礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

緑十字機、鮫島海岸に不時着(1945・8・20)

2016-08-20 05:52:26 | コラムと名言

◎緑十字機、鮫島海岸に不時着(1945・8・20)

 今月一四日、テレビ朝日で、「緑十字機 決死の飛行」という番組を観た。非常に興味深い番組だった。
「緑十字機」というのは、降伏直後、フィリピンのマニラに赴く降伏軍使を運ぶために用意された二機の飛行機をいう。白い機体に緑色の十字を描いていたので、緑十字機と呼ぶ。
 一九四五年(昭和二〇)八月一九日、降伏軍使を乗せて木更津空港を出発し、沖縄の伊江島へ。降伏軍使一行は、ここで米軍機に乗り換える。そのまま、緑十字機でマニラに向かうのかと思ったが、そうではなかった。
 翌二〇日、進駐の日程などについて、協議を終えた降伏軍使は、その日のうちに伊江島に戻り、再び、緑十字機に乗って木更津に帰ろうとする。しかし、二機のうち二番機の主輪が破損、やむなく、一番機のみで出発。ところが、その一番機も、「燃料切れ」という考えられないアクシデントにより、同日深夜、静岡県の鮫島海岸に不時着することになった。――
 おおむね、こういう話が、資料や証言をまじえ、あるいは解説をはさみながら、要領よく紹介されていた。番組の最後のほうで、ゲストとして、岡部英一さんという郷土史家が登場する。手に『緑十字機の記録』という著書を持っておられる。
 そうか、この番組は、岡部さんの著書をもとに作られたのか、と思った。その本『緑十字機の記録』が、どうしても読みたくなった。【この話、続く】

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邪教か否かを国家に判断させてはならない

2016-08-19 05:30:06 | コラムと名言

◎邪教か否かを国家に判断させてはならない

 今月一三日のコラム「幸福実現党本部に家宅捜索(2016・8・2)」で、私は、次のように述べた。

 ひとつ、忘れてならないことがある。それは、近代日本における宗教弾圧が、必ず、「犯罪」の摘発から開始されているという事実である。

 これについては、これまで、いろいろなところで、同様の指摘をしてきた。繰り返しになるが、重要な問題だと思うので、この場を借りて、同じ指摘をしておく。
 以下は、批評社の広報誌『Niche』の第30号(二〇一五年一月)に掲載するため、二〇一四年末に書いた文章である(実際に掲載されたものは、ゲラ校正の段階で、若干、削ったところがある)。今の段階で、手直ししたい部分、追加したい部分などもあるが、とりあえず、そのまま載せる。

「邪教」と国家権力――邪教か否かの判断を国家権力に委ねてはならない

 昨年(二〇一四年)九月、『戦後ニッポン犯罪史』の新装増補版を出していただいた。今回の版では、その巻末に、「オウム真理教事件について考える――宗教と国家に関する犯罪論的視点」と題する補論を付した。その補論の最後のほうで私は、次のように述べた。

 近代の日本では、国家が宗教を弾圧するとき、露骨に、「宗教弾圧」という形をとらない傾向がある。必ずといってよいほど、その活動を「犯罪」として認定し、そのことによって、事実上の「宗教弾圧」をおこなってきた。第一次大本教事件(一九二一)の際は、不敬罪と新聞紙法違反が問われた。第二次大本教事件(一九三五)に際しては、不敬罪と治安維持法違反が問われている。「ひとのみち教団」に対しては、まず一九三六年(昭和一一)に、教祖を強姦容疑で逮捕し、その翌年、教祖および幹部らを治安警察法違反で検挙している。本門法華宗に対しては不敬罪が問われ、一九四一年(昭和一六)、幹部ら六名が逮捕された。創価教育学会に対しては不敬罪と治安維持法違反が問われ、一九四三年(昭和一八)、幹部ら二一名が逮捕された。
 オウム事件についても、「弾圧」のキッカケとなったのは、無差別殺人などの「犯罪」である。一時は、破壊活動防止法の適用も検討された。いずれにしても、露骨な「宗教弾圧」という形はとっていない。

