先日告知していた上記7月31日大阪の脱原発集会・デモに行って来た。「ナツダツゲンパツ」と銘打ったこの企画は、「せっかくの夏なのに、海も山も食べ物・飲み物も放射能に汚染されてしまって、何処にも行けねえ・何も食えねえ!」「このまま黙っていていいのか!個人でも何か出来る事はあるだろう!」とのノリで、個人でも気軽に参加できるカーニバル形式の、歌と踊りの集会・サウンドデモとして取り組まれたものだ。
前段の集会は14時から、西梅田のビルの谷間の公園で、在日三世の女の子の司会によるライブ・コンサートで始まった。公園自体も阪神高速の高架下にあり、夏の照り返しを避ける事が出来て良かった。
その後15時から種々のリレートークが行われた。まず釜ヶ崎の日雇い労働の現場から。以前労働者がダンプ運転手募集と騙されて福島原発で働かされていた事件が報道されたが、あれは氷山の一角にしか過ぎず、同種の事件は日常的に起こっている。
次いで福島の主婦と、彼女らの運動を支える元裁判官の弁護士からの報告。福島・郡山周辺の放射能は既に年間10ミリシーベルトに達している。本来の許容基準は年間1ミリシーベルト、放射線管理区域でも5ミリシーベルト余の筈なのに。「ミスター100ミリシーベルト」とのあだ名の御用学者の下で、被曝の事実自体がもみ消されている。既にチェルノブイリと同様に、福島の子どもたちの間にも鼻血や下痢が広まり始めているのに、マスコミは全然取り上げようとしない。もう直ぐ始まるとされる疫学調査も、被曝もみ消しの為のアリバイ的なものにしか過ぎない。放射能に汚染された瓦礫も、金になるからという理由で受け入れられようとしている。県外避難の権利を確立しろ。避難者を孤立させるな。一刻も早く安全な食品と生活を。
上記は集会で掲示していたポスター・ビラ・グッズ・冊子・ワッペンの類。脱原発は単に環境保護だけを訴えているのではない。勿論それが大前提だが、それだけではない。
大都会の金持ちの生活を支える為に、地方に原発を押し付け、下請け労働者に被曝を強いる。大都会でも下積みの人間は苦しい生活を強いられている。こんな経済の仕組みはオカシクないか。もっとみんなの人権が尊ばれるような公正な経済の仕組みを。その為には、多少今の生活水準が落ちても、ある程度は仕方がないのじゃないか。不正義と差別がまかり通るよりは余程マシだ。脱原発=アンチ拝金主義=戦争反対=表現の自由を(路上解放)!
会場では脱原発特集の「ビッグイシュー」が売られ、脱原発のバッジや団扇がカンパで広められていた。従来の労組主催の動員型・絶叫調のデモではなく、どこにも属さない個人による手作りの集会・デモ。赤旗も誰かが持ち寄ったゲバラの旗1本だけで、それが却ってよく目立っていた。
スタッフの腕章も、ガムテープにマジックで書き込んで服に貼り付けたものだった。そもそも集会・デモ主催者の名前すら、私の知る限り公式ウェブサイトにも載っていなかった。会場に併設されたビニール製プールでは、家族連れ参加者の子どもたちが水遊びに興じていた。
会場には国内や外国のメディア記者もチラホラ。台湾から駆けつけたカップルも団扇片手に嬉しそうに写真に納まる。彼の国も今、原発問題で揺れている。
16時から、いよいよサウンドデモが出発。その名の通り、先導のトラックに機材を積んで、歌と踊りで歩き通すカーニバル形式のデモだ。デモコースは、西梅田から関電本社前をかすめて、淀屋橋で御堂筋に出て難波で流れ解散。参加者の大半が若者だ。その殆どが、どこの党派・団体にも属さず、デモもこれが初めてという人ばかり。
デモはいよいよ御堂筋に。先頭付近にはチェ・ゲバラの旗が翻り、路上解放のパラソルが華を添える。長堀通りを渡る頃にはみんな絶好調に。
心斎橋の大丸百貨店横をかすめ、道頓堀川を渡っていよいよ難波へ。沿道の歩道からデモ隊の写真を撮る聴衆や、仕事帰りのOLと思しきスーツ・ハイヒール姿の女性が飛び入り参加する場面も。
いよいよゴールの難波に入る手前で一悶着あった。街宣トラックの音楽が、いつの間にかロック調から河内音頭に変わったと思ったら、今度はやにわに「君が代」を流し始めた。シュプレヒコールも、今までの「原発やめろ、東電は嘘をつくな」から、「私たちは右でも左でもない只の普通の市民です」「右の人も左の人も反原発の人は是非デモに参加を」「君が代を(強制ではなく)普通に歌わせろ」「私たちはこの国が好きなんだ」というものに代わっていた。それに反発したデモ参加者の一人が主催者に食ってかかっていたのだ。
私はその場面を見て複雑な気持ちになった。デモ主催者の言いたい事も分かる。一旦原発で大事故が起これば国民全員が被曝してしまう。そうなれば右も左も、原発推進派も反対派もないだろう。国を愛するという事は、何も時の権力や体制に媚びへつらう事ではない。寧ろ愛するが故に反体制の立場に立つ事だってある筈だ。恐らくそう言いたいのだろう。
でも、ちょっと待って欲しい。これが政治とは全く無関係のワールドカップの応援なら、私は何も言わない。でも、仮にも脱拝金(それはアンチ弱肉強食という事で脱資本主義・反帝国主義にも繋がる)や戦争反対、路上解放(表現の自由)を掲げてデモしているのだろう。そのデモが、実際に戦前の日本で、「蟹工船」「女工哀史」の搾取に支えられ、台湾・朝鮮・中国侵略の精神的支柱となり、戦争反対の声もパーマネントの自由も押し潰し、天皇の為に死ぬ事を特攻隊員に求め、彼らから生きる権利まで奪った「君が代」を、無批判に賛美して良いのか。デモ主催者・参加者には在日三世や台湾のカップルもいた訳だろう。その人たちが「君が代」を聞かされてどう思うか、デモ主催者は考えなかったのだろうか。
幾ら政治に素人の一般市民であろうとも、素人なら素人なりに、考えなければならない一線というものがある筈だ。幾ら「何でもあり」のデモであっても、DV被害者の集いでAVを流し、多重債務者の集いにサラ金のCMを流すような真似が許されるのか。
