礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日中に空襲があると留守は家人ひとり(野村兼太郎)

2022-05-26 01:11:11 | コラムと名言

◎日中に空襲があると留守は家人ひとり(野村兼太郎)

 本日も、野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)に載っていたエッセイを紹介する。タイトルは「空襲」。やや長いので、何回かに分けて紹介する。

   空  襲

 サイパン島、テニヤン島に基地を推進して来た敵は、しばしば帝都の上空にその姿を現はすやうになつた。勿論未だ偵察程度のものに止まり、一機か二機、はるか高空に飛来するに過ぎない。九州地方、沖縄、台湾の空襲とは比較にもならず、又ベルリンやロンドン、その他ヨォロッパの諸都市の受けた恐るべき破壊も今のところ起つてゐない。敵機が来襲したといふ名ばかりで、何らなすところなく遁走してゐるのである。
 しかし無気味に鳴り響く警報のサイレンの音と共に、一種慌しい緊張さを感ずることは何人〈ナンピト〉もこれを否定し得ないであらう。話にきく大空襲を受けた諸都会の廃墟と化した状態などを想像はするが、さうした体験をもたないだけに、却つて焦躁と不安とを感ずるのである。それが又神経戦をねらつて、一機二機やつて来る敵の作戦かも知れないが、それだけなら大した効果あるものとは思はれない。かうした経験を繰り返すうちに、却つて防空体制の不備も自ら反省され、大空襲をうけても一向打撃を受けぬ、ねばり強さが出来てくるかも知れないのである。
 私どもは湘南に住んでゐるが、家族の者は国民学校に行く児童を除いて、東京・川崎・横浜等へそれぞれ出かけていかなければならない職場をもつてゐる。日中に空襲があるやうな場合には留守は家人ひとりである。今日まで未だ僅かな経験ではあるが、夕食時に帰つて来た各自の話をきくと、それほど隔つた地域でもないのに、報告は相当まちまちである。ある所では相当慌しい騒ぎをしたやうであるのに、他の所は頗る平穏であつたらしい。空襲に遭遇した場所、当人の感受性などに依つても著しく異なり、又実際各地域の状況に依つて避難待機の方法も決して一様であり得ないのである。もし中央からの指令か何かを杓子定木〈シャクシジョウギ〉に守つてやれば、時に大変な滑稽なことをやつたり、又時には大きな誤ちを冒さぬとも限らないのである。
 九州・台湾・沖縄等における実際の状態についてもつと客観的な、科学的な観察が発表されたなら、非常に有益でもあり、多少参考にもならう。それとても実際爆撃を受けた時に、どれだけ役に立つかは解らない。実状は個個の場合に依つて異ならざるを得ないからである。が、それでも個人的な主観的な実見談よりは遥かに役に立つであらう。個個の実見談は自己の身の廻りに起つたことに対するその人の感想に過ぎないので、その点は夕食時の食卓の報告と大差ないといつてもよからう。【以下、次回】

 このエッセイが発表されたのは、一九四四年(昭和一九)の後半か。野村兼太郎は、その当時、慶應義塾大学の経済学部長、あるいは図書館長だったと思う。

*このブログの人気記事 2022・5・26

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酒はやめられるが煙草はやめられない(野村兼太郎)

2022-05-25 04:16:12 | コラムと名言

◎酒はやめられるが煙草はやめられない(野村兼太郎)

 先日、三軒茶屋まで出かけたついでに、三宿交差点まで足を伸ばし、江口書店(古書店)を訪れた。古書マニアにはよく知られている老舗である。十数年ぶりに訪れたが、店の雰囲気が全く変わっていないのに驚いた。
 数冊、買い求めた本のうちの一冊は、野村兼太郎の『随筆 文化建設』(慶應出版社)。この本は、戦後の一九四六年(昭和二一)四月の発行だが、収められている文章は、ほとんど戦中のものである。
 本日は、同書の中から、「煙草」というエッセイの全文を紹介してみたい。残念ながら、初出は不明。この本は、この「煙草」に限らず、収録されている文章のいずれにも、初出が示されていない。

