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目くらましの絆ではなく解放への連帯こそ

2011年12月30日 21時04分51秒 | 映画・文化批評
  

・時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環(毎日新聞)

 3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に「絆」がある。「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「こだまでしょうか」といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。
 確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。
 しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。
 語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。
 訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。
 おそらく「絆」には、二つのとらえ方がある。家族や友人を失い、家を失い、あるいはお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷につなぎとめるもの。個人がそうした「いとおしい束縛」に対して抱く感情を「絆」と呼ぶのなら、これほど大切な言葉もない。
 しかし「ピンチはチャンス」とばかりに大声で連呼される「絆を深めよう」については、少なからず違和感を覚えてしまう。絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。
 つながりとしての絆は優しく温かい。利害や対立を越えて、絆は人々をひとつに包み込むだろう。しかし、しがらみとしての絆はどうか。それはしばしばわずらわしく、うっとうしい「空気」のように個人を束縛し支配する。たとえばひきこもりや家庭内暴力は、そうした絆の副産物だ。
 もちろん危機に際して第一に頼りになるものは絆である。その点に異論はない。しかし人々の気分が絆に向かいすぎることの問題もあるのではないか。
 絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。これを仮に「絆バイアス」と名付けよう。
 絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。たとえ社会やシステムに不満があっても、「社会とはそういうものだ」という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。そう、私には絆という言葉が、どうしようもない社会を前提とした自衛ネットワークにしか思えないのだ。
 それは現場で黙々と復興にいそしむ人々を強力に支えるだろう。しかし社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない
 なかでも最大の問題は「弱者保護」である。絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが「家族の絆」にゆだねられてしまいかねない点だ。
 かつて精神障害者は私宅監置にゆだねられ、高齢者の介護が全面的に家族に任された。いま高年齢化する「ひきこもり」もまた、高齢化した両親との絆に依存せざるを得ない状況がある。そして被災した人々もまた。
 さらに問題の射程を広げてみよう。
 カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインが提唱する「ショック・ドクトリン」という言葉がある。災害便乗資本主義、などと訳されるが、要するに大惨事につけ込んでなされる過激な市場原理主義改革のことだ。日本では阪神淡路大震災以降になされた橋本(龍太郎)構造改革がこれにあたるとされ、さきごろ大阪市長選で当選した橋下徹氏の政策も、そのように呼ばれることがある。
 人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。
 もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。批評家の東浩紀氏が言うように、本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。その上で私は、束縛としての絆から解放された、自由な個人の「連帯」のほうに、未来を賭けてみたいと考えている。
 http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20111211ddm002070091000c.html

 何か難しそうな文章のように感じてしまい、最初は紹介するのを躊躇したのですが、言わんとする事は分るでしょう。
 3.11の東日本大震災以降、「頑張ろう日本」だとか「家族の絆」という事が盛んに強調されるようになったが、そういう事を言っている政府やマスコミが、例えば震災・津波で露わになった「原発安全神話の嘘」に今もまともに向き合わず、平気で原発の再稼働や海外輸出を図ろうとしており、それを本気で阻止しようとはしない。そして放射線許容基準を緩め、今も原子炉に近づけず放射性物質がどんどん漏れ出しているのに、既にメルトダウンしてしまった後の原子炉の温度低下だけを見て「冷温停止」と言いくるめ、実際は放射性物質を周辺に押しやっているだけなのに「除染」と言い張り、福島県民の被曝にも見て見ぬふりをしている。

 そんな、「頑張ろうにも頑張れない」「絆を破壊しようとしている」現実に頬かむりしたまま、いくら口先だけ「頑張ろう」とか「絆」とか、「風評被害に負けるな」とか、あれこれの「除染健康法・調理法」なるものを言われても、そんなものは只の「目くらまし、ガス抜き、矛先逸らし」でしかない。
 これは何も、「頑張る」事や「絆の大切さ」を否定しているのではない。「頑張り」や「絆」を破壊しようとする者や勢力の企みを暴き出し、それと闘わずして、「頑張る」「絆」も糞もないだろう。本気で除染を追求したり風評被害を食い止める気なら、もはや脱原発しかあり得ない。

 これは何も原発問題だけに限らない。沖縄や厚木・岩国の基地被害の上に胡坐をかいて、さも訳知り顔に日米安保を無条件に肯定する。自分ところのワンマン・ブラック経営や労基法無視には何も言えずに、公務員や生活保護受給者ばかり叩いて鬱憤を晴らそうとする。そんな奴らが、幾ら年末だけ「絆」だの「愛は地球を救う」だの、あるいは「拉致被害者を見捨てるな」とか言っても、そんなものは偽善でしかない。「いやそうではない、本気で絆や人類愛や拉致問題の解決を望んでいる」と言うのなら、沖縄問題や格差問題に対しても、他人事で上から目線の憐憫や同情なんかではなく、共に生きる仲間として連帯できる筈だ。幾ら個人の能力には限界があり、実際にできる事は僅かでも。
 そういう意味では、上辺だけの「絆」連呼よりも、それを実際に破壊する者(独裁・搾取・人権侵害、等々)との闘いを前面に出した、「タイム」誌年内最終号の表紙を飾った「PROTESTER」(抵抗者)の画像こそ、今年の締めくくりとしてより相応しい。大震災で揺れた日本のこの一年は、世界的には民衆蜂起がアラブ諸国を席巻し、ウォール街占拠の反格差デモという形で先進国にも波及した革命の一年でもあったのだ。歴史は確実に進歩しており、未だに橋下・石原に「寄らば大樹の陰」の日本が遅れているだけなのだ。それではよいお年を。
コメント
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