これは決してイデオロギーの問題ではない。寧ろ人間性の問題だろうと思う。また、今の中国・北朝鮮の人権侵害や独裁でチャラになる問題でもない(同じ事は逆に拉致問題にも言える事だが)。とりわけ昨今は、こういう事を言えば、それは「イデオロギー」だの「反日」だのという言説がやたら幅を効かせているので、特にそう思うのだが。
しかし、その一方で、そういうお前の考え方も、あくまでお前個人の考えであって、違う考えの人も当然いる。そういう人とも、露骨な差別主義者でない限り当面は受け入れて、まずは脱原発の世論結集に力を注ぐのが先ではないか。その中で、自分の考えをより多くの人に受け入れてもらえるように、地道に説得していく以外にないのではないか。そうも思ったりもする。
なるほど、例えば明治・大正時代に日本で初めて労働組合が出来た時も、最初の組合は「友愛会」という名前だった。つまり労使協調の立場で、ひたすら資本家の良心に訴えるというものだった。でも、「蟹工船」搾取の実態の中で、労使協調では埒が明かない事を、当時の労働者は徐々に悟っていったのだ。それを今のお前みたいに、自分の考えを振り回すだけでは、当時誰も付いて来なかった筈だ。でも、そうやって悟った労働者は最後には弾圧され、悟れなかった人たちも最後には「産業報国会」に吸収されてしまったのだが。
これは直ぐ答えの出る問題ではないかも知れないが、絶対に放っておいて良い問題ではない。「誰でも参加できる運動」を追求する余り、形だけの「脱拝金」や「戦争反対」に堕してしまったのでは何もならない。そういう意味でも、色々考えさせられた集会・デモだった。
モブ・ノリオさんはあえて日の丸に「原発反対」のスローガンを書き入れていました。日の丸を掲げながら反体制であるというのは、226事件のように戦前には普通にあった事だと思います。日の丸が体制順応主義になったのはむしろごく最近の事だと言いたいようにも思います。
対話を継続できるかどうかは分かりませんが、とりあえず。
いつもネトウヨの人たちが邪魔しにくる難波の交差点であえて君が代を掛け、君が代を掛けている時はMCを極力抑え、
その次に君が代をめちゃくちゃにアレンジしたフリージャズの曲を掛けながら、
踊れ!と橋下の国家起立と風営法でのクラブ取り調べを批判していました。
この記事は事実誤認ではないでしょうか?
「私たちは右でも左でもない只の普通の市民です」は道頓堀前で全然別の曲をかけている時にしていたMCですよ。
私も最初は、yokochingさんと同様に、「皮肉・反語的表現」として「君が代」を流したのかなと思ったのです。あの時に流していた「君が代」は、忌野清志郎が歌っていたような、ロック調にアレンジしたものでしたし。流した場所も、6月デモの時にネオナチ集団(在特会)がたむろしていたのと同じ、近鉄難波駅前の阪神高速ガード下でしたから。
しかし、その直後に参加者とのトラブルを目の当たりにし(一瞬の事なので最初は何が起こったのかよく分かりませんでしたが)、その後も「私たちは右でも左でもない~」や「お巡りさん有難う」コールをDJカーが流していたのを聞いて(これはゴール直前でも言っていました)、「これはもはや反語・皮肉ではなく本気でそう思っているのではないか」という疑念が頭をもたげてきました。
これが一参加者としての発言なら、「そういう人も反原発の一点でデモに参加した」証として、寧ろ肯定的に評価されるべきなのかも知れません。しかし、流石にデモ主宰者の側から流されたとなると、また話は違ってきます。「一体何のために脱原発を掲げたのか?」が問われる事になります。
何故なら、「君が代」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)は、デモで掲げた「戦争・差別反対」「路上解放」や「人権尊重、公正な経済・社会の実現」とは、完全に相容れないものだからです。それは、実際に戦前において、「君が代」賛美の下でどういう事が行われたのかを見れば、自ずと明らかになる筈です。(山本宣治・小林多喜二などの虐殺を例にあげるまでもなく)
また、よしんば「反語・皮肉」のつもりで「君が代」を流したのだとしても、実際にはそう取らずに「本心から君が代を賛美している」と取った参加者がいる以上は、もっと再考の余地があったのではないでしょうか。「反語・皮肉」が真に威力を発揮するのは、それが「痛烈な社会批評」である事が誰にも分かる場合だけなのですから。
ウッドストックのジミ変のような天才的発想は誰にでも出来るものではないから、ちょっと厳し過ぎるご意見かもしれませんねw
それに、君が代を原発事故と関連つけて揶揄・批判しようというのはアメリカ国歌に爆撃音や悲鳴を押し込むよりはるかに難しいでしょうし。
ま、JリーグセレモニーのTUBEの演奏に観客から批判も出なかったような現在の日本の状況下じゃ、贅沢や無い物ねだりの類いでしょうね
前のコメントに書き忘れましたけど、このデモについて詳細な報告ありがとうございました。何人かの人びとから議論も始まっているようであり、その出発点としても貴重な記事であると思います。
さて、前回のコメント意味が分かりにくかったかもしれないので、再度書いて見ました。良かったら読んでみてください。
「君が代」賛美の価値観=(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)と考えてよのか? についても最後に触れています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1
よろしくお願いします。
野原燐
>日の丸に足を取られて
まずは、このタイトルについての率直な疑問から。「日の丸・君が代」問題って、そんなに軽いものでしょうか。このタイトルからは、「そんな枝葉末節に足を取られて」みたいなニュアンスが感じ取れるのですが。
