アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

当ブログへようこそ

 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

 これが、当ブログの主張です。
 詳しくは→こちらを参照の事。
 「プレカリアート」という言葉の意味は→こちらを参照。
 コメント・TB(トラックバック)については→こちらを参照。
 読んだ記事の中で気に入ったものがあれば→こちらをクリック。

2つの終戦特集記事と脱北者の想い

2008年08月19日 21時11分19秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 遅くなりましたが、8月15日付の終戦特集記事の中で、特に好対照を成すものが2つあったので、こちらにも紹介しておきます。その一つは産経新聞の主張(社説)記事で、もう一つが東京新聞の社説記事です。

■8月15日 日米の絆を確かめたい(産経新聞・主張、抄)

>「帝国」復活を思わすような中国の台頭は、日米安保条約による米国との同盟を軸に、安全と繁栄を保ってきた日本の国家戦略を根本的に揺さぶる要素にもなってきた。それだけに、北京五輪の最中に終戦の日を迎えたことは、日本の戦後と将来を考える上で大きな意味を持っているといえる。

>今、日本国内にも「国連中心主義」を唱える民主党の小沢一郎代表をはじめ、日米同盟より多国間の協調を重視する声が急速に強まっている。こうした状況は、かつて日英同盟が廃棄されたときと似ていると言わざるをえない。
 明治35年(1902年)に結ばれた日英同盟は、日露戦争での日本の勝利に貢献し、国際社会での日本の安定した地位を確保させた。しかし大正10年(1921年)のワシントン会議で、新たに日米英仏4カ国条約を結び、同盟は廃棄された。
 中国への進出をうかがう日本への反発から、日英間に亀裂を入れようとする米国や中国の外交戦略に乗せられたためだった。日本国内にも「新外交」として同盟より多国間の協調を求める空気が強まっていた背景もあった。
 4カ国条約は太平洋地域における国際協調をうたっていたが、同盟とは異なり、何ら日本の安全を保障するものではなかった。唯一の同盟をなくした日本は国際的孤立を深め、先の大戦での破滅の道をたどることになる。

>今、日米同盟に代わり、価値観の異なる中国や、領土問題などで日本に敵対姿勢を強める韓国などと、多国間の枠組みを選ぶとなれば、日本はまた、孤立の道を歩むことになるだろう。
 むろん外交は、相手国があってのものだ。米国の「変心」に備えて「自立性」を強めることも大切である。
 だが、その前にやるべきは、補給の継続などにより「同盟の成果」を示し、日米の絆(きずな)を確かめることだ。中国や北朝鮮などによる同盟への揺さぶりや、これを弱体化させる動きは封じていかなければならない。(以上、引用終了)

 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080815/plc0808150313002-n1.htm

■終戦記念日に考える 人間中心主義に帰れ(東京新聞・社説、抄)

>三百万人を超える戦死者と焦土を残して終わった昭和日本の破局は一九三一(昭和六)年の満州事変に始まったとされます。
 それまで軍縮と国際協調路線に賛同し、軍部の横暴を批判する良識を持っていた新聞を中心とした言論界も中国・柳条湖での南満州鉄道爆破で一変しました。
 爆破が日本軍部の謀略であることは、現地に特派された記者がすぐに気づくほど軍の関与と宣伝が歴然としていましたが、「日本の正当防衛」「権益擁護は厳粛」で走りだした新聞は論調を変えることはありませんでした。
 言論も世論も事実に目をつぶり上海事変、日中戦争、太平洋戦争と進むにつれて神がかり。破滅に至る十五年戦争の熱狂はどこから来たのでしょうか。

>略奪や侵略が当たり前だった帝国主義の時代だったこともあるでしょう。欧米列強への恐怖と不安と長年の鬱積(うっせき)が一気に噴出したとの分析もあります。軍のマスコミ工作もあったでしょうが、この時代に垂れこめていたのは世界大恐慌の暗雲でした。
 一九二九年十月のウォール街の株暴落に端を発した大恐慌は、ドイツでナチス、イタリアでファシズムの政権を生み、日本では満州国建国の夢となりました。国家改造をめざした二・二六事件の青年将校決起には農山村の疲弊と貧困があったとされ、満州を経済圏にした日本は欧米に先駆けて国内総生産を恐慌前水準に戻します。第二次大戦のもう一つの側面が資本主義の暴走と破局でした。

>資本主義の暴走という点で、グローバル経済の行方が気がかりです。最も効率の良いものが勝ち残る地球規模の経済システムは、ひと握りの勝者と多くの敗者を生み、効率追求のあまり低賃金、過激労働、雇用不安を世界に広げ、多くの国で社会保障の削減となりました。石油などの資源争奪と食料まで投機対象とする貪欲(どんよく)と無節操は帝国主義時代さながらです。(中略)
 イラク戦争に参加した日本人青年が語っています。「人間らしく生きのびるための生存権を失った時、九条の精神より目の前のパンに手が伸びるのは人間として当たり前」。貧困と生活の脅(おび)えに平和の理念も吹き飛ぶ。日本のフリーター論客の「希望は戦争」がすでに現実の世界でした。

>資本主義暴走期の大正から昭和初期にかけ東洋経済新報の石橋湛山は「一切を棄(す)つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」「鮮人暴動に対する理解」の社説で、人間の健全さを示しました。領土と植民地の解放、民族の独立自治、自由貿易体制こそ世界の進むべき道だと説いた時代を超えた論説です。
 湛山のこの自由主義とヒューマニズムこそ戦後日本の立脚点だったはずです。人間のための社会経済システムや社会保障体制が一刻も早く再構築されなければなりません。人間を雇用調整の部品や在庫調整の商品並みに扱ったのでは資本主義の敗北で、未来があるとも思えないのです。(以上、引用終了)

