自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ハンガリー動乱1956

2014-05-01 | 体験>知識

戦後世界はイデオロギーでソ連圏と米国圏に分裂し東西冷戦が時には大きく火を噴くことがあった。
東西南北で独裁政権に対する民衆の暴動、革命が起きたが、ほぼすべてがソ連か米国の主導による武力で弾圧転覆された。
医者志望のチェ・ゲバラが革命家に転じたのは、放浪中のグアテマラでアルベンス革命政権が米国に潰されるのをみずから体験、目撃したからである。
ハンガリー事件も共産党独裁政権に対する民衆の暴動で始まった。
民衆に推されて成立したナジ政権は成り行きによってワルシャワ条約機構(NATOに対抗するソ連圏軍事同盟) 脱退のレッドラインを越えそうになり、2500台のソ連戦車群に蹂躙された。
1万7000人とされる死者と20万人以上の亡命者が出た。
亡命者の中に後にわたしがその名を知ることになる20世紀を代表するサッカー選手プシュカーシュもいた。
毎年世界で一番美しいゴールに対して与えられるFIFAプシュカーシュ賞は彼に由来している。
戦後世界のサッカー界をリードし続けたマジック・マジャール(オリンピック二連覇)はこうして崩壊した。
新聞、ラジオが連日抵抗と弾圧の惨状を報道した。
報道はヴォイス・オヴ・アメリカと欧米通信社が発信元なので当然西寄りに偏向していた。わたしは大国主義とソ連も米国も嫌いだったのでハンガリー動乱に対してOFFの立場だった。

それでも書店で英語の写真入プロパガンダ本を買った。
タイトルは「NO MORE COMRADE」だった。
「もう同志と呼ばないで、うんざりだ」
民主化の英雄ナジ首相がソ連により拉致2年後処刑されたことは大きなショックだった。
わたしはその頃この悲劇の革命が将来自分の進路に大きく関わることになるとは夢にも想わなかった。
世界中でスターリニスト共産党からの離脱が始まっていたのだ。

  上掲書から転載 

 

 



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