アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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頭隠して尻隠さず

2014年08月17日 10時17分22秒 | 貧乏人搾取の上に胡坐をかくな


 6月の沖縄戦没者追悼式、8月の原爆慰霊式典と、式辞のコピペ(使い回し)を批判された安倍首相でしたが、8月15日終戦記念日の式辞はどうにか新しい原稿で臨む事が出来たようです。念の為に、私もデュフフ(difff:テキスト比較ツール)で昨年と今年の式辞を比較してみました。上記がその結果です。左の赤枠で囲った方が今年2014年(平成26年)、右が昨年2013年(同25年)の式辞です。表現が異なる部分のみ青で囲まれるので、それ以外がコピペという事になります。
 これで見ると、冒頭の「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ」「祖国を思い、家族を案じつつ」云々以外は、昨年と今年で全然異なる事が分かります。昨年の式辞は「御霊を悼んで平安を祈り」云々と、通り一遍の表現のみの「戦没者の顔が全然思い浮かんで来ない」内容で、しかも、その後にいきなり「戦後我が国は自由と民主主義を尊び」と続く、まるで「もう過去の終わった話で今は一切無関係」と言いたげな酷い代物でした。それに比べると、今年の式辞は、パプアニューギニアの戦場に散った兵士への具体的言及も為され、一応「顔の見える話」にはなっています。「今は一切無関係」と切り捨てた部分も今年はカットされました。日本が侵略した中国などアジア諸国への謝罪がないのは相変わらずですが、それを除けば、表面上は「コピペ」批判を見事にかわす事に成功したかに見えます。

 でも、根本部分は全然変わっていません。正に「頭隠して尻隠さず」。それは次のくだりからも明らかです。

―祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0815budoukan_sikiji.html

 まるで他人事の様に「戦場に倒れられ」「戦禍に遭われ」「遠い異郷に亡くなられ」と言っていますが、一体誰がその様な状況に追い込んだのですか?当時の戦争指導者である東条英機であり、その東条内閣の時に商工大臣だった岸信介(きし・のぶすけ)ではないですか。そして、その岸信介こそが安倍首相の祖父に当る人ではないですか。実際に、現首相の安倍晋三自身も、岸信介の生まれ変わりとして大人になるべくして育てられた事を、母の岸洋子自身が手記の中で明らかにしています。

 その結果、「パプアニューギニアにて、ジャングルで命を落とされ、海原に散った12万を超える方々」が一体どんな死を遂げたのか。それを下記の新聞記事から一部引用します。

●<戦没者230万人>6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く(毎日新聞)

 日本は15日、69回目の終戦記念日を迎えた。日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は、政府見解によると約230万人。その内訳は不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。兵站(へいたん)を軽視した無謀な作戦がこうした惨劇を招いたとして、昭和史の著作が多い作家の半藤一利氏(84)は「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と指弾している。

 総務省、厚生労働省などによると、1937~45年の戦没者230万人を戦死、病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していない。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、敗戦で記録を残すのが難しかったことなどが影響している。
 歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。
 個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月~43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。
 そうした日本軍兵士の生死を左右したのは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる「戦陣訓」だった。太平洋戦争開戦前の1941年1月に東条英機陸相(当時、後に首相)が全軍に示達し、降伏は不名誉なこととされた。
 勝利か、しからずんば死か--。「皇軍」の兵士たちは文字通り、そうした状況に追い込まれた。戦死を免れても、補給を断たれてしまっては餓死するしかない。大本営参謀らのエリート軍人について、半藤氏は「緒戦の勝利におごり、自己の実力を省みず、攻勢の限界線をはるかに越えた」と戦略上の失敗を指摘したうえで、「人間をまるで、将棋の駒のように扱った」と批判している。(以上引用)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140815-00000000-maiall-soci

 しかし、この戦争批判でもまだ可愛い方です。探せばもっと酷い具体的な事例が一杯出てきます。たとえば次のネットの書き込みなど。ちなみに下記の牟田口廉也中将の逸話については、ネット辞典のウィキペディア(wikipedia)でも検索できます。

●牟田口廉也とは (ムタグチレンヤとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

牟田口廉也とは、旧日本軍の陸軍軍人である。最終階級は中将。(中略)

現代では、史上稀に見る愚将として有名。あまりにも盆暗で、日本兵からは「鬼畜牟田口」「無茶口」と罵られた。
終戦後に戦犯として捕まったが、不起訴処分となった。
駄目な日本軍人を語る場では必ずと言っていいほどこの人の名前が出てくる。

彼の愚将としての評価を定着させたエピソードが、日本軍が大敗した(注:ビルマ・インド国境地帯で展開された)インパール作戦である。作戦を立案した際にも、補給が出来ない事が理由で、参謀長や指揮下の師団長などのほぼ全員が反対、にも関わらず主張を変えなかった(そして、反対派の参謀長を更迭してしまった)。その主張の内容は、つき詰めていえば「イギリス軍は弱い、必ず退却する。補給について心配するのは誤りである」。現場の将兵にとって不幸だったのは、無謀な作戦を中止させるべき存在であるはずの軍上層部が、悪化する一方であった戦局の打開をこの作戦に期待して、牟田口を制止するどころか後押ししてしまったことである。なお、インパール作戦におけるイギリス軍は、日本軍を自分たちの領域に十分に引き付けて、補給が出来なくなった時点で反撃する方針を早々と決めていた。
この戦いにおける戦死者は、日本軍が38,000でイギリス軍が17,500。