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008081502000117.html

 それで、上記2つの社説記事を読んだ感想ですが、私としては勿論、後者の東京新聞社説の内容の方に、軍配を上げたいと思います。
 前者の産経新聞の方は、戦前の日英同盟の例まで牽強付会に持ち出して来ての、単なる「日米同盟絶対視」にしか過ぎません。『今の日本の「平和と繁栄」を享受したければ、たとえその内実がどうあれ、ひたすら米国追従を続けるしかないのだ』―この社説の内容を一言で言えば、そういう事でしょう。
 その「平和と繁栄」なるものが、果たして誰の犠牲によって、誰が享受しているのか。イラク・アフガン戦争の犠牲者や、先進国に搾取される第三世界の民衆や、日本国内のワーキングプアの犠牲と引き換えに、一部の「勝ち組」だけが享受している、只の「砂上の楼閣」にしか過ぎないではありませんか。そして今や、お膝元の米本国においてすら、それが「砂上の楼閣」にしか過ぎない事が、今や誰の目にも明らかになり、ブッシュ・ネオコン自体が既に「過去の人」となろうという時に。日本だけがいつまでもそれにしがみ付いている様は、もう哀れとしか言い様がありません。
 其処には、「お追従の勧め」や「諦めの哲学」、「国益」を煽る言葉はあっても、生身の「民衆」は一切出てきません。何の事は無い、戦前の「満蒙は日本の生命線」の発想から一歩も抜け出ていない。今や世界は遥かその先を行っているというのに。産経の発想こそが、「奴隷の平和」「一国平和主義」に他なりません。

 それに引き換え、後者の東京新聞社説の内容は、「人間の安全保障」という事を前面に押し出しています。資本主義の暴走から貧困・格差が生まれ、ファシズムが台頭し、やがて戦争にまで至った。軍事力や核抑止力だけでどうにか維持している「国家安全保障」という名の「砂上の楼閣」「支配者の為の、見せ掛けの、奴隷の平和」ではなく、全世界の全ての人が、戦争・飢餓・人権抑圧・経済的搾取から解放されて、真の自由・平和・民主主義・社会的生存権を享受出来るようになってこそ、はじめて本当に「平和である」と言えるのだ。―そういう事を、この社説は言っているのです。
 この「全世界」の中には、勿論、日本も米国もイラクもアフガンもパレスチナも北朝鮮もチェチェンも、全て含まれます。

 ここで最後に、北朝鮮難民の救援・定着を支援しているNGO「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」(略称・守る会)の機関紙「かるめぎ」(朝鮮語でカモメという意味です)8月10日号に掲載されていた、「守る会」会員の自作の詩を紹介しておきます。この詩が求めているものこそ、東京新聞の社説が求めているものに他なりません。少なくとも、産経の求める「奴隷の平和」なんかでは、断じてない。
 この作詞者の方も、ひょっとしたら北朝鮮の強制収容所に入れられていたのでしょうか。若しそうだとしたら、あの環境からよくぞ生還を果たし、よくぞここまで社会的視野を広げる事が出来たものだと、感慨を新たにしました。特に最後の環境問題に言及したくだりなどは、G8の首脳に是非読んでもらいたい。とかく「平和」と言えばイラクやアフガンばかりが話題に上り、ともすれば北朝鮮一帯は「平和の不毛地帯」と思われがちの感が今までありましたが、そこにも「人間の安全保障」を求める底流が、着実に脈打っていました。

 わたしは地球   作:李 美代子

 やめて、やめて、争いをやめて
 武器を捨てて、戦争をやめなさい

 わたしは地球
 いつ、どこの 誰がそうしたの
 この 地球上に線を引いて
 ここは 我々の国だと、互いに争い
 宗教のために争い イデオロギーのために争い
 夥しい数の爆弾を爆破させ
 わたしが 息もできないようにするなんて

 もともと、おまえたちは皆 兄弟ではないか
 互いに助け合い 分かち合って食べ
 住みたい所に住む自由は
 誰の上にもあるのに

 島が沈んで、北極と南極
 そしてエベレスト山まで氷が溶け
 明日にでも堰を切って流れそうなのに・・・
 それでもおまえたちは 戦争をやめられないのか

 おお、宇宙を統べておられる全能の神よ
 不明のこの者たちをどうすればよいのやら・・・

 愚かな人間たちよ
 全世界に猛毒を振り撒いておいて
 環境問題を議論する前に
 武器を引き上げよ、核をなくせ!

 この詩を書いたのが、先進国の反グローバリズム活動家やリベラル市民ではなく、脱北者乃至はその関係者であるという事実にこそ、日本の左派はもっと着目すべきではないでしょうか。そして、左派の立場から、イラク・アフガンや「過去の清算」だけでなく、北朝鮮や中国の人権状況改善に向けてどうするのかを、もっと明らかにすべきです。以前と比べれば遥かに言及するようになったとは言え、現状では、左派はまだまだこれらの問題に対して、及び腰の感が拭えません。
 そして大多数の右派については、ともすれば「嫌韓流」や「糞青」の目でしかアジア・世界を見る事が出来ないレベルから、いい加減卒業すべきです。そうしないと、最後には北朝鮮の人々にも追い越され、全世界の人々から笑い者にされてしまうでしょう。

※ちなみに、前記「産経」「東京新聞」も含め、終戦・原爆投下に関する新聞の社説は、NPJのHPで閲覧出来ます。但し、一部にはリンク切れで閲覧出来なくなっているものもありますので、ご注意下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする