勘違いに気づくこと

2010-08-19 15:00:43 | 日記

新しく入会してくる生徒の親の中に、時々こんなことを言う人がいます。

 

 「ウチの子は甘やかされて育ってしまいましたので、先生のところでは是非厳しく指導してください」

「甘やかされて育った」のではなく、そういう親自身が「甘やかして育てた」というのが正しい表現でしょ、という気がしますが、それはともかく、結論から言いますと、こうして入会してきた子の大半は、結局のところ長続きしません。

 たとえ塾で厳しく学習指導しようとも、普通の子なら何ということもないような当たり前の注意をしただけで拗ねたりやる気(元々ないのですが)を失ったりします。

 先日も、あろうことか、堂々と授業中にお菓子を口にしている女の子に、すぐにそれをやめるよう注意しましたら、「私、何も食べてなんかないよ」と言います。

 お菓子を口に運び、咀嚼して飲み込むという行為を普通「食べている」と評するのだと私は思いますので、彼女の開き直りにも似た言い草を直ちに却下して、今すぐそれをやめなさい、と言ったところ、それからしばらくしてその生徒の態度が見る見る悪化すると共に、それまで辛うじてつながっていた(かに見えた)勉強への意欲が見事に消えて失せ、「これは時間の問題だな」と思っていた通り、数日後に退会して行きました。

 その子は、実はウチに来る前にも複数の学習塾を経てきており、そういうことから、おそらくどこででも同じような行動パターンが続いて、結局はその悪順から抜け出すことが出来ないということなのでしょう。

ちなみに、ウチに入会した際の面談では、それらの塾のシステムや講師などに対する意味不明な批判、或いは悪口雑言の類を随分と口にしていましたが、そこには自らの甘い考えや行動を反省するそぶりは一切無く、非常に殺伐としたものさえ感じるものがあったことを覚えています。

 何故、このようなことを書くかといいますと、度々この欄で書いてきましたとおり、勉強をするということ、その結果として学力を上げるということは、それ自体はそんなに困難を極めるようなことではないということです。

 それよりも大切なポイントは、生活全般の中にメリハリを持たせ、併せて自らの行動に責任をもたせることであって、勉強など、こうした大枠の中の一部分でしかないのだということです。

スポーツの試合に例えれば、試合に備えて計画的な練習を出来ることが勝つために必須であって、試合の中だけで全てを完結しよう、あわよくばそこで勝とうという、そんな甘い話はないのです。

学習塾ですから、本人に自覚と責任ある行動力さえ備わっているのなら、私たちはどまでも背中を押していくことが出来ます。

それすら出来ないというなら、もはやそこに建設的な意味など何もなく、従って何の果実も得られません。

これは、極めて簡単且つ勿体無い行き違いであると思います。

 

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