昨日4月25日は沖縄・普天間づくしの一日でした。
当日は沖縄県読谷村で開催の普天間米軍基地撤去を求める県民集会(次回記事参照)に呼応して、全国各地で同様の集会・デモ・署名活動等が行われました(前回記事参照)。ここ大阪でも、午前11時から午後1時まで、大阪城公園森之宮ゲートで、市民団体による署名活動が取り組まれた訳ですが、そこに私も飛び入り参加してきました。
大阪での署名活動に取り組まれたのは、「平和と生活をむすぶ会」「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」「平和と民主主義をめざす全国交歓会」「ジュゴン保護キャンペーンセンター」の市民4団体で、それら諸団体による共催の形で取り組まれました。私は、前記の沖縄連帯行動には何らかの形で参加しようと、既に決めていましたので、たまたま旗旗さんのサイトでこの取り組みの事を知り、急遽そちらに参加する事にしたのです。
現地へは11時20分前位に着きました。JR環状線森之宮駅を出て交差点を渡ればもうそこが現地なのですが、何とその交差点では、既に幸福実現党が政治宣伝を始めていました。何台もの車に分乗して、30歳ぐらいの信者と思しき男女が大勢やって来て、盛んにリーフレットを配布していました。
私もそのリーフレットを一部戴きましたが、例によって例の如く、ミサイルと消費税とリニア交通網の話がない混ぜになった支離滅裂な内容に、読んだら直ぐに公園のゴミ箱に捨てました。顔だけはイケメン揃いの候補者に大勢の若い男女と真新しい宣伝カーと、とても泡沫政党とは思えない物量作戦に、資金の出所を訝しく感じながら。私たちがゲートで署名活動を始めてからも、天海祐希みたいな女性信者が、暫くはこちら側にも来て盛んにリーフレットを配っていました。
やがて幸福実現党も去り、それとは10歳は平均年齢が上回ると思われる私たちでしたが、それでものべ20名位が集まって、沖縄連帯を表す黄色のリボンを着用して、ジュゴン保護と普天間撤去を訴える2種類の署名を集めました。GW間近の晴天に恵まれた日曜日という事もあって、大阪城公園に向かう若者や家族連れの行楽客が、JRや地下鉄の駅方向から、途切れてはまた次々とやって来る中での署名集めでした。その時の反応ですが、ビラも署名も受け取りを拒否する人>ビラだけは受け取ってくれる人>署名はしないながらも話まで聞いてくれる人>署名にも応じてくれる人、という感じで、行楽客が主体の会場での政治署名という以外に、やはり本土での反応の鈍さや一種の冷淡さがあるのを感じました。
それでも、自分から進んで署名に応じてくれる人も決して少なくはありませんでした。大阪には昔から大正区を中心に沖縄出身者のコミュニティーがありますが、署名に応じてくれた方も大正区在住で、自分の署名とは別に、白紙の署名用紙も2枚ほど受け取って行かれました。また、自身の英語力を生かして、ソウル在住と思しき韓国人の方から署名を戴けたスタッフの方もいました。そんな感じで、2時間で2種合わせて400筆ほどの署名を集める事が出来ました。
左上写真が私。同じく右上は、女性の市民団体会員が着ぐるみを着て、「ジュゴンで~す、どうぞ私を助けて下さい」と訴えている所。この着ぐるみが子どもたちには意外と受けた。
左上写真は、「月桃の花」歌舞団の方によるギターの弾き語りで、摩文仁の悲劇について歌っている所。同じく右上は会場に張った垂れ幕の一つ。
会場で配ったビラの一部。若し大阪市内の堺筋本町に普天間基地(面積約4.8km2、大阪城公園の約4倍)が移設されたとすると、東西は阿波座から森ノ宮までのビジネス・官庁街が、南北はOBPから松屋町の玩具問屋街までが、すっぽり占拠される形になる事が示されている。