>モブ・ノリオさんはあえて日の丸に「原発反対」のスローガンを書き入れていました。
私は、「日の丸」に「反原発」を書き入れても全然問題ないと思います。色んな考え方の人がいますから。そういう人が反原発デモに参加するのも全然OKです。6月の東京・新宿デモの場合は、私の知る限りでは、右翼からの発言も「脱原発」に限定されたものを予定していたようなので、別段問題なしという認識でした。そもそも、それ以前に、デモ主催者の方から右翼に参加要請をしておいて、後で一方的にキャンセルしたのですから、責められるべきは寧ろ主催者の方です。
しかし今回の大阪の場合はどうでしょう。「脱原発」限定どころか、主催者自らが「君が代」を歌い出したというのですから、すわ「ミイラ取りがミイラになってしまったのか?」と訝しがられても仕方がないのでは。
例えば、右翼よりももっと現実的なケースとして、橋下徹(或いは河野太郎)の場合で考えてみましょう。私は、彼らにも来賓として参加してもらうのはアリだと思っています。如何に新自由主義者で「君が代」に賛成だとしても、「脱原発」限定での挨拶なら(←これが重要)全然OKです。何故なら、原発が純粋に経済合理性から見ても引き合わない代物である以上、彼らの様な立場でも「脱原発」を推進する事は一定可能だからです。
でもその場合は、少なくともデモ主催者としては、彼らのネオリベ・ネオコンとしての限界(本性)をきちんと見極めた上で、「そんな彼らでも客寄せパンダとして利用してやる」位の気構えで行かないと、足元を救われる事にもなりかねません。
しかし実際はどうでしょうか。デモ当日の様子を見る限りでは、デモ主催者にそこまでの自覚があるかと問われれば、どうしても疑問に感じざるを得ないのです。今のままでは、ただただ「脱原発なら何でもOK」という感じで、彼らに丸ごと同化しかねないという懸念が、どうしても拭えないのです。
「右翼の参加をどこまで認めるか」、或いは今回の様な「君が代をどう捉えるか」という場合においても、同じ事が言えるのではないでしょうか。例えば、「脱原発」限定の挨拶ならまだしも、その枠を超えて「君が代」礼賛までぶち出し始めたら、その時点でもう「戦争・差別反対」「人権尊重・公正重視」の運動趣旨とは全然相容れなくなる訳で。また、同じ「脱原発」右翼であっても色々な人士がいる以上、例えば鈴木邦男ぐらいまでならまだ許容できるが、ゴリゴリのレイシスト西尾幹二は絶対ダメとか、その辺で一体どこに基準を置くかとか。
仮に「脱原発」結集に向けて大同団結を図るとしても、少なくとも主催者レベルにおいては、「どこに原則を置くか」「どこまで多様性を認めるか」という事を自らがはっきり押さえておかなければ、運動がなし崩しやナアナアになるのは目に見えています。主催者を一般参加者や来賓と同じレベルで論ずる訳にはいきませんから。
他にもレスしたい事が幾つかあるのですが、もうこんな時間になってしまったので、それはまた後ほど。
>日の丸を掲げながら反体制であるというのは、226事件のように戦前には普通にあった事だと思います。日の丸が体制順応主義になったのはむしろごく最近の事だと言いたいようにも思います。(野原燐さん)
果たして彼らは反体制派なのでしょうか。
確かに226事件を起こした青年将校の中には、凶作や娘身売りなどの当時の農村の窮状に憤って、クーデターに加わった者もいたでしょう。また、彼らの精神的指導者でもある右翼の北一揮が「国家社会主義」を信奉したのも事実です。しかし、彼らが唱えた窮状の打開策というのは、農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるものでした。つまり、あくまでも当時の国策を補強するものでしかなかった。あくまでも国策肯定の前提の上で、「政府のやり方では生ぬるい」と批判するものでしかなかった。そんなものを反体制とは看做せないのでは?
しかし、当時の農村の窮状は、果たして人口過剰によるものでしょうか。当時の国内人口は今の約半分の6千万人です。それを養うのに対外侵略しか打開策はなかったというのなら、その倍の人口を抱える今の我々は、しょっちゅう戦争に明け暮れなければいけないのか?
実際は、農村窮乏の原因は、直接的には世界大恐慌によるものですが、その影響が取り分け日本で大きかったのには、より根本的な要因があったのでは。つまり、窮乏の真の原因は人口過剰になぞではなく、寄生地主や財閥に国民が搾取されていた事にあったのではなかったか。国民に人権が保障されず(当時は天皇主権で、国民には婦人参政権や労働基本権すら認められていなかった)、国民全体が貧しかったために、国内市場が広がらなかったからではなかったか。
ならば、その真の打開策は、政治・経済の民主化(農地改革・財閥解体・治安維持法撤廃・ニューディール政策の実施)にしかなかったのに、同じ帝国主義国の中でも人権後進国だった日本の指導層は、最後まで戦争という「椅子取りゲーム」にばかり固執し、経済改革によって「椅子を増やす」という「別の視点」を全然持てなかった。そこにこそ、戦前日本の最大の悲劇があったのではなかったでしょうか。
何が言いたいかというと、226事件の青年将校も、「天皇制という寄生の枠組みから一歩も出れなかった、その寄生の枠組みの中で、それをもっと急進的に、過激に行おうとしただけだった」という事です。「政府のやり方は生ぬるい」と批判しながら、実はその政府が行おうとしている事を、「更に先回りしてより過激な形で行おうとしているに過ぎなかった」という事です。
こんなものは、民衆の立場からすれば「あくまでも当時の寄生地主や財閥と同じ立場に立つもの」で、「所詮は敵でしかない」。つまり「今の在特会と全く同じ」です。こんなものを、果たして反体制と呼べるでしょうか?
