アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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日本をこれ以上、戦争中毒とオレサマ自由主義の国にするな!

2015年10月06日 11時35分29秒 | 戦争法ではなく平和保障法を


 今年も地元の母親大会に参加させてもらいました。
 母親大会というのは、戦後の核兵器廃止の運動の中で知り合った地域のお母さん方が、その後も平和や暮らしの問題について話し合おうと、全国各地で毎年行われてきた集会です。私の住んでいる大阪の高石でも、もう今年で37回目の開催になります。そこで取り上げる問題も、憲法から消費税、原発問題、教育問題と様々です。最近は若いママさんの姿も目につくようになりました。母親だけでなく誰でも無料で参加できるので、私の知っている人が役員をしている事もあって、私も数年前からずっと参加させてもらうようになったのです。(2014年2013年の母親大会の時の様子)
 その中で、今年は自衛隊の海外派兵に道を開く戦争法(安保法制)が国会で強行採決されてしまった直後でもあり、改めて今の憲法の素晴らしさについて学び、自民党などが進める憲法改悪の企てを阻止して行こうと、先日10月4日の日曜日に、岡勝仁・大阪府大名誉教授のお話「平和が一番、守ろう憲法」を聞かせてもらう事になりました。



 会場のホールには、この間の空前の規模にまで広がった国会前の抗議行動の様子や、絵手紙やタペストリーの展示が一杯掲げられていました。絵手紙やタペストリーからは、女性としての細やかさや芯の強さが伝わってきます。母親大会には、労働組合や政党中心の集まりや、SEALDs(シールズ)などの若者中心の集まりとは、また違った趣があります。私が母親大会に毎年参加するようになったのも、ひとえにこの展示があるからです。
 今年もまた、地元のお母さん方のコーラスで母親大会の幕が開きました。そして、阪口新六・高石市長の挨拶(あいさつ)と続きます。阪口市長は母親大会に毎年参加されています。今年は、終戦後にシベリアに抑留された叔父の悲惨な体験談から、「もうどんな事があっても戦争だけはしてはいけない」と話されました。阪口市長は、一方では市民病院の建設に背を向け、保育所の民営化を進めたりしていて、その点は賛成できませんが、少なくとも改憲反対の立場を明確にしている点については評価できます。


左:阪口新六市長の挨拶、右:岡勝仁先生の講演。

 その後、岡勝仁という方が、「憲法9条は日本の誇り、世界の宝」と題して、約1時間半に渡って講演してくれました。
 しかし、今までずっと自分なりに個人で「憲法9条守れ」の運動に参加してきた私にとっては、「今の憲法の素晴らしさ」なんて聞かなくても分かっている。今更そんな話を聞くよりも、戦争法廃止に向けた具体的な取り組みを進める方がよっぽど重要じゃないか、という気持ちもあったので、実は今回の母親大会については、余り気乗りがしませんでした。
 ところが、岡先生の話は、今まで聞いた在り来たりの憲法講演とは全然違いました。
 いきなり、エンゲルスの著書「猿が人間になるについての労働の役割」から入られたのに、まず驚かされました。エンゲルスというのは19世紀のドイツの思想家で、マルクスと並ぶ科学的社会主義(共産主義)の創設者とされる人です。エンゲルスはその著書の中で、猿が二本足で歩くようになり、樹上から平原に降り立ち、火や道具を使うようになった事で、初めて人間に進化するようになったと述べています。そこから先生は、「人間は労働によって進化した」「働く人が一番偉いのだ」「国あっての国民ではなく、国民あっての国だ」「それが民主主義であり基本的人権の基になる考え方なのだ」と、話を進められたのです。

 その上で、格差社会やブラック企業の搾取を免罪する今の新自由主義(極端な資本主義万能論)の考え方が、「自由」本来の考え方を歪めた、単なる弱肉強食・拝金主義の「自分さえ良ければそれで好(よし)」とする「オレサマ自由主義」でしかない点や、国民に向かっては愛国心や道徳教育の重要性を説く今の自民党政府が、裏ではホリエモンやワタミのような新自由主義のブラック企業や軍需産業とツーツーの仲であり、自分たちは悪事をやり放題である事や、今やもうそんな自分勝手な論理が通用する時代ではなく、どの国も他国との共存共栄なしには生きていけなくなった中で、「北朝鮮や中国が攻めてくる」といった政府の宣伝がいかに荒唐無稽(こうとうむけい)な物であるか、いたずらに国民生活を犠牲にして軍備にばかり金をかけるよりも、外交に力をいれ戦争の火種をなくす方がいかに理にかなっているかを、分かりやすく説明してくれました。