   煙  草

 酒と煙草とは人間の嗜好品として相並んで挙げられてゐるが、その古さからいへば比較にならない。乙女が米を噛んで酒を造つた古き世の頃から代代伝へて酒を嗜んで〈タシナンデ〉ゐるが、煙草の方は極めて近世のことである。アメリカ印度人の真似をした紅毛人は自分達の発明のやうに、煙を吸ふことを世界中に拡めたのである。
 煙草がこの国に齎された〈モタラサレタ〉のは何時のことか勿論さだかには解らない。一書には煙草の種を伝へたのは慶長十年乙巳〔一六〇五〕のことで、肥前長崎桜の馬場に植ゑたのがその最初であるといふ。確かなことは不明であるが、切支丹伴天連〈キリシタン・バテレン〉渡来後間もなく煙草もこの国に渡つて来たのであらう。
正直のところ煙草はどこがうまいかといはれると甚だ困る。だが疲れた時の一服、食後の一服には何ともいはれない味がある。元来私は愛煙家といはれるほどの喫煙者ではない。酒と煙草とどちらの方がうまいかと聞かれればむしろ酒の方がうまい。それにも拘らず酒の方はやめられるが、煙草の方はやめられない。簡単にのめるといふこともあらうが、永い間の慣習がか何時か病となつたのかも知れない。
 煙草をのみ出したのは学校を卒業して間もなくであつたと思ふ。別に大してうまいとも思はなかつたが、ある書に煙草の効用を讃め〈ホメ〉てゐるやうに「胸膈【むね】を通し、胃口を開き、欝を払ひ、悶を破り、憂〈ウレイ〉を消し、飽るを解き、歯牙を固くし、二便を通じ、能く一身の気をして、これを上下し、これを運転し、これを発散せしむ。」いつてみればこんなものであらう。読書に飽きた時、散歩する時、考へる時、便所にゆく時、一寸火をつけて吸ふ癖が何時の間にかついてしまつたのである。
 殊に洋行のつれづれに煙草の量も多くなつたが、煙草を口から離さすに後から後へと新しいのに火をつけるほど甚だしくはない。一日の量は両切煙草二十本から三十本といふ程度で、それを喫むといふよりはふかすといつた程度であつた。だが煙草がないとなると淋しい。淋しいといふよりも困る。ますますのみたくなる。 
 煙草がこの国に伝来してから間もなく非常に流行したらしい。慶長十三年〔一六〇八〕十二月某医官の私記に、「二三ケ年以来、たばこといふもの南蛮より渡る。日本の上下専らこれを翫ぶ〈モテアソブ〉。諸病を癒すといふ。然れども此頃これを吸ふもの、病を発することありといへども、医書に此療法なし。故に薬はあたへがたし」云云とあるといふ。この草の渡つて来た初めから弊害も少くなかつたのであらうが、日本の上下おしなべて、これを試み、これを喜んだらしい。
 しかし煙草はどう考へても不可欠の入用品とはいへない。江戸時代にあつても煙草は贅沢品であり、百姓に対する条目のうちなどにも百姓は煙草をのむべからずと述べ、又煙草の栽培は良田を潰すのでこれを禁じたこともある。煙草は一般にはなくてはならぬものではない。喫まずにすめばこれにこしたことはないのである。
 先頃来〈サキゴロライ〉、煙草の入手が急に困難になつた。戦争が始まると共に、いろいろな物資が不足し、容易に買へなくなつたが、煙草だけば、どうやら買ふことが出来た。喧しく〈ヤカマシク〉節煙を説かれ、値段も法外に高くなり、品質も悪くはなつたが、それでもどうやら要求を満たすことは出来たのである。それが行列しなければ買へないやうになつては、何とか考へなければならない。
 朝起きぬけに二三本立てつづけに吸ふ癖がある。それをしないと何となく頭がはつきりしない。思ひ切つてやめてみる。少し工合がわるい。最初のうちは一日の能率に影響するやうな気がした。それもだんだん馴れて来るやうだが、全然止めることは出来ない。
 煙草が隣組配給になつた。いろいろ考へたあげくであらうが、あまり賢明な策とは思はれない。日に六本といふのは致方がないとしても、品を撰ぶことさへ出来ないのはどうかと思ふ。私のところへは「朝日」と「響」とが割あてられた。
 戦時下敵機来襲の際にどんな煙草でも兎に角のめるといふだけでも感謝しなければなるまいが、かうした時だけに乏しいものを以つて、出来るだけ需要者に満足を与へるやうな配給法が考へられないものであらうか。
 第一線にある将兵が一本の煙草を数名でのんだといふ。喫煙者にとつて煙草の魅力は大きなものではあるが、無くて困るほどのものでもない。私も一時は無くては困ると思つた。友人のうちには喫煙を止めた人も数名ある。私はその人達をえらいと思つた。よく止められると感心した。だが今はどうやら私も止められさうな気がしてゐる。あれがあるでよし、なければないでよいといふやうな気持になつてゐる。それは私がそれほど愛煙家でもなく、それほど中毒してゐないためかも知れない。