そして、牛に荷物を運ばせ、食料としても利用するジンギスカン作戦を実施させたが、現地の牛がジャングルや荷物運びに適応せず、エサも用意出来ずに大失敗。牟田口を代表するエピソードの一つになっている。

ちなみに、当の本人は終戦後に中華料理店「ジンギスカンハウス」を開店した。

牟田口は、次のような迷言も残している。彼は兵士たちに「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」と大真面目で訓示したという。言い換えれば、「野草がいくらでも食える」という論理である。

前線はイギリス軍の作戦通り、補給不足で大苦戦。空腹の将兵たちは、上述の呆れた訓示でも実施せざるをえず、タケノコ、野イチゴはもちろん、ヘビ、カエル、カタツムリ等、食べられるものは何でも食べて、飢えをしのいでいた。そんなときに牟田口は芸者と料亭で豪遊。 その様子をイギリス軍がスピーカー越しに流し続け、日本軍のやる気を激しくダウンさせ、兵士の身だけでなく心まで削る偉業を成し遂げた。

挙句の果てに、作戦の失敗が確実になると、作戦指揮そっちのけで戦勝祈願の呪文を唱え始める始末。戦勝を祈願していたことから、勝つ気はあったのかもしれないが、軍司令官が神頼みを始めた、ということから「いよいよこの作戦はダメだ」と将兵たちは感じたという。

各戦線は、補給不足から絶望的な戦いを強いられていた。指揮をとっていた師団長たちも、作戦中止を具申したら更迭された者、マラリアで健康を害したという理由で交替された者(後に死亡)、いよいよ呆れ果てて師団主力を撤退させたために更迭された者(作戦終了後、軍法会議にかけられそうになったが精神錯乱という扱いで回避)など、いずれも酷い目にあっている。…とはいえ、生きて帰れた者はまだマシというもので、もっとも悲惨な目にあったのは「白骨街道」とまで言われた死屍累々の道を歩む羽目になった一般兵士達であったのは言うまでもない。

さらに牟田口本人は敗戦の色が濃くなるってくるや一目散に逃亡。そして言い訳。
「逃げたんじゃねぇよ!補給路を確保したかったんだよ!それを卑怯だなんて、ぼく悲しいなぁ」(意訳)

インパール作戦失敗後の7月10日に将校を集め訓示。
そのときの内容。

…皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って(以下略)

訓示は一時間以上も続き、栄養失調で弱っていた将校たちは次々とぶっ倒れていった。(以上引用)

http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F




 当時のボンクラ戦争指導者の孫として生まれ、その戦争指導者を仰ぎ見て、自身は何不自由なく育った安倍に、「戦禍に遭われ」なぞという他人事の様な式辞をする資格なぞ無い事が、これでお分かりになられたでしょう。

 しかも、これは何も昔の戦争だけに限った話ではありません。現在も同じ様な政治が行われています。今も安倍政権は、生活保護の切り捨てや、派遣労働者の使い捨てや、残業代ゼロ法案や、消費税増税や、原発推進や、集団的自衛権容認や、ガザの住民虐殺を続けるイスラエルへの武器輸出などで、今も日本と世界の民衆を死地に追いやっています。
 今の我々にとっては、ブラック企業の現場こそが正にパプアニューギニアの戦場なのです。昔「兵隊は一銭五厘のハガキ(召集令状)だけで集められるが、軍馬や武器はそういう訳には行かない、だから兵隊よりも馬や鉄砲の方が大事なのだ」と言われました。その「馬や鉄砲」が、今は「カゴ車やカート」にすり替わっただけではないですか。「労働者の安全や健康よりもカートの方が大事だ、カートを傷つけるな、カゴ車にラベルの跡を残すな」と言う表現にすり替わっただけではないですか。
 そんな政治を推進しているのは一体誰か。パソナのシャブ接待などで派遣企業や電力会社や「死の商人」から一杯ワイロを受け取り、規制改革会議や安保法制懇など各種の有識者会議に迎え入れ、ブラック企業のワタミ社長を自民党候補に擁立し、今も沖縄・福島・ガザの住民や貧しい人々を見殺しにしている現首相の安倍晋三、お前ではないか!!!

 第二次世界大戦の犠牲と引き換えに、ようやく手にした平和憲法や労働基準法がありながら、なぜ今もこの様な政治に苦しめられなければならないのか。それは、戦前の大日本帝国の復活をもくろみ、平和や人権を敵視する岸や安倍の様な政治家が、戦後も追放を逃れ政治の中枢に居座り続けたからです。そして米国も、岸や安倍の様な右翼を内心疎ましく思いながらも、一方ではソ連や中国に対抗させる為に積極的に泳がして来たからです。
 それでも今までは、平和運動や労働運動がそれなりに力を持っていた為に、これらの右翼は余り表に出る事はありませんでした。しかし、北朝鮮拉致問題などを契機に右翼が次第に台頭するようになります。そして今、平和憲法や労働基準法が再び改悪されようとしているのです。憲法や法律で保障された自由や人権や平和を、「絵に描いた餅」から本当の成果に変える為にも、安倍晋三を一刻も早く退陣させなくてはなりません。これは「もう過去の終わった話」なんかではなく、現に今も我々が直面している課題なのです。だから、私もしつこくこの問題を取り上げるのです。
コメント (1)
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