上記の「寄生」を「既成」に訂正。
「君が代」賛美の価値観=(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)と考えてよのか? についても最後に触れています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1(野原燐さん、2011-08-04 14:39:54)
下記の記述がそうですね。
>そうかなあ、「在特会の君が代」=(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)かもしれないが、すべての人が「君が代」にネトウヨ的価値観を投影しているのだと言うことはできないと思います。
>天皇崇拝もいろいろあるはずで、純粋に人類の平和を願い戦争を反省している天皇主義者もいるだろうと思いますよ。
>「君が代」賛美の価値観が、思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯でしょうか? 「万世一系の天皇」中心主義は、明治憲法にも明記されていますがそれが直ちに思想の自由の圧殺、無謀な戦争、戦争犯罪につながった訳ではないと思います。そう理解するのは歴史に対するイデオロギーの効果を重視しすぎでしょう。
>また現在の「君が代」賛美の価値観は天皇中心主義を希薄にしか伴わないので、戦前のそれとは異質ではないでしょうか?
(以上、貴ブログ「弯曲していく日常」>当該記事「「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題」より)
本来はまずそちらでコメントを返すべきなのでしょうが、そちらでは他にも色んな論点が提示されており、その一つ一つに応えていくだけの余裕が今の私にはないので、まずは直接関係する上記部分へのレスという形で、ここで応えていきたいと思います。
仰る通り、「君が代」を受け入れている人の大半が、別に積極的に天皇を崇拝している訳でも、右翼を支持している訳でもありません。恐らく、大方の人は「それでも一応国歌だし」「今まで歌ってきたし」「みんな歌っているし」といった理由で受け入れてきたのでしょう。
しかし、その庶民による「受動的・消極的」支持(許容)こそが、今の右傾化の基盤となっているのではないでしょうか?
これは何も今に限った事ではありません。実は戦前日本もそうでした。表では「天皇陛下万歳」と叫びながら、裏では「何か最近の軍部は偉そうだな」と思っていた人が大半でした。
しかし、そういう大半の庶民も、「軍部ならこの不況を何とか打開してくれるのではないか」という形で、彼らの「蛮勇」に淡い期待を寄せていたのです。だから、誰も何も言わず、右傾化を阻止する事が出来なかったのです。
これは、上記の「天皇」を、今の「橋下徹・石原慎太郎」や或いは「小泉純一郎」などに置き換えれば、良く分かると思います。
幾ら、石原が「三国人」「ババァ」などの差別発言を繰り返し、橋下が福祉削減を強行し教委を「クソ」と罵り、両者が傍若無人に振るおうとも、そして、これだけ格差社会の弊害が露になっても、その格差を推し進めた小泉の人気が未だに堅調なのも、それを許容し支える庶民の「受動的・消極的」支持があるからです。
勿論、そんな右傾化の風潮に反対の声を上げる人は当時もいましたし、今も決して少なくはありません。しかし、そういう人は、戦前は露骨に弾圧され、今も陰で圧力を加えられ、次第に沈黙に追いやられているのが実情です。
そして、大半の人は、陰で彼らの事を疎ましく思いながらも、その反面では彼らの「蛮勇」にほのかに期待を寄せてきた。
何故そういう事が起こるのか。自分の身に引いて考えればよく分かるのではないでしょうか。
戦前は治安維持法、戦後の今は大政党優位の小選挙区制によって、政治的不満は抑えつけられている。しかも、長引く不況の影響で、食うや食わずの生活を強いられている。そんな状態がずっと続けば、庶民一人一人が声を上げて地道に政治の構造を変えていこうとするよりも、その時々の「勝ち馬」に乗っかって、手っ取り早くそのお零れにあやかりたいと思うのは、ある意味当然ではないでしょうか。
そんな日本社会の中で、「君が代」が国民に与える影響は如何なるものか。「インターナショナル」を聞いて「貧乏に怒りを燃やす」人はいても、「君が代」を聞いてそうなる人なぞ、まずいません。「怒りを燃やす」か「怒りが静まるか」と問われれば、大抵の貧乏人は後者のほうになるのでは。「ああ、俺も日本人なんだから、今さらお上に楯突いたりせずに、日々の生活をまっとうしよう(とりあえず目先の事を考えよう)」となるのが、関の山ではないでしょうか。
今日び、「戦前の様な天皇制をそのままの形で復活させよう」なんて、今の支配層も全然思っていません。今さらそんな事をしても、徒に反発を買うだけで、何のメリットもないですから。でも、未だにその「天皇」や「君が代」を放棄しないのは何故なのか。
それは、「君が代」が、今の日米安保体制や資本主義体制擁護の世論形成にとっても、大いに有用だからです。そして、ここにこそ、支配層が今も尚、「天皇」「君が代」を温存する最大の理由があります。
最初に一点だけ。
「日の丸に足を取られて」という文言は、確かに揶揄的な響きがあろうかと思います。「日の丸・君が代」問題は「そんなに軽いもの」ではないと思います。 「日の丸・君が代=百%悪で結論が出ている」について、疑問を呈するのが、(結論だけ言うと)私の立場です。
そうだとしても、揶揄的に響く表現は、初対面のプレカリアートさんに対し、避けるべきものだったと思います。すみませんでした。とりあえず。
気ままなコメントになりますがいくつかコメントしておきます。
(/noharra/20110806 の続き)
>> しかし今回の大阪の場合はどうでしょう。「脱原発」限定どころか、主催者自らが「君が代」を歌い出したというのですから、すわ「ミイラ取りがミイラになってしまったのか?」と訝しがられても仕方がないのでは。<<
在特会がいつも現れる場所で君が代を少し流した=「君が代+反原発なら受け入れますよ」つまり「君が代+親原発なら受け入れようがないね」というメッセージではないでしょうか。「彼らに丸ごと同化しかねないという懸念」をどうして感じられるのかよくわかりません。
>>確かに226事件を起こした青年将校の中には、凶作や娘身売りなどの当時の農村の窮状に憤って、クーデターに加わった者もいたでしょう。また、彼らの精神的指導者でもある右翼の北一揮が「国家社会主義」を信奉したのも事実です。しかし、彼らが唱えた窮状の打開策というのは、農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるものでした。つまり、あくまでも当時の国策を補強するものでしかなかった。
