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アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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反独裁ではなく共生を、理屈ではなく情念で訴えるべきだった

2011年12月01日 23時52分14秒 | 都構想・IRカジノ反対!
ザ・タイマーズ - 牛肉・オレンジ


 この度の大阪のダブル選挙は、非常に残念な結果になってしまいました。この結果に対して、当ブログのコメント欄やメールでも多大な励ましの言葉をいただきました。返事が遅くなりましたが、ここに改めて御礼申し上げます。告示前は橋下批判もかなり出てきて、メディアもかつての橋下礼賛一色とは大分様相が違ってきていたように思っていたのですが、それでもいざ選挙戦に突入してみると、やはり橋下の独壇場に終わってしまいました。
 橋下が、たとえその内容がどれだけデタラメなものであっても、大阪都構想とか職員・教育基本条例とか、それなりに新機軸を打ち出してきたのに対して、反橋下陣営のほうは、旧来の自民党・民主党が中心で、反独裁しか言わなかった。それでは普通の有権者は、たとえ多少独裁的でも、反自民・反民主で勢いもあり、何かしら新しいことに取り組んでくれそうな橋下のほうを選びます。そこに、共産党がいくら反ファシズムの観点から自分の身を犠牲にして今回反橋下に回ったとしても、有権者からすれば、「共産党も解同や自治労と同じオール与党の一味だったか」と、逆に誤解されかねないような流れになってしまいました。この段階で勝負が決まってしまいました。

 これでは、せっかくの「反ファシズム統一戦線」も、「旧保守とそのお零れにすがる左翼の野合」に堕してしまいます。恐らく共産党の頭の中には、浅野と吉田に票が割れて石原慎太郎の3選を許してしまった2003年東京都知事選や、逆に左翼が保守のシラクを支持してファシスト・ルペンの当選を阻止できた2002年フランス大統領選挙の教訓があったのではないかと思います。そこから教訓を引き出して、今度の大阪市長選では独自候補を降ろして平松現市長支持に回った。
 しかし、2003年東京の場合は石原という既成の権威への挑戦者という立場にあったのに対し、今回は自分たちも保守の現職を擁護する立場になってしまった。そして有権者のほうも、フランスの場合とは違って、反ファシズムや民主主義擁護の強い思いは持ち合わせていなかった。その中で、実際は保守反動のファシスト(ハシスト)で、弱肉強食・競争至上主義の銭ゲバ・新自由主義者でしかない橋下が、まるで自分たちこそが「反権威・反保守」の旗手であるかのように立ち回った。だから、自民・民主両党支持層だけでなく、共産党支持層からも橋下支持に流れる人が多く出てしまった。1+1が3や4になるどころか、逆に2が1.5ぐらいになってしまった。次のブログ記事や掲示板投稿にもあるように。

>「大阪都構想」「教育基本条例案」など、橋下手法は強引かつ危険な内容をふくんでいる。しかしそれに対抗するスローガンが「独裁」や「ハシズム」でよかったのか。ずっと違和感を感じていた。「民主主義」VS「独裁」を対立軸にすれば、敗北したときにどう説明するのか。大阪市民は実際に「独裁」を選択した。選挙の結果は民意だから、合理的な解釈をするならば大阪市民の認識と行動を批判しなければならなくなる。それができないから「ポピリズム」(大衆迎合)だと橋下手法を批判するか黙するしかなくなる。〈「反ファシズム論」では彼には勝てない〉(「新潮45」)と佐藤優さんが書いたとおりになった。(大阪「秋の陣」が問うた政治言語の是非@有田芳生の『酔醒漫録』)
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2011/11/post_6361.html

>大阪ではハシズムの危機に対抗して共産党が初めて自派の候補を下ろしてまで保守の応援に回り、事実上の「反ハシズム統一戦線」が登場しました。しかしその「統一戦線」は結局何の目新しいものも提示できず、ただ「反橋下」にしか見えなかった。選挙の争点は「新しい解決手段は何か」であるべきでした。経済危機、そこから来る政治危機に対して、「新しい回答」が求められていました。しかしその回答を提示できたのは橋下側だけだったことが敗北の原因であったと思います。つまり庶民の目には「反ハシズム統一戦線」は単なる「改革反対派」に見えたのです。(三浦さんのご指摘ごもっとも 投稿者:まっぺん 投稿日:2011年12月 1日(木)09時21分33秒@四トロ同窓会二次会掲示板)
http://6305.teacup.com/mappen/bbs/8895