浅はかにも私は、それで沖縄に連帯したつもりでいました。これで昨日の休日を有意義に過ごせたと、当初はブログ更新に向かう筈でしたが、当日夜10時から同種のテレビ番組がある事を知り、そちらを見てから記事更新に取りかかる事にしました。ところが、そのNHK教育・ETV特集番組「本土に問う~普天間移設問題の根底~」の最終盤の場面で、自分の一知半解ぶりを改めて思い知らされる事になりました。
当該番組は、大田昌秀氏の元沖縄県知事としての足跡をたどる形で、普天間問題の真相に探ろうとするものでした。知事在任中の1995年に起こった米兵少女暴行事件を機に、日米地位協定改定や普天間基地撤去が政治課題に上るも、それらが制度運用面の見直しや基地移設の問題に巧妙に摩り替えられ、次第に行き詰っていく中で、太田氏は次の知事選で、膠着状態打開を訴えた稲嶺恵一氏に敗れる事になります。真正面から基地撤去を掲げた革新の大田県政に対して、保守の稲嶺県政は、基地撤去を願う沖縄と安保維持の本土側との間で、一種の妥協策を探ろうとします。それが「普天間基地の軍民共用化」「15年期限の名護・辺野古への基地移設」という苦渋の選択でした。しかし、国はその苦渋の選択の上に胡坐をかく形で、更に基地固定化に突き進みます。自身の苦渋の選択も全て反故にされた稲嶺氏は、次第に基地反対に転じるようになります。
沖縄では、現与党の民主党のみならず、前与党の自民・公明両党までもが普天間基地の完全撤去(県外・国外移設)を口にするようになり、今や基地撤去が保革を超えた県民の総意となりつつある訳ですが、私は単に、それは保守陣営の世論対策にしか過ぎないと思っていました。しかし、真相はもっと根深いものでした。確かに、基地撤去の筋を通す革新側に対して、保守側は実利優先で常に国と妥協を図ろうとしてきました。しかしそれは、地元保守勢力としての苦渋の選択にしか過ぎませんでした。基地撤去という究極の目標においては、革新側とも同じ思いを共有していたのです。それを国は、地元保守勢力を単なる国家権力の手駒としか看做さず、常に嵩にかかった態度で沖縄に接してきたのです。
勿論、だからと言って、当時の稲嶺氏を初めとした沖縄保守政治家のやった事を、そのまま容認する事は出来ません。彼らの「策動」が無ければ、今の事態はもっと早く解決していたのですから。
少なくとも、米軍支配に対して身を挺して闘ってきた沖縄の革新勢力には、上記の保守勢力を裁くだけの資格は充分あります。しかし、結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?
これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に他なりません。一旦ジェット機が墜落したり暴行事件が起こったら、その被害は保革の立場に関係なく全県民に及びます。だから沖縄では、基地撤去は政治的立場を超えた県民の総意となり得るのですが、その思いをどれだけ我々が認識出来ていたのか。それが問われているのです。
かつては本土にも、沖縄のような現実が、誰の目にも分かる形で広がっていました。だから、内灘・砂川等の基地反対闘争を初め、60年・70年の安保闘争、ベ平連・沖縄返還闘争・国際反戦デー、横浜でのベトナム行き戦車輸送阻止や「パパママ・バイバイ」の悲劇を許さない闘いが、今とは比較にならない位、旺盛に取り組まれたのです。それがいつしか、ベルリンの壁崩壊、社会党解体、北朝鮮・中国脅威論の流行、政治・社会の保守化・右傾化等の影響を受けて、次第に沖縄が顧みられなくなっていったのではないでしょうか。日米安保廃棄を目指すのでも、安保の負担を全国で分かち合うのでもなく、「日米安保が大事」だと言いながら、それを沖縄だけに押し付けてきた。そうして本土の人間は、常に自らを楽な「プチブル」の立場に置いて、しんどい事は全て沖縄に押し付けてきた。その姿こそが、太田氏や稲嶺氏が告発する「沖縄差別」ではないのか。