 国家に害悪を及ぼすような宗教は、国家にとっては「邪教」である。しかし国家が、そうした宗教を弾圧する理由は、それが邪教であるからではない。その活動が、「犯罪」に該当するという理由からである(もちろんこれは、タテマエであるが)。
 国家権力が、特定の宗教を弾圧するとき、マスコミあるいは民衆の間に、その宗教を「邪教」と捉える「世論」が広がっていることが多い。国家権力は、そうした「世論」を踏まえながら、宗教弾圧をおこなう。繰返すが、邪教ゆえに弾圧するのではない。当該宗教の活動に犯罪性を見出し、それを摘発するのである。そういう形で、実質的に邪宗を弾圧するのである。大本教の場合も、ひとのみち教団の場合もしかり、オウム真理教の場合、またしかりである。
  *      *      *      *
 第二次大本教事件(近年は、「第二次大本事件」と呼ぶことが多い)が始まったのは、一九三五年(昭和一〇)一二月八日のことであった。これは、神道系の新興宗教「大本」(「大本教」は俗称)に対する、大がかりな宗教弾圧であり、これによって、「大本」は壊滅させられた。高橋和巳〈カズミ〉の代表作『邪宗門』(一九六五~一九六六)は、この「大本」弾圧事件に着想を得た小説である。
 同じく神道系の新興宗教である「扶桑教ひとのみち教団」(「ひとのみち」、「ひとのみち教団」は略称)への弾圧が始まったのは、一九三六年(昭和一一)九月二八日のことであった。初代教祖の御木徳一〈ミキ・トクハル〉初代教祖が、信者の娘一五歳に対する「強姦」の嫌疑で逮捕された。いわゆる「ひとのみち事件」である。
「第二次大本事件」と、「ひとのみち事件」とは、昭和前期における宗教弾圧事件を代表する大事件であるが、このふたつの事件の間には、一〇か月ほどのタイムラグがあった。
 そのタイムラグの間に、扶桑教ひとのみち教団奉仕員総連盟東京地方連盟が発行した『ひとのみちに対する誤解を一掃す』(一九三六年三月一〇日発行)というパンフレットがある。その中に次のような一節がある。

 第一は既成宗教団の恐怖 本教団開設以来十一年、僅かな年月の間に教勢がこんなに発展した事実は、世界宗教史上に例がない、とまで評せられるに至りました。これは、既成宗教諸団体の堪へ得る所ではないのであります。このまゝ手を拱【こまぬ】いて傍観してゐたならば、自己の宗教的領分を蚕食せらるゝに相違ないといふ、烈しい恐怖を起したのであります。そして何とかして年若きこの強敵を早く打ち倒さんものと躍起となつた、その結果は、いろいろの陰謀、術策をめぐらし、あらぬ虚妄の言葉をならべたて、本教団に対する讒誣、中傷の声を盛んならしめたのであります。たまたま大本教の検挙が始まるや、絶好の機会とばかり、それに巧くからませて、大本教類似の邪教であるかの如き観念を世人に起させようと努力しましたが、中には、本教団を傷つけようとして、逆に当局の取調を受け、疑獄の端【たん】を握られた事実などもあるさうであります。

 ひとのみち教団は、直前に起きた「第二次大本事件」から、ほとんど何も学んでいない。同教団に対し、「既成宗教諸団体」から、中傷があったというのは事実であろう。しかし、宗教弾圧を企図し、これを実行するのは「既成宗教諸団体」ではない。あくまでも国家権力である。そのことに、このパンフレットは、気づいていない。
 そもそも、「大本教類似の邪教」という言葉が問題である。大本教は邪教だが、ひとのみちは邪教でないと言いたいのだろう。しかし、大本教であれ、ひとのみちであれ、また既成宗教であれ、新興宗教であれ、国家権力が、その政策を遂行する上で、その妨げになるような宗教は、すべて国家権力にとっては「邪教」と見なされる。このパンフレットには、そうした視点が皆無である。
 ひとのみち教団は、あまりに無防備だった。これでは、国家権力の弾圧に対しては、とても抵抗できなかったであろう(事実、抵抗できなかったのである)。
  *      *      *      *
 社会運動家の高津正道〈セイドウ〉に、『邪宗新論』(北斗書房)という著書がある。この本は、一九三六年(昭和一一)一二月二六日の発行であるが、その三か月ほど前に、ひとのみち教団への弾圧が始まっている。
 高津正道は、同書の第一章の冒頭で、「文字通りに燎原の火の勢ひで膨張発展しつつある『ひとのみち』教団をも、間もなく葬つてしまふであらう、といふ我々の期待は果たして適中した」と述べている。この高津の発想、すなわち、「邪宗」(邪教)は国家権力によって葬り去られるべきだという発想は、検討してみなければならない。
 高津は、同書の「序――なぜこの書を出すか」の中で、次のように述べている。

 搾取する、科学に反対してインチキ治療をする、科学的世界観に反する諦らめを説く、精神主義を宣伝する――かくのごときものは、何よりもまづ、無産大衆にとつては、この上なき妨碍物であり、またその階級運動にとつては、大なる妨碍物である。我々はあくまで、かかる妨碍物を除去しなければならぬ。かくの如き邪教にまでも取りすがらざるを得ざる大衆に対し、声を限りに呼びかけねばならぬ。
「その道は違ふ。無産者解放、社会改造運動といふこの本道に、一日も早く出て来たまへ」と。

