしてそれに乗り移り転生した私的な『職場』という抽象的人格と化した『西岡寿美子』にほかならない。この移行は分裂的な半無意識によるというしかないようにみえる。」と指摘している。いいかえれば、西岡の「自然な」意識は半無意識的な〈のりうつり〉によって成り立っているというわけだ。ここには習俗のひとつの秘密があらわれている。わたしなりにいうならば、「職場の、今年二五歳になる青年が、また病気になった」という文と、「『A君の月曜病とよんで、笑っていたものである』という文のあいだで、西岡寿美子は職場という〈共同観念〉、吉本〔隆明〕的なことばをつかえば、職場の共同幻想へとのりうつっている。そして、この〈のりうつり〉は、後の文の真の主語である「職場の共同観念」を隠蔽し、また鎌倉も指摘しているように、西岡寿美子の「別に隠しもった本音」を隠蔽するという、二重の隠蔽作用をもたらしている。そして、習俗が自然的なものでありながら、しばしばわたしたちにとって抑圧的な威力としてあらわれる理由は、この〈のりうつり〉の構造にあるのだとわたしは思う。
この〈のりうつり〉が、西岡寿美子のどのような「私的な」表出意識にささえられているかを考えてみよう。共同幻想がそのものとしてはどこにも実在しないように、西岡があたかも絶対的な事実であるかのように書いている「職場の全員」もまた、どこにも実在しない。それこそ鎌倉の云うように、職場の同僚であるBはほんとうにAを笑っていたのか、Cはどうか、Dは、Eは、というふうに西岡に問いかけることも可能である。そして、わたしたちはこの引用の前半(職場内部の話題)から後半(Aのオートバイ趣味について)にかけての、西岡の表出意識の隠微〈インビ〉な転換を語ることができる。鎌倉は西岡寿美子が職場の論理と倫理をつきつけたままどこかへ雲隠れしたと言っている。だが、もしこの文章における西岡寿美子に表出の自覚があるならば、職場の「全員」によるA君への叱責と嘲笑のかげに姿を隠すことこそ、かの女の表出意識なのだ。
おそらく、じっさいにAがオートバイが下手かどうかはもんだいではない。それは鎌倉が云うように、Aにとって西岡から言われるすじあいの事ではないということもそうだが、そればかりではなく、Aがじっさいオートバイが上手か下手かにかかわりなく、つまりオートバイに乗ることがどういうことかについての具象的な想像力をはたらかせることなく、「下手」だと考えることによって成立するような、西岡の了解のしかたがもんだいなのである。むろん、わたしたちはここに意図された侮蔑の匂いをかぐことができるが、西岡がこの了解をAのためではなく、かの女自身のためにはたしている(構成している)ことが重要なのだ。西岡はAがオートバイも下手だと了解することによって、Aが劣等人間であるというかの女の価値づけを共同の擬制のうちに完結させているのである。
引用が長くなったので、一旦、ここで切る。
ところで、この文章を書くにあたって、小阪は、西岡寿美子さんのことも知らなければ、A君のことも知らない。その職場のことも、もちろん知らない。また、西岡寿美子さんの文章についての分析は、先行する鎌倉諄誠の批判に依拠したものである。
にもかかわらず、小阪のこの文章が読むに価するのは、その視点がユニークだからである。引用部分を読んだ限りでは、そのユニークさは、まだハッキリとは見えてこない。しかし、「半無意識的な〈のりうつり〉」という現象に「習俗のひとつの秘密」があると言っているあたりに、すでにそのユニークさがあらわれている。
この一文で小阪修平が試みようとしたのは、西岡さんに対する批判でもなく、A君の擁護でもない。まして、「職場」に対する批判でもない。西岡さんの文章の分析を通して、「習俗の秘密」に迫ることだったのである。【この話、続く】
今日の名言 2012・9・13
◎今後もさらに真相を語ってほしい
秋葉原無差別殺傷事件で重傷を負った湯浅洋さんの言葉。本日の日本経済新聞社会面より。昨12日に同事件の控訴審判決があった(一審の死刑判決を支持)。湯浅さんは記者に対し、「当然の判決と思うが、なぜ被告が事件を起こしたのかという疑問は今も消えない」と語った。また、加藤智大〈トモヒロ〉被告が手記を刊行していることについて聞かれ、「被害者の無念さを自分に置き換えて、今後もさらに真相を語ってほしい」と答えた。
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