 それが最もよく現れているのが、今の憲法前文と自民党の憲法改正案(2012年版)の前文との比較です。今の日本国憲法の前文は次のような表現になっています。

―日本国民は、(中略)諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢(けいたく=恵み)を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍(さんか=災い)が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存する事を宣言し、この憲法を確定する。
―そもそも国政は、(中略)その権威は国民に由来し、その権力は代表者がこれを行使し、その福利(恩恵)は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅(しょうちょく=天皇の命令)を排除する。
―日本国民は、恒久の平和を念願し、(中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(以下略)

 まず、最初から「国民」が主語であり、「国民が~する」という決意をはっきりと表明する表現になっている事が分かります。もちろん、21世紀の今の時代からすれば、在日外国人やアイヌの人々を除外した「日本国民」だけが対象になっているという制約はあるでしょう。しかし、その制約はあるにしても、「国民一人ひとりが国の主人公である」点を明確に宣言した点や、「オレサマ自由主義」ではなく、「全世界の国民が平和で自由で幸福になる中で、初めて日本の国民も平和で自由で幸福になれるのだ」「いくら首相や天皇といえども、この国民主権や基本的人権、平和主義の原則を蔑(ないがし)ろにする事は出来ないのだ」と宣言した点で、次に比較する自民党改憲案の表現と比べれば、こちらの方がはるかにまともな内容であると言えます。



 次に、自民党の憲法改正案の方を見てみましょう。(残念ながら、講演に使用された映像資料の撮影が上手く行かなかったので、2013年6月9日付東京新聞に掲載された現行憲法と自民党案との比較対照表を代わりに添付します。)

―日本国は長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
―我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、(中略)平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
―日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
―我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通して国を成長させる。(以下略)

 ここでは「国民」より先に「日本国」「我が国」が出てきます。それも「天皇を戴く国家」であって、「三権分立もその範囲内で認められる」という構成になっています。いくら「国民主権の下」と書かれていても、実際には「三権分立もその範囲内でしか認められない」のですから、今の「国民主権」よりは大幅に制限されたものになるでしょう。
 その次になって初めて「国民」や「我々」が登場します。「平和主義は守る」「基本的人権も尊重する」とありますが、その一方で「世界の平和に貢献する」「和を尊び、自由と規律を重んじ」とありますから、「平和主義」も集団的自衛権行使で自衛隊の海外派兵の障害にならないならない範囲で、自由や人権尊重の謳い文句も、「和を尊び=空気を読め」「社会保障をあてにするのではなく家族同士がまず助け合え」「学問も科学技術振興や企業の金儲けにかなうものだけが認められる」という形で事実上打ち消され、「活力ある経済活動や国の成長に貢献できない奴は人間扱いされない」可能性が高いです。

 これでは今の中国や北朝鮮の憲法と同じじゃないですか。中国や北朝鮮の憲法も、表向きは「労働者や人民が主人公」であって「自由も人権もある、平和を守る」と書かれています。ところが実際は「社会主義制度や”将軍様”の許す限りにおいて、それらを行使できる」に過ぎないのです。そして実際には「規律保持」の名目で全然行使できないようになっています。これは戦前日本の帝国憲法も同じです。あくまで天皇が国の主人公であって、国民は天皇や政府の認めた範囲でしか自由や権利を行使できませんでした。その範囲も天皇や時の政府の意向によって自由に制限する事ができました。
 だから「先の大戦」も食い止められなかったのでしょう。それに対する痛切な反省から、今の憲法が生まれてきたのに、それをまた昔のような憲法に戻してしまったら、何の意味もないではないですか。それでなくても、今の日本には「ホリエモン」や「ワタミ」みたいな奴が一杯いるのに、こんな憲法にしてしまったら、もっと「オレサマ自由主義」の酷い国になってしまうじゃないですか。
 
 自民党を始め、今の憲法を変えたがっている人たちは、二言目には「今の憲法は米国から無理やり押し付けられた物だから変えなくてはならない」と主張しますが、何の事はない、自分たちの方がよっぽど、国民に自分たちの考えを押し付けようとしているじゃないですか。「天皇を戴き」とか「和を尊び」とか言って。自分たちは思いっきり「オレサマ自由主義」なくせして。
 ところが実際は、「全て国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する、国はそれを保障しなければならない」という今の憲法25条も、米国の憲法にはない規定です。米国にはこの規定がないから、今でも公的な健康保険制度が存在せず、盲腸の手術にも百万円もかかり、手術代が払えず破産する人が後を絶たないのです。そして、戦争放棄を定めた第9条もないから、しょっちゅう世界のどこかで戦争し、貧しい若者が奨学金給付と引き換えに軍隊に取り込まれ、戦地に飛ばされた挙句に死体や障害者となって帰ってくる、そんな国に成り下がってしまったのです。実際は今の憲法こそが、「米国による押し付け憲法」どころか、それ以上に素晴らしいものだったのです。