 高津は、「反宗教運動者」を自称していた。彼が立脚していた立場は、「無産者大衆」である。そうした高津にとって、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教などの「新興諸宗教」は、当然、「邪宗」(邪教)ということになる。
 しかし、新興諸宗教を邪宗として攻撃する、こうした高津の反宗教運動に、どのような意義があったのだろうか。高津の立場あるいは主張を、原理的に批判するつもりはない。しかし、その後の日本の歴史を知る者として、当時の高津が示していた認識や主張について、その「歴史的」な意義を問うことは許されるだろう。
 高津のいう「新興諸宗教」は、高津らの「反宗教運動者」が批判するまでもなく、マスコミあるいは民衆によって「邪教」と見なされされていた。もちろん、既成の宗教教団も、これを「邪教」、「邪宗」として批判していた。さらに、「新興諸宗教」のうち、特に勢いがあり、信者を増やしていた「大本」と「ひとのみち」の二教団は、昭和一〇年代初頭、国家権力から「邪教」視され、徹底的に弾圧され壊滅させられた。高津らの「反宗教運動」は、その真意はともかくとして、こうした国家による宗教弾圧に道を開く、「露払い」的な役割を演じたとは言えないか。
 また、このように「新興諸宗教」を弾圧した国家権力は、それと並行して、既成の伝統的宗教・宗派に対しても、統制あるいは弾圧の手を加えていたことに注意すべきである。その典型とも言える例として、ここでは、一九四一年(昭和一六)四月一一日に起きた「曼陀羅国神〈コクシン〉不敬事件」を挙げておこう。これは、日蓮門下の伝統的宗派。法華宗(厳密には、旧本門法華宗)に対する宗教弾圧事件である。
 すなわち、国家権力にとってみれば、「新興諸宗教」であれ、「既成宗教」であれ、国策の遂行の邪魔になるものは、すべて「邪教」なのである。このことを理解しない「反宗教運動」は、結局のところ、国策と随伴する運動になってしまう。
 さらに、戦中期の日本は、国家そのものが、疑似宗教国家になったという事実を深刻に受けとめるべきである。御真影礼拝、皇居遥拝、神社参拝等が強制され、各戸に伊勢皇大神宮の大麻〈タイマ〉(おふだ)が配られた。つまり、国家そのものが、特定の「宗教」の信仰を国民に強いるという事態が起きたのである。
 あらゆる宗教を「邪教」として弾圧した国家は、みずからが「邪教」を掲げた疑似宗教国家に転化することがある。高津正道が、「邪宗」を批判する本を刊行した一九三六年(昭和一一)のことだったが、このとき高津は、日本国家そのものが、「邪教」を掲げる疑似宗教国家となることまでは、予想しなかったであろう。
  *      *      *      *
 ところが、同じ時期、この「邪教」問題について、実に鋭い視点を打ち出していた思想家がいた。哲学者の戸坂潤である。
 戸坂潤は、一九三六年(昭和一一)の一〇月一日から三日までの三日間、『報知新聞』に「ひとのみち事件批判」という文章を連載した。前述のように、ひとのみち教団の初代教祖・御木徳一が、「強姦」の嫌疑で逮捕されたのは、同年九月二八日のことであった。戸坂の文章の連載が始まったのは、そのわずか三日後のことである。
 連載【1】において戸坂は、「ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ」ということを言っている。連載【2】では、「インチキ宗教」という言葉を使っている。戸坂にとって、「類似宗教」と「インチキ宗教」は、ほぼ同義と言ってよいだろう。
 一方、高津正道は、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教などを一括して、「新興諸宗教」とよび、これを「邪宗」として位置づけていた。
 これらを見た限りでは、戸坂潤と高津正道の宗教観に、さしたる違いはない。しかし、戸坂は、連載【2】で、「だから『ひとのみち』だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるものゝインチキ性を思い切つて露出したまでだといふのである」と述べている。ここで戸坂は、「宗教」という存在そのものが、「インチキ性」を帯びている。類似宗教にせよ、既成の宗教にせよ、「インチキ宗教」であるところに違いはない、という認識を示しているのである。この認識は、高津正道にはなかったものである。
 さらに、戸坂は、連載【3】で、「要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである」ということを述べている。ここでいう「宗教主義」とは、国家における宗教主義のことを指している。
 少し、戸坂自身に語らせてみよう。引用は、神戸大学の新聞記事文庫からおこなったが、かな遣いなどは、当時の形に復した。

 最後に、宗教復興・精神作興の声を利用して類似宗教が進出したといふ関係当局の見解は、最も天晴れといはねばならぬ。全くさうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出〈ソウシュツ〉とは、社会的に同じ本質の二つの現象だといつてゐるのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角〈トヤカク〉話題になるものゝ大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教、ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めとして、天津教〈アマツキョウ〉、島津治子〈ハルコ〉教、などいずれもさうだ。脱税問題で問題になりかけたり教義についてある種のうはさが流布されたりしてゐる天理教を見てもよい。とに角『類似宗教』乃至類似宗教類似の宗教は、神惟〈カンナガラ〉の道や国史的言論と密接な関係があるといふことを、あくまで重大視せねばならぬ。【中略】
 要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである。だから眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない筈である。(完)

 右の戸坂の言葉を、私なりに言い換えればこうなる。――国家が思想対策のために、怪しげな「宗教主義」に走れば、当然、怪しげな「類似宗教」があらわれてくる。
 実に鋭い認識である。おそらく、戸坂は、この時点で、日本がすでに、疑似宗教国家に転化しようとしていることを、見抜いていたのではないだろうか。
  *      *      *      *
 昨年、話題になった宗教問題のひとつに、幸福の科学大学不認可問題がある。
 今春の開設を目指して設置認可申請中だった「幸福の科学大学」について、文部科学省の諮問機関である「大学設置・学校法人審議会」は、昨年一〇月二九日、開設を不可とする答申をおこなった。この答申を受け、同月三〇日、下村博文〈ハクブン〉文部科学大臣が「不認可」を決定した。
 同審議会では、開設を不可とした理由について、文科省ホームページ上で説明しているが、そこには、「幸福の科学大学」の教育課程には、宗教団体「幸福の科学」創始者の大川隆法氏の「霊言」に関する著作が重要な位置づけを占めている。しかし、こうした霊言は学問の要件を満たしていないといった趣旨のことが書かれている。
 幸福の科学大学「不認可」の報を聞いた人の中には、不認可は当然だ、あんな怪しげな宗教団体が大学を作ること自体がおかしい、と思われた方も多かったであろう。しかし、この発想は、国家権力が「ひとのみち」を弾圧したことについて、高津正道が「我々の期待は果たして適中した」と述べた発想と、大きく変わるものではない。
 宗教団体「幸福の科学」を、邪教だと感じている人は少なくないだろう。個人が、自分の感覚で、そのように捉えることは許される。しかし、ある宗教が邪教であるか否かの判定を、国家権力に委ねようとするのは危険なことである。もちろん、今回の文科相の決定は、あくまでも「幸福の科学大学」の適否をめぐる問題であって、宗教団体「幸福の科学」そのものの適否を問題にしていたわけではない。しかし、世論の動向によっては、あるいは政治情勢の変化によっては、戦前・戦中のように、国家権力が、ある宗教を邪教であるか否かを決定する時代が再び訪れるかもしれない。
「大学設置・学校法人審議会」は、今回の設置認可申請にあたって、「幸福の科学大学」側に、「認可の強要を意図すると思われるような不適切な行為」があったと見た。おそらくこれは、審議の渦中で、下村博文文科相の守護霊本『文部科学大臣・下村博文守護霊インタビュー』(幸福の科学出版株式会社、二〇一四年六月七日)、『同②』(同社、同年八月一四日)が刊行されたことなどを指すものであろう。
 ことによると、宗教団体「幸福の科学」には、下村文科相が、同教団のシンパであるという思い込みがあったのではないか。それにしても、こうした「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く、きわめて危険な行為である。
 宗教団体「幸福の科学」は、一九九一年九月には、テレビでオウム真理教と論戦したこともある。一九九五年前後には、創価学会を攻撃する本を何冊も刊行している。少なくともこのころまでは、同教団は、「邪教」を攻撃する側に立っていた。
 しかし、今日すでに、同教団は、「邪教」と糾弾される側に立とうとしている。戸坂潤も指摘した通り、「眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない」のである。この際、同教団に望みたいのは、「過去の宗教弾圧」を振り返り、そこから教訓を得るということである。
 小論の最初で述べたように、近代の日本では、国家が宗教を弾圧するとき、露骨に「宗教弾圧」という形をとっていない。その活動を「犯罪」として認定し、そのことによって、事実上の「宗教弾圧」をおこなってきた。先ほど、設置認可申請にあたって、「幸福の科学大学」側がおこなった「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く危険な行動だと述べた。国家権力が、その気になれば、こうした「不適切な行為」も、犯罪と認定される。そうした瑣末なところから、宗教弾圧は始まるのである。とうぜん、その余波は、他の宗教にも及ぶ。そういう意味で、幸福の科学の「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く行動だと指摘したのである。国家権力をなめてはいけない。

*このブログの人気記事 2016・8・19

 