>今日(注:7月21日)の、朝日新聞のオピニオン欄で、大阪の平松邦夫市長が、生活保護について、「努力しない人、打ち切りも」という文を載せていた。もともと、生活保護の有期化に熱心な人ではあったのだけど。(中略)
 だけど、大阪をめぐってややこしいのは、大阪では、あたかも、橋下さんと平松さんの対決が、最大の問題のような報道をされていることだ。考えればすぐにわかることだけれども、新自由主義的な視点で、福祉の切り捨てに乗り出す姿勢は、橋下さんと平松さんの間には、それほど大きな差があるようには思えない。同じ、勢力の中での手法のちがいがあるにすぎない。本当の対決は、別なところにあるのではないのだろうか。そう考えると、大阪で、福祉を守り、発展させるような府・市政をつくっていくたたかいは、その本当の対決点を、メディアのキャンペーンをはねのけて府民・市民の前に提示するというとてもしんどい仕事がまずあるのだなあと。(平松大阪市長の発言@ささやかな思考の足跡)
http://ono-blog.cocolog-nifty.com/sikou/2011/07/post-bea5.html

 以前の小泉首相もそうでしたが、今の橋下や石原にしても、今の既成保守よりも更に右傾化や弱肉強食・格差社会化を進めようとする政治家が、巧みな扇動によって既成の保守派を「だらしない」と攻撃する。攻撃の中身はあくまでも「だらしない=もっと上手くやれ」という「叱咤激励」でしかない。しかし、今は左翼の力が余りにも影が薄くなってしまったが為に、そんな極右の超保守派が、まるで唯一の「反保守」であるかのように有権者には映ってしまう。かくして、(肉屋にされるはずの)「豚が逆に肉屋を熱烈に支持する」という、全く皮肉としか言いようのない結果になってしまった。

 じゃあ、反橋下陣営は何のビジョンも持ち合わせず「反独裁」を叫ぶしか能のない天邪鬼だっかたというと、私はそれも違うと思います。共産党推薦の梅田候補だけでなく自民・民主両党府連が推薦した平松市長候補や倉田府知事候補も、「with(ウイズ)」や「オール大阪」の形で、それなりに社会的弱者の生存権や社民主義的なビジョンは提示してきたと思います。たとえ、それが「非正規の上に胡坐をかく公務員や大企業正社員」「地方の上に胡坐をかく大都市住民」「アジア新興国・途上国の低賃金搾取の上に胡坐をかく先進国労働者」中心の不完全なものであっても、橋下のいう「競争・効率・利潤」優先の民営化・規制緩和や「大阪都構想」「カジノ・リニア誘致」なんかよりも、まだマシなビジョンを提示してきたと思います。
 それが大阪の有権者の心に響かなかったのは、公務員・正社員や大都市・先進国中心のものであったという限界も然る事ながら、それ以上に候補者(タマ)や戦術の問題が大きかったのではないかと感じています。

 共産党の「反ファシズム統一戦線」方針も、従来の共産党からすれば大英断なのかも知れませんが、正直言って、もう時既に遅しの感は否めません。理想を言えば、小泉政権誕生前の、まだ90年代後半の共産党躍進の余韻が残っていた段階でそれを提起しておれば、小泉新自由主義や安倍・靖国派の台頭を一定抑える事も出来たでしょうが、ここまで共産党の力が弱くなってしまうと、たとえ言っている事がどんなに正論であっても、有権者を橋下の呪縛から解き放つのは、相当至難の業ではないでしょうか。
 ズブズブの「既成政党」自民・民主に至ってはもう論外です。党勢衰退は共産だけでなく自民・民主も同じです。彼らが、たとえ「with」や「オール大阪」、或いは「国民生活が第一」を口にしても、それが「国民・府民」ではなく「自分たち」だけを指す事が、もうこれだけあからさまになってくると、何を言っても相手にされなくなります。たとえその中に社民主義的な主張や「正論」が幾ばくか含まれていたとしても。

 そういう意味では、今回の大阪ダブル選挙は、既成二大政党の終焉を告げるものでもありました。問題は、その受け皿として登場したのが、既成保守勢力よりも更に右翼的で銭ゲバのファシスト・ポピュリスト(扇動政治家)橋下だったという事です。それに対して、既成政党の候補者が、学校の先生が授業で語るような喋り方をしていたのでは、「ヒトラー」のような橋下の街頭演説には対抗出来ません。橋下以上に大衆を惹き付ける様な強烈なタマを立てて、もっと誰にでも分かるような端的な訴え方をしないとダメです。たとえば忌野清志郎のような。
 そして、「公務員・大企業正社員、大都市住民、先進国労働者」だけでなく「非正規、地方、途上国」の人々の解放も視野に入れて、単に有権者がキヨシローにすがるだけではなく、有権者自身もキヨシローのような生き方を求めるようになってこそ、初めてこの日本が真に自立した、民主的で人権が保障された国に変わっていけるのではないでしょうか。それがとてつもなく困難で大きな目標である事も充分承知の上で、それでも敢えて書いたのは、それを避けていてはこの国を変える事は到底無理だから。
コメント (6)
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