アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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スポーツ選手を国籍で差別するな

2010年03月15日 19時04分33秒 | 映画・文化批評
朝青龍、引退会見で涙


 昨今は、この前のバンクーバー五輪だけでなく、トヨタのリコールや捕鯨規制の問題でも、やたら外圧を強調して、国家意識を煽るような報道が目に付きます。
 この土曜日の夕方も、整体治療の待ち時間に聴いていたラジオのDJ番組(注1)で、デーモン小暮が、朝青龍引退の件に託けて、「横綱には国技たる大相撲の最高位に相応しい品格が求められる、今後は横綱には日本国籍保持者しか昇進できないようにすべし」という趣旨の発言をしていました。
 私、それを聴いて、一瞬「あれっ?」と思いました。そんな事を言い出したら、逆に、メジャーに移籍したイチロー・松井・新庄といった日本人メジャーリーガーも、米国籍を取得しなければならなくなってしまうのでは。メジャーなんて、米国の国技みたいなものなのでしょうから。

 私は、野球や相撲については余り興味がないので、以前嗜んでいた競馬にたとえてみます。例えばGIレースの天皇賞で考えてみましょう。
 競馬は、それ自体は欧米から入ってきたスポーツ・ギャンブルであるものの、国内で広まる中で、軍馬育成と密接に結びつくようになりました。つまり、軍国主義とも全く無縁ではなかったのです。特に天皇賞なんて、戦前は「帝室御賞典競争」という名称で呼ばれ、天覧試合として行われていたレースです。そういう意味では、天皇賞は、謂わば日本の国技に相当すると言えるでしょう(注2)。
 しかし、だからと言って、レースには日本人しか出走できないなんて言い出したら、外国人騎手のぺリエやデムーロは一体どうなります?ぺリエなんて、日本語こそ殆ど喋れないものの、日本国内競馬場各コースの良し悪しについては、下手な日本人騎手以上に熟知しているのですが。

 斯様に、今や野球・サッカー・相撲などのプロスポーツや、競馬などのキャンブルにおいても、国際化の流れの中で、外国人プレーヤーにも門戸を開くようになりました。相撲力士についても、外国出身者の進出には目を見張るものがあります。これだけ国際化が進展している中で、今さら国籍ばかりに殊更拘った所で、果たしてどれだけの意味があるのでしょうか。
 勿論、それは手放しで賞賛されるべき事だけではありません。国際化に伴う負の側面としては、アディダスやミズノなどのスポンサー資本によるスポーツ界支配や商業主義の弊害があります。しかし、それを是正するのも国籍やナショナリズムなぞではなく、あくまでも市民の良識です。

 デーモン小暮は、自分のブログでも、今回の件について以下の様に書いています。

>朝青龍は、スポーツ選手・力士としては類まれな身体能力と気力・集中力・闘争心を兼ね備え「超優秀」であった。しかし一方で、「横綱」とは単なる最強者ではなく「日本人の心の奥底にある美徳」を具現化し全力士の模範であることが求められる存在、であるということを最後まで完全には理解できなかったのではないかと感じざるを得ない。(Feb.05.DC12:朝青龍引退。)
 http://demon-kakka.laff.jp/blog/2010/02/feb05dc12-00fb.html

 しかし、そもそも「土俵の上で勝負が終わった後に相手にきちっと礼をする」なんて事は、「日本人の心の奥底にある美徳」云々以前に、「市民道徳としての常識」ではないか。日本人だの米国人だの中国人だのいう以前に、一人の人間として求められるべき事ではないのか。
 それが、デーモンみたいに、それをまるで「日本人特有の美徳」であるかのように捉えてしまうと、逆に「外国人は野蛮で結構」となってしまうのではないでしょうか。

 デーモンは、知る人ぞ知る相撲ファンなんだとか。少なくとも、私なんかよりも遥かに相撲の事をよく知っている筈。朝青龍についても、彼が決して単なる無頼漢なぞではなく、それどころか母国モンゴルでは事業家として大成した人物である事や、話題になった「療養中のサッカー試合」も、母国でのストリートチルドレン救援チャリティーの一環として参加したのであり、誉められこそすれ貶される理由なぞ何も無い事も、当然知っている筈です。ならば、朝青龍に対しても、素人衆と一緒になってのバッシングではなく、もっと適切な助言があって然るべきと思うのですが。

(注1)後で調べたら、MBSラジオの関西限定番組「INO-KONボンバイエ」でした。
(注2)天皇賞レースの詳細については、JRA公式サイトを参照の事。このレースも、外国馬の参戦実績こそないものの、今やれっきとした国際競争の一つとなっています。
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1 コメント

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国籍や民族のくびきを越えて (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2010-03-16 11:00:45
資本の運動こそが世界市場の形成を通じて偏狭な民族主義や国家意識を究極的には破壊していくんだろうけど、資本主義の下では商業化せざるを得ないスポーツや芸術芸能などの世界でもそのような「資本の文明化作用」が民族の壁や国籍意識を破壊しつつありますよね。

例えば、多様な国籍の選手が当たり前だと既に思われている野球やサッカーなどのチームスポーツだけじゃなく、フィギュアスケートやコンペティションダンスのような活動ジャンルでも超国籍的・民族意識崩壊的な現象はかなり起こり始めていますよ。

フィギュアの世界ではガン保険アフラックのCMに登場した井上玲奈ちゃんやバンクーバーで4位になった川口悠子ちゃんが、それぞれ米国、ロシアの代表選手ですし、日本代表になった日米ハーフのリード姉弟ペアなんかも姉は日本籍だけど弟は日米二重国籍だもんね。
しかし、フィギュアファン歴の長い人たちは、既にそんなこともお構いなしに応援しています。
競技会ダンスやバンドの世界だって、草刈民代ちゃんが主演した「Shall We Dance?」的状況は既に当たり前。

だいたい、国籍だの民族的伝統だのと拘っている人たちの方こそ、国籍や伝統がとっくに崩壊・変化しちゃっていることを事実問題としてもあまり知らないみたいね。相撲通ぶっているデーモンだって、知っているのは現在の些末事ぐらいなんでしょ?相撲の歴史や伝統に勝手な思い込みや幻想を持っているんじゃないのかな?過去における「外国人」力士の存在や作法・土俵形態などの変遷、力士・協会組織の改変のようなことについての無知のことですよ。

堤清二さんなんかも言っていたようだけど、現在の日本の保守主義者が保守したがっているものって、結局は「明治以降の伝統」や「大日本帝国という国家意識」に過ぎないんじゃない?
そもそも唯我的な民族意識や国家観念って、レーニンが100年も前に指摘していたように、すこぶる近代的なものに過ぎなかったんだよね。初期資本主義時代に不可欠だった「統一市場」の形成の過程で必要とされた特殊歴史的な性格が強いイデオロギーだと思いますよ。

現代の真の課題は、インターナショナリズムとコスモポリタニズムの異同を鮮明化することなんじゃないかな?
どうでしょ?
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