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齋藤秀三郎と土井晩翠

2016-08-18 04:07:09 | コラムと名言

◎齋藤秀三郎と土井晩翠

 数か月前、神田の古書展で、『カムカムクラブ』という雑誌(メトロ出版社発行)の一九四八年(昭和二三)七月号(第一巻第六号)を買い求めた。表紙には、「主幹 平川唯一〈タダイチ〉/Come Come Club」とある。古書価二〇〇円。
 巻頭に近いところに、「齋藤秀三郎先生の思い出」という文章があった。筆者は土井晩翠である。齋藤秀三郎〈ヒデサブロウ〉は、著名な英語学者で、土井晩翠〈ドイ・バンスイ〉は、これまた著名な歌人・英文学者である。
 土井晩翠は、仙台の英語塾以来、永く齋藤秀三郎に師事し、師たる齋藤秀三郎から多大な影響を受けてきたことを、この文章を読んで、初めて知った。

 齋藤秀三郎先生の思出   
        土井晩翠
 メトロ出版社から先生に関する逸話等をなるべく豊富にした思出を書けとのおたのみをうけた。先生は慶応二年(一八六六)一月二日、旧仙台藩士斎藤永頼の長男として生れた。その死は昭和四年(1929)十一月九日である。十週年祭が神田の正則英語学校(1939の十二月二十日)行われた時、私は仙台から上京して祭式に列した。それから九年の歳月が経過した。当時の模様や来会者たちの追憶講演等が正則英語学校の校友会誌にのせられた。又先生の愛婿〈アイセイ〉塚本虎二君(内村鑑三の跡をつげるキリスト教名士)が其機関誌「聖書の知識」に委細に先生の逸話奇行等を嘗て記載された。是等を丁重に保存しておいたが昭和二十年七月十日、仙台市中央部の爆撃により三万巻の蔵書や切り抜き等と共に焼失した。老来の健忘は免れぬが、覚束なくもこゝに筆をとって脳裏になお残る印象を書きつける。
 平凡社の大百科事典(昭和七年第一版)によると、先生は六歳にして特に許されて仙台外国語学校に入学し、十四歳の春卒業と同時に上京、予備門を経て東京工部大学に入学、純粋化学、造船学を専攻、明治十六年(1883)卒業を前にして放校さる』とある。其後先生が仙台に帰って英語塾を国分町(元鍛冶町角)に開いたのは明治二十年頃であったろう。
 私は同塾に入って初めて先生の偉大な風貌――身のたけ六尺余――に接した。私の十六七歳の頃である。一二ケ月後刊行の予定の『晩翠放談』にある通り十四歳で小学を卒業した私は、商家の子であり、『商家に学問は無用である』という当時の習慣を厳守せる祖父の命によって中学に進むことを許されなかったが、再三切願して英語塾に入ることを許されたのである。(其前は通信教授によって独学でコツコツ英語を勉強した)そしてリーダーから初めてマコーレーの「フレデリク大王」、ジョンスンの「ラセサス」等を学んだ。先生は授業の余暇にバイロンの詩を愛誦して私に聞かして下された。(「マゼッパ」中の野馬のくだりなど)、バイロン百年忌の折、其「チャイルドハロード巡遊」を私は全訳刊行したが、遠因はこゝにある。バイロンと先生と頗る共通の点があると思う。
 英語塾創設後、先生は第二高等学校の教師になった。そして〔明治〕二十二年転じて岐阜中学に赴任、三年間在職、二十五年四月長崎の鎮西学館に、同年九月名古屋第一中学校に、二十六年七月東京に帰って第一高等学校教授に任官、二十九年十月神田区錦町に正則英語学校を創立した。そして翌年四月第一高等学校を辞し、組織英語学の完成に努力し乍ら、幾千幾万の学生を教導した。著書も非常の多数である。就中〈ナカンズク〉大正四年には多年苦心研究の成果『熟語本位英和中辞典』が刊行された。昭和十一年九州大学の豊田実教授が増補して岩波書店から発刊した本書の増補新版序に曰く、『故齋藤秀三郎氏による英文法の科学的研究は単に日本における英語研究史上特筆すべきのみならず、氏を実に世界の英語学者たらしむるのである。(晩翠申すエスペルゼンの如し)。恰も〈アタカモ〉動植物学者が無数の植物や昆虫を蒐集分類する熱心と興味とを以て氏が英語研究に没頭した事は、そのAdvanced English Lessons叢書の序からも窺われる。かかる英語の科学的研究家が多年心に描きつつあった理想的英語辞書をできる限り簡明な形で体現したものがこの熟語本位英和中辞典である…終始一貫せる科学的精神と老〈オイ〉を忘るる青年学徒的熱心とを以て先人未踏の領域を開拓した著者が津々として尽きぬ興に駆られ完成した者が本書である。(下略)』私は先生の逝去に際し二十一首の和歌を葬儀式場に献じたが、其中に
『その著述「英文法」の精や美やアルビォンの子ら面ありや否や』
『その著述「英和辞典」よページごと読みつくすべき書にはあらぬ』
『その著述「和英大字書」心血の紅きをペンに染むるが如し』
 と頌した。後者は昭和三年六月の刊行、先生が掉尾〈トウビ〉の大著述、真に驚嘆を禁じ得ぬものである。先生の崇拝者石川正通氏が近頃仙台に来た折、胸襟を開いて種々話し合ったが、中にこの大著述に言及した。『袖』のくだりに『袖すりあうも多少の縁』が“A chance acquaintance is a divine ordinance.”〔偶然の出会いは神の定め〕と訳されている。なんという恰好の訳だろう。
 日本における英語学界の真の第一人者は、かく心血をそゝぐ尽して「和英大字書」刊行の翌年菊の盛〈サカリ〉の節に麹町の本邸に逝いた〈ユイタ〉。故郷の仙台の紅葉があしたの霜をわぶる〔侘ぶる〕頃であった。
 先生が第一高等学校教授時代西片町十番地に住まわれた頃、私は第二高等学校をおえて東京大学の英文科に(明治二十七年)入学して其近くに下宿した。折に参上して先生の偉容に接し、その奨励と教導とをうけるのは多大の喜びであった。折には宴会の席にお供を仰せつかって先生の猛烈な乱暴ぶりに呆れた。其酒量は大したものであった。しかし先生の酒は其頭脳の働きを害するよりも、むしろ助長したと思われる。
 先生より教〈オシエ〉をうけ、インスピレーションをうけた秀才の数は大したものであろう。故大蔵大臣井上準之助氏は其一である。彼が二高生であった折、其将来えらくなるべきを先生が予言したのを私は親しくきいた。世界的大数学者高木貞治君は他の例である。岐阜中学で先生の教をうけた者である。ある日西片町に参上した折先生曰く『高木はばかに偉い頭脳をもってる、何とかして語学に引っこもうとしたが私は数学に向いてますとて逃げられてしまった』とて残念がられた。岐阜中学に在勤の折、先生はドイツ語を勉強し初め、例の猛烈なエネルギイを発揮してレクラム叢書を一日一冊読破した。前記塚本君の「聖書の知識」によれば、先生は新約全書のギリシャ原典を初めから終〈オワリ〉まで読破した。其他我々凡夫の思いもよらぬ先生の知識慾と努力とが同誌に載されてあった。『飢ゆる鷹の餌を追う如き熱をもて学びの道を登り行きし君』と私が賛した通〈トオリ〉である。
 かゝる偉人―世界的偉人―に親しく教をうけた事は私にとり絶大の感謝である。私の一生を支配するものである。頽齢陋習の私は今年七十八歳であるが、『老を忘るる青年学徒的熱心を以て先人未踏の領域を開拓した先生』を模範として、生ける限りは努力を続けて行く積りである。

 文中に、「その著述「英和辞典」よページごと読みつくすべき書にはあらぬ」という和歌の引用がある。最後の「あらぬ」は、「あらむ」の誤植ではないかという気がしたが、そのままにしておいた。また、最後の段落にある「頽齢陋習」は、「頽齢陋醜」の誤記または誤植ではないかという気がしたが、これも、そのままにしておいた。

*このブログの人気記事 2016・8・18(9位に珍しいものが入っています)

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マッカーサー、幣原首相の提案に驚く

2016-08-17 02:53:28 | コラムと名言

◎マッカーサー、幣原首相の提案に驚く

 今月一二日の東京新聞の一面トップ記事の見出しは、
――「9条は幣原【しではら】首相が提案」/マッカーサー 書簡に明記/「押しつけ憲法」否定 新資料――
であった。
 マッカーサーGHQ最高司令官と幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉首相との会談がおこなわれたのは、一九四六年(昭和二一)一月二四日のことであった。この会談の席で、戦争放棄を提案したのが、マッカーサーだったか、幣原だったかについて、かねて議論があったらしい。しかし、「新資料」の発見によって、幣原の提案だったことが、ほぼ明らかになったという。
 この新資料とは、一九五八年(昭和二八)一二月、渡米中の高柳賢三・憲法調査会会長がマッカーサーにおこなった書状での質問に対し、マッカーサーが書状でおこなった「回答」である。
 記事によれば、この新資料を発見したのは、堀尾輝久・東大名誉教授で、三面には、堀尾名誉教授に対するインタビューも載っている。
 インターネットで、関連する情報を調べてみると、堀尾名誉教授は、雑誌『世界』の本年五月号に、「憲法9条と幣原喜重郎」という論文を発表されていることがわかった。こちらも読んでみたが、非常に周到な論文であり、学ぶことが多かった。
 ところで、東京新聞でこの記事を読む数週間前に、たまたま私は、ビデオで『マッカーサー』(ユニバーサル、一九七七)という映画を観た。映画の最後のほうで、マッカーサー(グレゴリー・ペック)と幣原首相(ユキ・シモダ)が会談する場面があった。たしかに、戦争放棄は、幣原首相のほうから提案していた。
 東京新聞記事を読み、再度、ビデオを取り出し、その場面だけチェックしてみた。幣原首相の突然の提案を受けたマッカーサーは、驚いた表情を見せ、思わず副官のほうに目をやっている。しかし、幣原首相の平和への熱情に、深く心を動かされ、最後は、幣原の提案に賛同するという展開になっていた(あくまでも、「映画では」ということだが)。
 幣原首相を演じたユキ・シモダ(一九二一~一九八一)については、よく知らないが、アメリカ生まれの日系人俳優だという。映画『ミッドウェイ』(ユニバーサル、一九七六)にも出演しているようなので、いずれ、チェックしてみたい。