<<
そうですかねえ。
//hanran.tripod.com/japan/226.html 蹶起趣意書によれば、
「所謂元老重臣軍閥完了政黨等は此の國体破壞の元兇なり、(略)
内外眞に重大危急、今にして國体破壞の不義不臣を誅戮して稜威を遮り御維新を沮止し來れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。」
と重臣たちへのテロに打開策を求めている。「農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるもの」というのは誰の主張によるものなのでしょうか。教えてください。
クーデターを起こした勢力を反体制とは看做さないとは、階級的視点にたたないものはまともな勢力とみなさない左翼史観でしかないと思います。
>>民衆の立場からすれば「あくまでも当時の寄生地主や財閥と同じ立場に立つもの」で、「所詮は敵でしかない」。つまり「今の在特会と全く同じ」です。<<
論点は当時「民衆の立場」というものが成立していたと考えるべきなのか、という点です。
「つまり今の在特会と全く同じ」という発言が、すらっと出てくる所はびっくりしました。在特会などただのゴミであり現在社会における「勢力」ではない、と判断します。ネトウヨも数は多少多くともノイジーマイノリティにすぎません。それと多様な体制派を一緒くたにして「敵」を構成してしまうのは、間違った認識です。
>> しかし、その庶民による「受動的・消極的」支持(許容)こそが、今の右傾化の基盤となっているのではないでしょうか?<<
物事を「受動的・消極的」に支持(許容)する、というのは庶民の定義のようなものです。それにどういう立場から批判を加えるのでしょうか。それに私たち自身そうした意味で、庶民であることを全面的に拒否できるとも思えません。
「小泉の人気が未だに堅調なのも、」それは、純粋の「受動的・消極的」支持(許容)とは異質です。
小泉は天才で新しい政治的ファッションを作った。橋下も今後そうしていくでしょう。それをファッショとののしることに何か意味があるとは思えません。彼らは言葉を操っているだけなのだから、私たちも本来対抗できるはずなのではないのか?(私はむりでしょうが)
話を分かりやすくする為に、今の天皇を「水戸黄門」に準えて考えます。パッと見には政治とは無縁の好々爺の「水戸黄門」が、ここぞと思う時には葵のご紋を振りかざし、「頭が高い」と悪代官を懲らしめる、そんなテレビドラマが何故かくも長く続いたか。
「フランス革命のように民衆が立ち上がるのではなく、あろうことか悪代官の総元締めでもある天下の副将軍・水戸黄門の権威にひたすらすがろうとする、そんな奴隷根性の国民性にマッチしたからだ」と、辛口の批評を展開するのが私です。それに対して、「水戸黄門は私も支持しないが、ただボロクソにけなすだけでなく、何故それが日本人に受け入れられてきたかをもっと考えるべきでは?」というのが、野原さんの立場ではないか。非常に乱暴で図式的な捉え方なのは承知の上で、話を分かりやすくする為に敢えて単純化すれば、こういう事になるのではないか・・・と。
それに対して、7月31日の脱原発デモで「君が代」を流した人たちは一体どちらの立場に近いかと問うならば、そのどちらからもかけ離れた所にいる。私も野原さんも、その人たちからかけ離れた所で、互いにピント外れな議論を交わしているのに過ぎないのではないか。何かそんな気がしてきました。
何故そんな事を言うかというと、今日午前中に腰痛の治療してもらった鍼灸医さん宅で(そこは日曜日も営業している)、雑談で私がこの脱原発デモの「君が代」の話をした時に、そのお医者さんが、「デモ主催者にとっては君が代もロックや河内音頭と同格なんだ」と指摘したからです。
今ニュースでは国を挙げて東北復興支援を言っているし、原発被害で大変な事になっている。それに対して「頑張れ日本」とエールを送るには、「君が代」がうってつけなんじゃないか。恐らくそれ位のノリで「君が代」を選んだのじゃないかと。つまり主催者にとっては、「君が代」なんてワールドカップの応援歌やソーラン節と同じものでしかない。だから「戦争反対」を言うその同じ席で「君が代」を持ってきても、全然矛盾を感じないのだと。
そう思うと、ここで天皇の戦争責任や226事件の背景について議論する事自体が、何かバカらしく思えてきました。そんな「君が代=演歌・ソーラン節」な人たちに、幾ら産経新聞や安倍晋三あたりが「天皇の有難さ」を口を酸っぱくして言っても、全然彼らの心に響かない代わりに、幾ら私のような人が「戦争反対と君が代とは正反対のものだ」と言っても、これも前者と同様に、彼らの心には全然響かないのではないかと。
もっと言えば、そもそも彼らのいう「戦争反対」とは、せいぜいイラク反戦までで、それ以前のベトナム戦争や太平洋戦争、ましてやアジア侵略の歴史なぞは、完全に頭から抜け落ちているのではないかと。
以上はあくまでも仮説にしか過ぎませんが、若しこれが当たっているなら、今まで議論してきた事よりも、もっと重要な問題をはらんでいるのではないでしょうか。デモ主催者から非難されるのも承知の上で、敢えて言わせてもらうならば、一時の韓流ブームのように、彼らは時流に乗って「脱原発」を唱えているだけではないかと。
幾ら何でもそれはないかと思いますが、若しそれが本当なら、「はてなブックマーク」のFondriest氏のコメントにもあるように、時の支配者にとっては「こんな奴らなんとでもなる」のではないかと。幾ら何でもそれはないかと思うのですが・・・。
http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fafghan_iraq_nk%2Fe%2Fd7294ce037f19e279ce27c94f7622b91
最近の「反原発」ムーブメントの中に、「君が代」を流したり、「おまわりさん、ありがとう」と言ったりする潮流が見られると聞きます。
色々と難しい問題、運動体内部の「思想(結局天皇制も原発も「差別」問題を抜きにして語れない)のもありますが、
>「デモ主催者にとっては君が代もロックや河内音頭と同格なんだ」であれば、「左翼」的な面白い歌をドンドン流そうじゃありませんか(^^)
「インターナショナル」とか「ワルシャワ労働歌」なんぞ、「君が代」よりもウケると思いますよ。
一例…ワルシャワ労働歌の替え歌(私が勝手に作ったヤツ)
原発の雲、光を覆い
放射能の嵐は 荒れ狂う
まよわず逃げよ 我らが友よ
敵の東電、打ち砕け!