 今の憲法には、もう二度と昔の「戦争中毒」のような国にしてはならないという、先人の願いが込められているのです。玉砕させられ死んでいった戦時中の特攻隊員も、本当はそんな国を望んでいたのではないかと思います。
 既に明治初期には、そんな自由で平和で民主的な憲法を作ろうと考えた人が大勢いました。知識人だけでなく、貧しい農民や労働者も、当時の自由民権運動に触発されて、一日の仕事を終えて集まり、民主的な国を作ろうと熱い議論を交わしました。有名な「五日市憲法」を始め、全国各地でそんな自主的な憲法草案が発表されました。
 明治政府は、そういう民衆の声を押さえつけて、自由民権運動を骨抜きにする中で、昔の帝国憲法を国民に押し付けたのです。「天皇を戴き」とか「和を尊び」とか言って。今の憲法が「第一章 天皇」から始まっているのは、その当時の名残がまだ残っているからです。それを、今も自民党は、昔の名残どころか、帝国憲法と寸分たがわぬ「戦争中毒」「オレサマ自由主義」の憲法を、国民に押し付けようとしているのです。

 その上で、更に次の事も是非強調しておきたいと思います。
 かつて、格差社会の問題が初めてクローズアップされた時に、赤木智弘という人のネットでの書き込みが非常に話題になりました。「憲法で平和な暮らしが保障されるのは正社員だけで、その正社員の代わりに派遣などの非正規雇用労働者が搾取されてきた。非正規雇用の人間にとっては、護憲を叫ぶ「中産階級」なぞ敵でしかない。一層の事、戦争でも起こってくれた方が、非正規がのし上がれるチャンスが来て良い」というような意見だったと思います。
 私は赤木氏の意見には賛成しませんが、私も非正規雇用なので氏の気持ちも分からなくはないです。私からすれば、会社と一緒になってバイト・派遣・下請けいじめに加担する正社員や、都知事選挙で自民党候補を支持するような大企業の御用組合なぞは、労働者というよりも寧ろ資本家の手先でしかない。安倍晋三や橋下徹のようなナチスばりの政治家に心酔し、在特会(在日特権を許さない市民の会)などのレイシスト団体のヘイトスピーチ(差別扇動宣伝)に取り込まれていく「ネトウヨ」(ネット右翼)と呼ばれる輩も、正にそういう赤木氏のような人たちではないでしょうか。

 そういう人に、安倍政権が狙う改憲路線の恐ろしさを説明するには、「国あっての国民ではなく、国民あっての国だ」という一般論だけでなく、もっと身近で具体的な話をする必要があるように感じます。ブラック企業や「派遣切り」の問題なぞ、その最たる物ですが、それ以外にも、例えば本来なら祝福されるべき働く息子の独り立ちすら生活保護打ち切りの障害と見なして妨害するような大東市の福祉行政の歪みや、芸能人同士の婚約も「子供を産んで国家に貢献」という目でしか見れない菅官房長官の精神の貧困、戦前の国家総動員法の現代版でしかない「一億総活躍」大臣構想、企業研修の名目で2年間の自衛隊出向や予備自衛官補への就任を義務付けるインターンシップ構想(事実上の「隠れ徴兵制」)の存在(参考記事)など。講演の後の交流会で出された、大阪の小中学校が学力テストの試験対策にばかり追われ、生徒が荒れ放題になっている事も、もっと講演の中で取り上げてもらえれば更に良かったのにと思いました。
 今の憲法改正の問題では、単に戦争法(安保法制)や集団的自衛権行使、憲法9条改正に反対か賛成かだけでなく、この国をどうして行くのか、ブラック企業や軍需産業さえ栄えればそれで好とする「戦争中毒」「オレサマ自由主義」の国にしてしまうのか、それとも、今の憲法が保障している自由や人権を、それを疎(うと)ましく思っている自民党政府の妨害を跳ね除け、更に発展させようとするのかが、鋭く問われているのですから。
コメント (1)
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