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト25(2016・8・17現在)

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
5位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相ゲッベルスとディートリヒ新聞長官
6位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
7位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
8位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
9位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
10位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ

11位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
12位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
13位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
14位 16年8月15日 ブログ陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
15位 16年1月15日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
16位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
17位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
18位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
19位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
20位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問

21位 15年11月1日 日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)
22位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード   
23位 16年2月16日 1945年2月16日、帝都にグラマン来襲
24位 16年2月14日 護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか
25位 16年8月16日 論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」

次 点 16年5月24日 東條英機元首相の処刑と辞世

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論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」

2016-08-16 03:00:52 | コラムと名言

◎論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」

 数日前、知人の桃井銀平さんから、当ブログに、「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」と題する論文の投稿があった。憲法第19条の「思想・良心の自由」の問題などについて、非常に重要な問題が提起されているようなので、紹介してみたい。
 論文は、A4で一八ページに及ぶ長文だが、このあとさらに、続きがあるという。
 本日、紹介するのは、最初の四ページ分のみ。なお、次回の紹介は、明後日、あるいは、それ以降になるかと思う。

日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)             2016.8
                                桃井銀平(元都立高校教師)

 卒業式等における国歌斉唱時の不起立等で懲戒処分をされた東京都公立学校の教師達による第3次集団訴訟が最高裁に係属している(原告団による呼称は「東京「君が代」裁判第三次訴訟(07~09処分取消)」。この文章の執筆中に判決が行われた。)。これだけの原告数による同種の訴訟はこれが最後のものになるかもしれない。2011年から翌年にかけての一連の最高裁判決によってさしあたりの最高裁判所の判断枠組みは明瞭になった。それを前提として弁論を進めざるを得ないところもあるが、それでも主要な論点についてどれだけ有効な主張を新たに創り出すことができたかが問われている。同種の裁判はこれからも続くであろうし、現段階の到達点が最終決着であるとしたら、戦後日本の立憲主義は余りにも貧困なものだったことになってしまう。しかし、ジャーナリズムをはじめとして社会一般の関心・反応は相応の高まりを維持しているとは思えない。今回、上記訴訟の原告団が最高裁に提出した上告理由書等を目にすることが出来たので、いくつかの主要論点について私なりの見解を披露したい。

1,侵害された思想・良心は何か
 教師達に対する懲戒処分の根拠となった卒業式等における国歌斉唱時の起立斉唱と国歌伴奏(以下「起立斉唱等」とする。)を命じる職務命令(およびそれを事実上命じた都教委の通達)が憲法第19条に違反するというのが原告の主張の一つの柱であるが、その際侵害された思想・良心がどのような内実のものであるかが重要なポイントになっている。

※この文章を読む方の中には事情を十分知らない人もいると思うので、当該通達と職務命令(代表例)を以下紹介しておく。

【いわゆる「10.23通達」】
                                   15教指企第569号
                                  平成15年10月23日

都立高等学校長
都立盲・ろう・養護学校長 殿

                 東京都教育委員会教育長
                   横 山 洋 吉

    「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」

                     記

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。
2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

別紙
   「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」
1 国旗の掲揚について
 入学式、卒業式における国旗の取扱いは、次のとおりとする。
(1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。
(2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、都旗にあっては右に掲揚する。
(3) 屋外における国旗の掲揚については、掲揚塔、校門、玄関等、国旗の掲揚状況が児童・生徒、保護者その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。
(4) 国旗を掲揚する時間は、式典当日の児童・生徒の始業時刻から終業時刻とする。
2 国歌の斉唱
  入学式、卒業式等における国歌の取扱いは、次のとおりとする。
(1) 式次第には、「国歌斉唱」と記載する。
(2) 国歌斉唱に当たっては、式典の司会者が、「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。
(3) 式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。
(4) 国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う。
3 会場設営等について
  入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。
(1) 卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。
(2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、会場の正面に演台を置き、卒業証書を授与する。
(3) 入学式、卒業式等における式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するようにする。
(4) 入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする。