その中で沖縄県民は、「今度は本土が苦しむ番だ」と、ネトウヨ橋下レベルの復讐心に身を苛まされるのを必死に抑えながら、「もう誰も沖縄の苦しみを味わうことがない様に」との立場で、基地撤去を目指す闘いに立ち上がっているのです。
本土ではチヤホヤされている自民亜流の欲ボケ新党も、流石に沖縄では出る幕はありません。この違いは一体何なのか。普天間問題でも、他の例えばもっと身近な職場の労働条件改善の問題でも、何故、本土の人間はもっと本気で怒らないのか。それは、しんどい事は他の誰かに押し付けて、それで自分たちの当座の生存だけを確保しようと、心のどこかで思っているからではないのか。「それで自分たちだけは生き残れる」との錯覚に囚われているからではないのか。その意味では、これは決して沖縄の問題ではなく、寧ろ日本本土に住む我々の問題ではないか、我々の姿勢こそが問われているのではないか。それを今更ながら思い知らされた一日でした。
当日は沖縄県読谷村で開催の普天間米軍基地撤去を求める県民集会(次回記事参照)に呼応して、全国各地で同様の集会・デモ・署名活動等が行われました(前回記事参照)。ここ大阪でも、午前11時から午後1時まで、大阪城公園森之宮ゲートで、市民団体による署名活動が取り組まれた訳ですが、そこに私も飛び入り参加してきました。
大阪での署名活動に取り組まれたのは、「平和と生活をむすぶ会」「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」「平和と民主主義をめざす全国交歓会」「ジュゴン保護キャンペーンセンター」の市民4団体で、それら諸団体による共催の形で取り組まれました。私は、前記の沖縄連帯行動には何らかの形で参加しようと、既に決めていましたので、たまたま旗旗さんのサイトでこの取り組みの事を知り、急遽そちらに参加する事にしたのです。
現地へは11時20分前位に着きました。JR環状線森之宮駅を出て交差点を渡ればもうそこが現地なのですが、何とその交差点では、既に幸福実現党が政治宣伝を始めていました。何台もの車に分乗して、30歳ぐらいの信者と思しき男女が大勢やって来て、盛んにリーフレットを配布していました。
私もそのリーフレットを一部戴きましたが、例によって例の如く、ミサイルと消費税とリニア交通網の話がない混ぜになった支離滅裂な内容に、読んだら直ぐに公園のゴミ箱に捨てました。顔だけはイケメン揃いの候補者に大勢の若い男女と真新しい宣伝カーと、とても泡沫政党とは思えない物量作戦に、資金の出所を訝しく感じながら。私たちがゲートで署名活動を始めてからも、天海祐希みたいな女性信者が、暫くはこちら側にも来て盛んにリーフレットを配っていました。
やがて幸福実現党も去り、それとは10歳は平均年齢が上回ると思われる私たちでしたが、それでものべ20名位が集まって、沖縄連帯を表す黄色のリボンを着用して、ジュゴン保護と普天間撤去を訴える2種類の署名を集めました。GW間近の晴天に恵まれた日曜日という事もあって、大阪城公園に向かう若者や家族連れの行楽客が、JRや地下鉄の駅方向から、途切れてはまた次々とやって来る中での署名集めでした。その時の反応ですが、ビラも署名も受け取りを拒否する人>ビラだけは受け取ってくれる人>署名はしないながらも話まで聞いてくれる人>署名にも応じてくれる人、という感じで、行楽客が主体の会場での政治署名という以外に、やはり本土での反応の鈍さや一種の冷淡さがあるのを感じました。