なんてね。
(1)反日左翼の脱原発策動に対抗すべく、国歌国旗法を以下の様に改正する。
「日の丸」を放射能管理区域の表示マークに。「君が代」も「核が世」に。(♪原発は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまでw)
(2)原発の安全性アピール、経済の国際競争力強化、防衛力の飛躍的向上、行政コスト削減の四石一鳥を狙って、国内の原発を全て皇居に集め、ついでに首相官邸・国会議事堂・各省庁と靖国神社もみんなここに集めて、橋下徹の向こうを張って、ここを「原発都」とする。
(3)神聖なる天皇陛下におかれましても、ここは是非、大日本国の象徴として人間ガイガーカウンターになっていただき、半減期2万4千年のプルトニウムにも対応すべく、万世一系の機能を遺憾なく発揮してもらいたいw。
>(2)原発の安全性アピール、経済の国際競争力強化、防衛力の飛躍的向上、行政コスト削減の四石一鳥を狙って、
上記の「四石一鳥」を「一石四鳥」に訂正。我ながらお恥ずかしい。
>「農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるもの」というのは誰の主張によるものなのでしょうか。教えてください。
226事件の精神的指導者である北一輝の主張です。「私は社会主義者であると同時に帝国主義者でもある」「労働者が資本家と闘うように、国同士も戦争して何が悪いんや」と言った北一輝の。 http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/kita-ikki.htm
その北一輝の主張と、過剰人口を欧州侵略の口実としたナチスの主張を繋ぎ合わせて書きました。しかし、今思うと、ここでいきなり人口問題を持ってきたのは、唐突だったかも知れませんね。ここはもっと素直に、「日本の場合もナチス同様に対外侵略に活路を求めた」と書けば良かったなあと反省しています。
それで、リンクでお示しの226事件首謀者の決起趣意書も読みました。読んだ結果、「事件首謀者は決して反体制ではなく、況してや民衆の味方なぞでは絶対にない」との確信を、ますます深めるに至りました。
以下、決起趣意書について、原文の文章では流石に分かりづらいので、併設の現代語訳を更に噛み砕いて解説していきます。(注:出典元は野原燐さんの元コメントを参照の事。当該リンクを張るとURLエラーでコメントが弾かれてしまいますので、ここではもう割愛します)
趣意書には、まず最初に「日本は昔から今まで天皇中心でやって来た」とあり、「でも、近年はいろいろ良からぬ輩が横行し、みんな好き勝手な事をやるようになったので、天皇の権威が損なわれ、国民も蔑ろにされ、外国からもバカにされるようになってしまった」と続きます。
そして「その良からぬ輩が元老・重臣・軍閥・官僚・政党どもだ。こいつらが共産主義者(原文では共匪)や変な宗教団体とつるんで国を貶めている。だからこいつらをやっつける為に決起したのだ」という論理構成になっています。
しかし、おかしいじゃないですか。本当に「万民の苦しみ」に怒って決起したのなら、労働・小作争議で資本家や地主の搾取と闘っていた当時の労働者・農民に対して、もっとストレートに連帯を表明する表現になって然るべきではないですか。いくら共産主義者や「左翼史観」の持ち主じゃなくても。戦前においても、彼らの主張が搾取反対だという事ぐらいは、右翼軍人でも知っていた筈です。
でも趣意書の文章はそうではない。闘う労働者・農民を「共匪」呼ばわりし、元老などと同列において攻撃する内容になっている。
それは何故かといえば、趣意書の立場は、あくまでも「天皇の権威が損なわれた事」を問題にするものであり、「万民の苦しみ」はそれを補強する材料でしかないからです。もっと端的に言えば、「今の元老・重臣・軍閥・官僚・政党どもでは、共匪の活動を抑える事が出来ない」「だから、こんな無能な奴らなぞ一掃して、我々が天皇親政の名の下に、奴らに成り代わってを共匪抑えつけてやる」。だからクーデターを決行したのです。そうでなければ、こんな趣意書の論理展開にはならない。
そんな彼らは、天皇制内部の極右急進派(つまりただのファシスト)にしか過ぎないのであって、反体制でも何でもない。若しこれが反体制なら、今の靖国右翼や「在特会」も反体制になってしまいます。彼らも「万民の苦しみ」を大義名分にする事は多々あるのですから。
それと、素朴な疑問なのですが、そもそも何故、現代の脱原発デモにおける「君が代」の議論の場に、いきなりこんな戦前の226事件の事例なぞ持ち出して来るのでしょうか?デモで「君が代」を流した人たちが、どこまで天皇制や226事件について認識しているかも定かでないのに。
昨今、「日の丸・君が代」を肯定する人は少なくないですが、その中身は世代や階層によって大きく異なります。少なくとも今の若い人たちにとっては、天皇なんて実はどうでも良くて、ワールドカップの応援のつもりで歌っている人が大半なのですから。(これはこれで、戦争責任をなおざりにしているという点で大きな問題をはらんでいますが、それはここでは問わない)
お返事ありがとうございます。
RESは急ぎませんのでゆっくり書いてください。
さて、
>>>「農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるもの」というのは誰の主張によるものなのでしょうか。教えてください。<<< が、226事件の精神的指導者である北一輝の主張かどうかですが、ご指摘のリンクからはそう結論するのは少し無理があるように思います。//www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/kita-ikki.htm
>>決起趣意書も読みました。読んだ結果、「事件首謀者は決して反体制ではなく、況してや民衆の味方なぞでは絶対にない」<< かどうか、は論点ではないように思います。
私は軍を私に動かしクーデター寸前まで行った運動の主体を、反体制と評価しない、というのは私の日本語理解からすると不可解です。ただまあ「反体制」という言葉の定義の問題であると考えると別に論争の必要はなくなります。
「それと、素朴な疑問なのですが、そもそも何故、現代の脱原発デモにおける「君が代」の議論の場に、いきなりこんな戦前の226事件の事例なぞ持ち出して来るのでしょうか?」 そのことに対する戸惑いがあり、それをうまく解きほぐせないままいままで来ているようですね。
しかし「君が代」=悪しき戦前的なものという規定を、プレカリアートさんを含む反対派はしているわけなのです。そうするとそのような全面悪であるという規定についていけない人たちは、近寄ってこれないことになりますね。
したがって、「君が代」=悪しき戦前的なものという規定は正しいとは言えないということを繰り返し述べざるをえなくなるわけです。
あえて言うと、私は君が代という曲が好きでも嫌いでもない。ただし君が代を国歌であるとして卒業式などで強制しようとする勢力とは力一杯闘い続けるべきだと考えています。
それに対して、プレカリアートさんは君が代という曲自体の本質が、(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)であると規定され、したがってそれに理解を示す事は思想の自由の圧殺、無謀な戦争、戦争犯罪につながっていくのだ、と考えられます。
これが話の食い違いの始まりですね。で「対話」はかなり進んだのに、二人の食い違いに対する理解は最初の時点からほとんど進んでいません。
私の主張も北一輝なり226事件なりをこういうふうにプラス評価できると言いきればまだ分かりやすいのに、そうは言っていません。一概に無価値であるという評価はすべきでないと言っているだけです。
野原の主張の核心はは、私のブログの8/7に書いたように、
(4B)思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯は君が代賛美的イデオロギーとかのイデオロギーではない。
そしてまた、
(3B)君が代はイデオロギー的存在であるとは、必ずしも言いきれない。
の二点です。
(6A)「戦争・差別反対」「路上解放」+「人権尊重、公正な経済・社会の実現」という立場というか思想がすでにあり、わたしたちはそれを共有し拡大していくべきだ。実際は私もおおざっぱに言えばそのように言っても良いです。
しかしそれが、君が代を演奏してみるとか日の丸を掲げてみる、福島愛国主義(パトリオティズム)を切々と語りたいとかの多様な人々を拒否するようなそうした立場であるように思えるので、それに反対しているのです。
プレカリアートさんも
「 それは、「君が代」が、今の日米安保体制や資本主義体制擁護の世論形成にとっても、大いに有用だからです。そして、ここにこそ、支配層が今も尚、「天皇」「君が代」を温存する最大の理由があります。」と言っておられます。「思想の自由の圧殺、無謀な戦争、戦争犯罪につながっていく」という本質規定にはこだわっておられないようです。
広い意味でのナショナリズムや天皇主義を頭ごなしに全否定し、そのような共通了解の上に運動を作っていこうとするのは間違いだと思います。
プレカリアートさんの226事件評価についてはここで論評しません。私ももう少し勉強した上で書いてみます。
明治維新と一君万民思想についてはもう少し積極的な評価をしていくべきだと思います。フランス革命だって教科書的諸価値のための運動であることはまったく自明ではなく、その後百年近く続いた小革命や理論闘争などを通じてはじめて確立してきたことにすぎません。
多様な大衆の姿と開かれた思想に対する感受性を大事にして考えつづけていきましょう。
野原燐
前回の投稿も、投稿できていなかったのかもしれないので再度投稿します。
ダブったら削除してください。
プレカリアートさん 丁寧な応答ありがとうございます。
>> 話を分かりやすくする為に、今の天皇を「水戸黄門」に準えて考えます。パッと見には政治とは無縁の好々爺の「水戸黄門」が、ここぞと思う時には葵のご紋を振りかざし、「頭が高い」と悪代官を懲らしめる、そんなテレビドラマが何故かくも長く続いたか。
「フランス革命のように民衆が立ち上がるのではなく、あろうことか悪代官の総元締めでもある天下の副将軍・水戸黄門の権威にひたすらすがろうとする、そんな奴隷根性の国民性にマッチしたからだ」と、辛口の批評を展開するのが私です。それに対して、「水戸黄門は私も支持しないが、ただボロクソにけなすだけでなく、何故それが日本人に受け入れられてきたかをもっと考えるべきでは?」というのが、野原さんの立場ではないか。非常に乱暴で図式的な捉え方なのは承知の上で、話を分かりやすくする為に敢えて単純化すれば、こういう事になるのではないか・・・と。<<
そうですね。だいたいそういうことになろうかと思います。
でもそういう風にはまったくとらえてなかったし、他にもいろいろ考えさせてくれる面白いたとえ話ですね。
考えてみると水戸黄門というものを1本通して見たことがない、私は、ように思います。日本人としてはやっぱり変わっている方でしょうね。韓国に暗行御史という制度とそれについての膨大な民間伝承などがありますから、それの日本版みたいなものだろう、と見当をつけています。
どんな国でも時代でもそうですが、とりわけ前近代の中国と韓国においては偉大な徳をもった支配者を望み、また支配者はそうでなければならないとする思想がかなり力を持っていました。朝鮮で「一君万民」思想が強く発達を遂げる背景に暗行御史という制度があったのではないか、と考えたりします。
正義というものを知恵と力で闘いとる気概が江戸時代の民衆にあまりなかったなんてことはないと思うので、TVドラマが「水戸黄門の権威にひたすらすがろうとする、そんな奴隷根性」と要約できるものを描いているのであればそれはちょっと違うんじゃないの、ということになりますね。おっしゃるとおり。
サウンドデモのサウンド担当が「今ニュースでは国を挙げて東北復興支援を言っているし、原発被害で大変な事になっている。それに対して「頑張れ日本」とエールを送るには、「君が代」がうってつけなんじゃないか。恐らくそれ位のノリで「君が代」を選んだのじゃないかと。」というのは違うんじゃないか、と思います。
「しかし、その直後に参加者とのトラブルを目の当たりにし(一瞬の事なので最初は何が起こったのかよく分かりませんでしたが)、その後も「私たちは右でも左でもない~」や「お巡りさん有難う」コールをDJカーが流していたのを聞いて(これはゴール直前でも言っていました)、」泥臭い演歌を彼らが好きなのかどうかは分かりませんが、それらに対して批判的距離があり「あえて」やっているものだ、という事はおそらく間違いないように思います。
「お巡りさん有難う」も皮肉だと思いますが、まあ危ない数限りない自動車からデモを守るという仕事をしているという面があるのも事実なので(それだけなら1/5くらいでできそうだが)感謝したらいけないということもないと思います。
ネットには膨大にいるネット右翼なるもの、街頭にもでてくる在特会など、フジTV批判とかいうわけの分からない運動、そうした様々な他者の脅威をどう感じどう向き合って行こうとしてのか、というあたりが大きく違うのかな、と思っていました。
私たちの間の議論はもちろん私にとって大事ですが、それはちょっと置いておくと、菅首相が止めないうちになんらかのものを形にしておかないとどうしようもないように思います。
小さなデモくらい楽しくやっていけるようになりたいですね。(私の文章も攻撃的なところがあると思うので申し訳ない。)
野原燐
デモ参加者が単に個人的に「君が代」を歌うだけなら、その人の趣向という事で、まだしも納得できます。数年前の京都の反排外デモでも、「在特会は日の丸を貶めるな」と、「日の丸」を掲げて反ネオナチをアピールした人たちがいました。その時も、私とは「日の丸」に対する考え方が違うが、「右翼にもネオナチ批判の声をあげる人たちがようやく現れてくれた」と、寧ろ肯定的に受け止めていました。
ゲバラの旗も、あくまでもデモ参加者個人が自分の意志で持ち寄ったものです。私も元よりゲバラは好きなので、こちらは諸手を挙げて歓迎しました。
しかし、デモ主催者が「君が代」を流すとなると、また話は違ってきます。いくら「脱原発に右も左もない」と言っても、「戦争反対」や「脱拝金・脱資本主義」も訴えていたデモに、よりによって帝国主義戦争推進の精神的支柱となった「君が代」を流す事はないじゃないか。「うつくしま福島を返せ」などの、もっと相応しい歌が他にも多くある中で、何故よりによって「君が代」なのか。幾ら「右も左もない」と言っても、これでは余りにも無節操過ぎるのではないか・・・と。
「戦争反対」を掲げながら、それと真っ向から矛盾する「君が代」を流す。そんな薄っぺらな飾りだけの「戦争反対」や「脱拝金・脱資本主義」なら、最初からそんなものなぞ掲げずに、「脱原発」だけを訴えれば良い。ただ純粋に「放射能が怖いから原発に反対するのだ」と。それならば「脱原発」レイシストの西尾幹二だって大手を振って参加できます。「カルデロン一家は日本から出て行け」と叫ぶ「在特会」すら、主張を「脱原発」に切り替えさえすれば堂々と参加できる。
しかし、そんな「脱原発」デモでは、原発推進派にとって痛くも痒くもないでしょうね。「放射能が怖い”だけ”の脱原発」なら、「地元にさえ原発を作らなければ」「放射能防護の手段さえ講じれば」「飴玉さえしゃぶらせば」それで良いのですから。
その結果、地方に原発が次々と作られ、下請け労働者に被曝労働が押し付けられ、実際には防護機能など殆どなく単なる気休めでしかない放射線防護服や防護マスクでお茶を濁され、電源三法交付金で一時の原発バブルに眩惑された挙句に、今回の福島原発事故でそれまでのツケを全部背負わされる破目になったのでしょうが。
脱原発を単に環境問題の視点で訴えるだけなら、主催者が「君が代」を流すのもアリでしょう。でも、このデモはそうではなく、原発を地方に押し付け下請け労働者に被曝3K労働を強いる不正義や差別の構造も、同時に問題にしている訳でしょう。ならば、「君が代」の持つ差別や不条理(天皇崇拝・戦争受忍論)を、「デモの趣旨と照らし合わせて一体どうなのか」と、問題提起をさせてもらいました。
それに対して、根拠も挙げずに一方的に「偏狭」だの何だのと言われる筋合いはないですね。「問題提起する事すらケシカラン」とするあなたの方こそ、よっぽど「脱原発集会と銘打ちながら、その他の思想も押しつけている」ではないですか。