【10.23通達に基づく職務命令の例】

               18○○高第○○○号
              平成19年○月○○日
 東京都立○○高等学校
  ○  ○  ○  ○殿             

                 東京都立○○高等学校長
               ○  ○  ○  ○            

               職務命令書             

平成19年○月○日に実施する平成18年度第○○回東京都立○○高等学校卒業証書授与式において、平成15年10月23日付15教指企第569号「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」、平成18年3月13日付17教指企第1193号「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について(通達)〔1〕」及び地方公務員法第32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)に基づき、下記のとおり命令する。

           記

1 当日、教職員は全員勤務し、別紙「平成18年度第○○回東京都立○○高等学校卒業証書授与式実施要領」による役割分担に従い、職務を適正に遂行すること。
2 学習指導要領に基づき、適正に生徒を指導すること。
3 式典の実施に際して妨害行為・防害発言をしないこと。
4 式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること。
5 式典中は、式場内に留まり、生徒を指導すること。
6 服装は、厳粛かつ清楚な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとすること。

(1) 藤田反対意見と宮川反対意見
 いわゆるピアノ裁判最高裁判決(2007年2月27日第三小法廷)において、 裁判官藤田宙靖は反対意見の中で、日の丸・君が代に対する歴史観・世界観とは区別される思想・良心に着目している。
「本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,・・・・この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。」
 藤田の着目は重要であって、このような思想・良心は、同種の他の裁判の原告にも広く見られるものである。これを憲法裁判上どう位置づけるかが現段階の大きな論点の一つである。ただ、この事件は単独の音楽専科教師によるピアノ伴奏拒否であること、藤田は彼が着目した原告の上記の思想・良心を個人のものないしは私的なものと区別して位置づけているわけではないことはもっと重視されてよい。
 類似の着目は、2011~12年の最高裁判決の反対意見にもある。同年から翌年にかけての最高裁の諸判決では、起立斉唱命令は憲法第19条違反とはならないが、思想・良心の自由に対する「間接的制約となる面がある」と判断されて、減給以上の懲戒処分のほとんどが裁量権濫用として取り消された。最高裁では多くの補足・反対意見が出されたが、特に注目されたのは宮川光治の2回にわたる反対意見であって、保護されるべき原告の思想・良心のなかに「教育者としての教育上の信念」も積極的に位置づけている。以下はその2回目のもの〔2〕からの抜粋。
「第1審原告らの不起立行為等は, 「日の丸」や「君が代」は軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであり平和主義や国民主権とは相容れないと考える歴史観ないし世界観, 及び人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者としての教育上の信念に起因するものであり, その動機は真摯であり,いわゆる非行・非違行為とは次元を異にする。」(下線は引用者)
そして
「その行為は第1審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。したがって, その行為は第1審原告らの精神的自由に関わるものとして, 憲法上保護されなければならない。 第1審原告らとの関係では, 本件職務命令はいわゆる厳格な基準による憲法審査の対象となり, その結果, 憲法19条に違反する可能性がある。」
とし、さらに以下のように、原告は教師であるが故に特別に広い「精神の自由」を認められるべきとしている。
(教育基本法第2条に言及した上で)「上記のような目標を有する教育に携わる教員には、幅広い知識と教養、真理を求め、個人の価値を尊重する姿勢、創造性を希求する自律的精神の持ち主であること等が求められるのであり、上記のような教育の目標を考慮すると、教員における精神の自由は、取り分けて尊重されなければならないと考える。」(下線は引用者)
 ここで注意しなければならないのは、宮川は教師に対する国旗国歌強制事件において、<個人として>のものと区別された<教師として>の思想・良心を特に重要と考えているわけではないということである。

注〔1〕 全文は以下。

○入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について
                               平成18年3月13日
                               17教指企第1193号
                                 都立高等学校長
                            都立盲・ろう・養護学校長
                           都立中学校・中等教育学校長
 東京都教育委員会は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(平成15年10月23日付15教指企第569号)により、各学校が入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱を適正に実施するように通達した。また、「入学式・卒業式の適正な実施について(通知)」(平成16年3月11日付15教指高第525号)により、生徒に対する不適正な指導を行わないこと等を校長が教職員に指導するよう通知した。
 しかし、今般、一部の都立高等学校定時制課程卒業式において、国歌斉唱時に学級の生徒の大半が起立しないという事態が発生した。
 ついては、上記通達及び通知の趣旨をなお一層徹底するとともに、校長は自らの権限と責任において、学習指導要領に基づき適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう通達する。
導要領に基づき適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう通達する。
 
注〔2〕 2012.1.16判決。原告側の呼び名によれば「東京「君が代」裁判第一次訴訟(04年処分取消)」。上告人は162名(不伴奏者も含む)。【次回に続く】

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