 野村兼太郎(のむら・かねたろう、一八九六~一九六〇)は経済学者。一九四〇年(昭和一五)当時の住所は、神奈川県高座郡藤沢町大鋸(だいぎり)。
 煙草の効用を説いている「ある書」については不詳。そこに「飽るを解き」とあったようだが、文語文であれば「飽くを解き」とあるべきだったと思う。

*このブログの人気記事 2022・5・25(8位に極めて珍しいものが入っています)

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孔明を書いてくれと言はれたことがあります(露伴)

2022-05-24 05:27:11 | コラムと名言

◎孔明を書いてくれと言はれたことがあります(露伴)

 雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その九回目(最後)。

 露伴先生が亡くなつて、先生にもつと書いて置いて貰ひたいものがあつたといふことを、多くの人がいつた。私も同感である。私としては「運命」を書いたやうにして三国志を書かれたらと思つたことがある。それを先生に申したこともある。いや、孔明を書いてくれと人に言はれたことがあります、といふ事であつた。孔明の悲劇なら猶ほ結構である。演義三国志の孔明は固より実在の孔明ではない。併し、陳寿の三国志は果たして正しく全く孔明を伝へてゐるのか否か。陳寿は晋朝の臣で、晋は魏の祚〈ソ〉を承けるものであるから、孔明の仕へた蜀〈ショク〉を以て漢の正統とせず、司馬光の資治通鑑〈シジツガン〉も亦た魏を正統とする。後世の人は之に満足せず、曹操を悪み、劉備を悲しむ情が遂に発して演義三国志となつたといふことである。演義はもとより一の稗史〈ハイシ〉で信ずるに足らざることいふ迄もないが、「然れども人間の不平、此の一書を得て後初めて平らぐ」といつて、露伴先生はこれに同情してゐる。此の同情を以て、さうして厳密なる史実の考証に基いて、先生は果たして如何なる孔明を描き出されたであらうか。それを遂に見ることはなくして終つたのは残念である。先生は、世の孔明の智を称する評論に不平である。孔明はたゞに智者のみではない。孔明の明智を以て、蜀の遂に魏に克ち〈カチ〉得ないことを知らぬ筈がない。而かもそれを知りつゝ、猶ほ力の限りを尽して身先づ死するに至つたその志を悲しみ、「孔明の知を以て孔明の痴を能くする」ところに其の真の面目があるといふ。(露伴全集第九巻「通俗三国志」七九三頁)。先生はもとより通俗の判官贔屓〈ホウガンビイキ〉に類する議論をする人ではない。必ず確実なる史料に拠つて見るところがあつたであらう。国の正に傾かんとするに際して、其運命を担ひ、力尽きて身先づ死した諸葛亮とは如何なる人か。古今の史上、孔明の悲劇は孔明一人のものではない。露伴先生によつて此人の心事と功業に関する正確なる史実を知り、これに対する公正なる批評を聴くことは、恐らく露伴読者の願ふところであつた。