それでも、自分から進んで署名に応じてくれる人も決して少なくはありませんでした。大阪には昔から大正区を中心に沖縄出身者のコミュニティーがありますが、署名に応じてくれた方も大正区在住で、自分の署名とは別に、白紙の署名用紙も2枚ほど受け取って行かれました。また、自身の英語力を生かして、ソウル在住と思しき韓国人の方から署名を戴けたスタッフの方もいました。そんな感じで、2時間で2種合わせて400筆ほどの署名を集める事が出来ました。
左上写真が私。同じく右上は、女性の市民団体会員が着ぐるみを着て、「ジュゴンで~す、どうぞ私を助けて下さい」と訴えている所。この着ぐるみが子どもたちには意外と受けた。
左上写真は、「月桃の花」歌舞団の方によるギターの弾き語りで、摩文仁の悲劇について歌っている所。同じく右上は会場に張った垂れ幕の一つ。
会場で配ったビラの一部。若し大阪市内の堺筋本町に普天間基地(面積約4.8km2、大阪城公園の約4倍)が移設されたとすると、東西は阿波座から森ノ宮までのビジネス・官庁街が、南北はOBPから松屋町の玩具問屋街までが、すっぽり占拠される形になる事が示されている。
浅はかにも私は、それで沖縄に連帯したつもりでいました。これで昨日の休日を有意義に過ごせたと、当初はブログ更新に向かう筈でしたが、当日夜10時から同種のテレビ番組がある事を知り、そちらを見てから記事更新に取りかかる事にしました。ところが、そのNHK教育・ETV特集番組「本土に問う~普天間移設問題の根底~」の最終盤の場面で、自分の一知半解ぶりを改めて思い知らされる事になりました。
当該番組は、大田昌秀氏の元沖縄県知事としての足跡をたどる形で、普天間問題の真相に探ろうとするものでした。知事在任中の1995年に起こった米兵少女暴行事件を機に、日米地位協定改定や普天間基地撤去が政治課題に上るも、それらが制度運用面の見直しや基地移設の問題に巧妙に摩り替えられ、次第に行き詰っていく中で、太田氏は次の知事選で、膠着状態打開を訴えた稲嶺恵一氏に敗れる事になります。真正面から基地撤去を掲げた革新の大田県政に対して、保守の稲嶺県政は、基地撤去を願う沖縄と安保維持の本土側との間で、一種の妥協策を探ろうとします。それが「普天間基地の軍民共用化」「15年期限の名護・辺野古への基地移設」という苦渋の選択でした。しかし、国はその苦渋の選択の上に胡坐をかく形で、更に基地固定化に突き進みます。自身の苦渋の選択も全て反故にされた稲嶺氏は、次第に基地反対に転じるようになります。
沖縄では、現与党の民主党のみならず、前与党の自民・公明両党までもが普天間基地の完全撤去(県外・国外移設)を口にするようになり、今や基地撤去が保革を超えた県民の総意となりつつある訳ですが、私は単に、それは保守陣営の世論対策にしか過ぎないと思っていました。しかし、真相はもっと根深いものでした。確かに、基地撤去の筋を通す革新側に対して、保守側は実利優先で常に国と妥協を図ろうとしてきました。しかしそれは、地元保守勢力としての苦渋の選択にしか過ぎませんでした。基地撤去という究極の目標においては、革新側とも同じ思いを共有していたのです。それを国は、地元保守勢力を単なる国家権力の手駒としか看做さず、常に嵩にかかった態度で沖縄に接してきたのです。
勿論、だからと言って、当時の稲嶺氏を初めとした沖縄保守政治家のやった事を、そのまま容認する事は出来ません。彼らの「策動」が無ければ、今の事態はもっと早く解決していたのですから。
少なくとも、米軍支配に対して身を挺して闘ってきた沖縄の革新勢力には、上記の保守勢力を裁くだけの資格は充分あります。しかし、結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?
これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に他なりません。一旦ジェット機が墜落したり暴行事件が起こったら、その被害は保革の立場に関係なく全県民に及びます。だから沖縄では、基地撤去は政治的立場を超えた県民の総意となり得るのですが、その思いをどれだけ我々が認識出来ていたのか。それが問われているのです。
かつては本土にも、沖縄のような現実が、誰の目にも分かる形で広がっていました。だから、内灘・砂川等の基地反対闘争を初め、60年・70年の安保闘争、ベ平連・沖縄返還闘争・国際反戦デー、横浜でのベトナム行き戦車輸送阻止や「パパママ・バイバイ」の悲劇を許さない闘いが、今とは比較にならない位、旺盛に取り組まれたのです。それがいつしか、ベルリンの壁崩壊、社会党解体、北朝鮮・中国脅威論の流行、政治・社会の保守化・右傾化等の影響を受けて、次第に沖縄が顧みられなくなっていったのではないでしょうか。日米安保廃棄を目指すのでも、安保の負担を全国で分かち合うのでもなく、「日米安保が大事」だと言いながら、それを沖縄だけに押し付けてきた。そうして本土の人間は、常に自らを楽な「プチブル」の立場に置いて、しんどい事は全て沖縄に押し付けてきた。その姿こそが、太田氏や稲嶺氏が告発する「沖縄差別」ではないのか。
その中で沖縄県民は、「今度は本土が苦しむ番だ」と、ネトウヨ橋下レベルの復讐心に身を苛まされるのを必死に抑えながら、「もう誰も沖縄の苦しみを味わうことがない様に」との立場で、基地撤去を目指す闘いに立ち上がっているのです。
本土ではチヤホヤされている自民亜流の欲ボケ新党も、流石に沖縄では出る幕はありません。この違いは一体何なのか。普天間問題でも、他の例えばもっと身近な職場の労働条件改善の問題でも、何故、本土の人間はもっと本気で怒らないのか。それは、しんどい事は他の誰かに押し付けて、それで自分たちの当座の生存だけを確保しようと、心のどこかで思っているからではないのか。「それで自分たちだけは生き残れる」との錯覚に囚われているからではないのか。その意味では、これは決して沖縄の問題ではなく、寧ろ日本本土に住む我々の問題ではないか、我々の姿勢こそが問われているのではないか。それを今更ながら思い知らされた一日でした。
今回の状況を見ると、どうも沖縄でもこの「苦渋の選択」の幻想性が、だいぶ清算されてきているようですね。米軍基地は結局、地元振興にも役立たなかったということが、従来基地容認派だった保守層によってもいよいよ結論付けられたのでしょうか。
しかし、そうであるならばこそ、核廃絶や基地撤去→軍事力信仰打破の運動の前進ためには、平和勢力の側も「平和の代案」とでもいうべき経済策をいっそう豊かに具体化する努力をはらうべきでしょうね。
沖縄の基地経済やアメリカの産軍複合体制をアフガンの麻薬栽培のようにいつまでも必要悪視させておかないような、平和の代替策を産み出すことが平和勢力にも求められていると思います。
沖縄のような地域を基地に依存しない雇用と経済へ転換させられれば、全国的、国際的な普遍的政策モデルにもなり得ましょう。
これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に
あー、これは筆がすべり(知事擁護から美化に)すぎましたね。今「保革を超えた」になっているだけで、力をあわせる意思があったかどうかが共闘とか統一戦線という場合には重要なわけで。とりわけ沖縄でも無視しえない力のある創価学会公明党なんて今日「これ」という方針だったのが明日「あれ」と上御一人がツルの一声号令をかければ180度コロっと掌返してもテンにも恥じない集団であり、今現在行動を共にしているのが、いつまたコロっとなるかは相手次第です。
真の沖縄の保守層と斯様な中央政治に直結したあえて言うと「保守」とも言い難い、反社会的カルトやそのカルトを骨がらみ自分の組織に取り込んだ沖縄の自民党のありかたは冷静に(行動を共にする限りにおいて敵視しないで行動)対処すべきです
社会主義が単なる分配政策に帰着しないことは日本の共産党なども既に自覚しているようですし、農業の多面的機能や金融経済肥大化の奇形性なども近年国民横断的・国際的に認識が共有されつつあるようですが、そう言う方面の理論・政策的対案の具体化努力はまだまだでしょう。社会主義社会は、モッコとトロッコのような遅れた生産手段を共有化しただけでは建設出来ないというだけでなく、生産手段の集中・集積や工業生産分野の社会化だけでも建設不能なのだと思いますよ。
しかし、レーニンなども「資本主義の寄生性・腐朽性」は指摘しましたが、社会主義的な産業構造や分業の積極論を自ら提示するまでの能力は示せませんでしたものね。「ソビエト権力プラス電化」スローガンだけじゃ20世紀水準としてさえお粗末でしたw
私は、「貿易立国論」や「観光立国論」などの既存の経済振興イデオロギーでは、軍事基地などの「迷惑施設」を抱える地域社会を健全に発展させることは出来ないと確信しています。米軍基地を撤去したフィリピンは、こういう面でも他山の石とすべきですね。
それらのイデオロギーは資本主義的な過度消費の風潮から自由でなく、帝国主義的な国際分業論を前提にしているようにも思えるからです。石原東京都知事の「カジノ構想」などが「観光立国論」の退廃した極端例でしかないことは判り易いでしょう。
真の改革派や左翼を自認する人々にとって、21世紀の課題は多いのですね。
資本主義的発展の遅れた基地依存地域や原発依存地域の平和的・民主的な経済振興は、地域開発の遅れが却ってそういった問題意識に立った「大いなる実験」を可能にするのではないか?
「迷惑施設依存地域」では、第一次産業から第四次産業までをバランス良く、かつ地政学的条件とも良く適合させた形で発展させる振興実験が可能だという点で、「災い転じて福と成す」ということも十分あり得るように思える21世です。
>しかし、結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?
>これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に他なりません。
沖縄のことを真面目に取り組むと、必ずこのような思いにブチ当たります。米軍基地の存在を許す構造と思想が問われてくるのです。
それでは琉球独立要求がくすぶり続けるような沖縄特有の地域的問題が等閑視されたままです。
米軍基地問題と格闘する沖縄では、北海道では既にほとんど壊滅させられてしまった歴史的民族的な特殊性が米軍基地問題ともリンクしているように思います。この辺のことは、現在の沖縄地域の言語や文化などからもうかがえますし、故・瀬長亀次郎氏の著作でも触れられています。
真の左翼の立場が、かつての台湾での独立運動のような抽象的個別主義ともネオリベ的なコスモポリタニズムとも一線を画すインターナショナリズムであるというならば、この面からも沖縄の地域振興の特殊性は考慮しなければならないでしょう。本土の平和勢力にとっても、沖縄の地域要求や地域的可能性を十分汲み尽くすような態度が求められるということです。本土の資本が舌なめずりする「観光立国」政策のような押しつけは、この面からも問題でしょう。
沖縄地域の特殊性を全面的に考慮しつつ、その経済的・文化的発展を保障するような「平和の代案」によって創り上げられる未来の沖縄は、最近の中台関係のような経済的プラグマティズムでもダメなのだと思います。
沖縄に有害な米軍基地が長期にわたり居座り続けられたり、アメリカで冷戦が終わった後も産軍複合体制が根強く蔓延り続けているようなことについては、やれ「帝国主義が悪い」だとか「日米安保のせい」だとかと軍事力幻想を引きずり続ける政治のあり方を批判するだけでは済まなかったんですよね。それだけでは、なぜそういう状況を容認してきた(今でも容認する)住民や勢力が存続し続けたのか、また、どうやったらそういう勢力の考え方や政治方針を変えられるのかということが問題にされませんからね。そういう批判は、しょせん傍観者の道徳的批判でしかない。
「平和の代案」のような具体的で建設的な地域振興の代案を案出し、そういう方向に多数派住民の希望や支持を得ること無しには軍事基地とか原発施設のような迷惑施設やアメリカの産軍複合体制のような幻想の遺物を住民の総意で撤去・撤廃することは出来ないと思います。
だから、「まず基地撤去があって、それから平和的な地域振興策を考えよう」というような段階論じゃ現在も軍事基地や原発を必要悪と考えてそれらの存続に妥協してしまっているような悪しき現実主義の裏返しでしかないのではないか。地元住民の生活こそが日々の現実なのですからね。
こういう観点に立った理論的・政策的努力が不足していた点でも、やはり「結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?」という自問や反省は必要なのだと思いますね。
考えてみれば、ソ連・東欧が崩壊し東西冷戦が終わった直後の1995年に、米兵による少女暴行犯罪に抗議する大県民大会が行われていたのですから、本土の人間たちや平和勢力、左翼勢力は、「基地無き沖縄」について、もっと早い時期から想いをめぐらせ代案作りに着手しておくべきでした。
そういう訳で、バッジ・コメントには当分手が付けられそうに無いので、当該コメントはせめて記事転載の形で保存しようかと考えています。コメントのまま流してしまうには、ちと勿体無いと思うので。