 文中、「稗史」は、原文では「裨史」となっていたが、誤植だと考えて校訂した。
 幸田露伴『運命』について補足したい誘惑にかられるが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・5・24(なぜか8位に桃井銀平論文)

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願はくは溥洽を赦したまへ(道衍)

2022-05-23 02:56:01 | コラムと名言

◎願はくは溥洽を赦したまへ(道衍)

 雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その八回目。

 その道衍〈ドウエン〉が永楽十六年、八十四歳で死ぬとき、何かいふことはないかとの永楽帝の問に答へて「溥洽〈フコウ〉といふもの繋がるゝこと久し。願はくは之を赦したまへ」といつたといふ。さうして、その通りに行ばれたのをきいて、感謝して死んだ。溥洽とは何者か といふに、位を逐ばれた建文帝の主録僧といふものである。燕王が兵を率ゐで南京に入り、禁門の守を失つたとき、建文帝は火に投じて崩じたともいはれ、出で、逃れたともいはれたが、この溥洽が状を知るといふものがあつた。永楽帝は、一方、この溥洽を囚へ、他方、人を遣して〈ツカワシテ〉徧く〈アマネク〉建文帝を物色させたが、遂に獲られなかつたのである。溥洽は引続き繋がれたまゝでゐた。此間建文帝は僧となつて雲南貴州の辺に往来してゐたのであるが、道衍は果して其実状を知つてゐたのか。道桁は果たして溥洽の実状を知るや否やを知つてゐたのか。また何故に臨終の願としてその解放を請ふたのであつたか。それは凡て謎のまゝで遺された。「運命」といふ題号は、此辺にも関係してゐるのである。【以下、次回】

 文中、「主録僧」は、原文では「主録傅」となっていたが、誤植だと考えて校訂した。

*このブログの人気記事 2022・5・23(8位のセイキ術は久しぶり)

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魔王の如く道人の如く策士の如く詩客の如く

2022-05-22 05:19:57 | コラムと名言

◎魔王の如く道人の如く策士の如く詩客の如く

 雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その七回目。

 篇中の佳処として引くべきものは、一々数へられぬ。作者が、帝王、将相〈ショウショウ〉から宦官小吏に至るまで、数十人の人物の一々に興味を以て之を描いてゐることは驚くべきものであるが、特によく描かれてゐるのは、やはり永楽帝其人と、謀師となつて之に叛起をすゝめた道衍〈ドウエン〉とであると思ふ。露伴はこの道衍を評して「魔王の如く、道人の如く、策士の如く、詩客の如く」といつてゐるが、彼れは燕王を勧めて簒奪を敢てせしめんとしたとき、王が、彼〔建文〕は天子なり、民心の彼に向ふを奈何〈イカン〉といつたのに昂然として答へて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云つた、大胆不敵の人物である。燕王が帝位に即き、道衍は少師と呼ばれて、名をいはれなくなるほどの尊重を蒙る〈コウムル〉身となつても、彼れは甘んじて優遇を受けなかつた。「蓄髪を命ぜらるれども肯んぜず、邸第を賜ひ、宮人を賜はれども辞して皆受けず、冠帯して朝すれども、退けば即ち緇衣〈シイ〉、香烟茶味〈コウエンチャミ〉、淡然として生を終り」云々とある。さうかと思ふと、晩年に至つて、猶ほ仏教を排する程朱の説を難じて之に嘲罵〈チョウバ〉を加へ、識者の擯斥〈ヒンセキ〉を受けることを顧みなかつた。その為め故郷の良州に姉を尋ねても姉は会はず、友の王賓なるものを訪問しても賓も迎へず、賤んで遥か語り、「和尚誤れり、和尚誤れり」と呼んだといふやうな事もあつた。これが道衍のすでに八十に近い時の事であつた。露伴はこれを評して、道衍の程朱反駁は議論としては別段奇とすべきものはない。「然れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於て、抗争反撃の弁を逞しくす。書の公〈オオヤケ〉にせらるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰ふと雖も、亦争〈アラソイ〉を好むといふべし」といつてゐる。正に同感である。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・5・22(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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