天地にただ一つなるねがひさへ口封じられて死なしめにけり 斉藤 史
2.26事件の首魁たちは叛賊として勅令による特設軍事法廷で裁かれたため陳述と遺書で「誰のため」の蹶起か心の底の思いを表現することを許されなかった。国体(天皇と国民の関係)をただすため、という大義名分を深く掘り下げることは、国政の実権を掌握しつつあった軍首脳部とその内外積極策に同調する世論にしてみれば、まったく不必要なことで関心外であった。
また裁かれる首魁たちは公判闘争の戦術的考慮から赤化の烙印を招きかねない「誰のために」の陳述を意図的に抑えた。磯部はわざわざ農漁民等民衆のためにやったのではないと断っている。首魁たちの思いは断片的にいろんな記事から拾うしかない。
下層農民の困窮度が全国一だった青森県に的を絞って、今後の考究の一助としたい。
まず例外的に地方(豊橋)から単身蹶起に馳せ参じた対馬勝雄中尉(原隊は弘前の連隊だった)から始めよう。大岸中尉、相沢少佐、末松少尉(原隊当時の位階)も青森の連隊でつながっていた。
兄が2・26で刑死した波多江たまさん
日本が日米戦争にのめり込むまでには幾つかの要因があった。陸軍の若手将校が力で国家革新を図った79年前の2・26事件も一因とされる。弘前市に住む波多江たまさん(100)の兄で、陸軍中尉だった対馬勝雄さんは、同事件に関与した者として20代の若さで処刑された。波多江さんは兄の優しさに今でも思いを寄せつつ、誤った教育が過ちの原因になると警告する。
一家は田舎館村出身で、子どもの高等教育に有利と考え青森市へ移ったが、父親の営む鮮魚店が大火で焼けて没落。きょうだいは同市相馬町のバラックで育った。波多江さんは「とにかく貧乏で、海辺で拾った流木などを干し燃料に使っていた。裸一貫同士が助け合って暮らしていた」と思い出す。
成績優秀な勝雄さんの進路も、家計の状況に左右された。両親は学費負担を嫌い旧制中学校への進学もためらったが、小学校の先生の懇願に折れた。「母が父の軍服を手縫いで直し(学帽風に)染めた帽子で通った。兄はずいぶん笑われたが『貧乏は苦じゃない』と平気な顔だった」。
それでも内心では家計への負担を苦にしていた。「学費がただ」といううわさを耳にし、難関の陸軍幼年学校を13歳で受けて合格した。
幼年学校や士官学校の教育を通じ、勝雄さんは軍人としての意識を深めた。士官学校の校長は強固な尊皇思想の持ち主で、決起将校に影響を与えたとされる真崎甚三郎だった。
入校後も妹らには優しく、冬休みの帰省時に「奉書で“ひねくれるな、今が辛抱”という意味の歌を渡してくれた」というが、一方で「軍人とは死ぬことなり」の思想が育まれた。父親は長男を失いたくない本音と、身内の戦死を喜ぶべきとする建前のギャップに苦しみ、酒を飲むと荒れた。
軍人となった勝雄さんは、軍規に厳しいが部下思いだった。「50人を戦地で率い、お金は出すから人数分の栄養のある食料や物資を送ってくれという手紙が届いた。戦死者の実家に香典を贈り、給料は残らなかった」という。部下の大多数は岩手県の農漁村出身。東北では貧しさのために娘が売られた時代に、境遇の近い部下の心に寄り添っていた。
その兄が2・26事件に参画した。報道管制が敷かれ、波多江さんは「事件直後に新聞に書かれた後は一切情報が出ず、7月7日の号外で死刑と知った。5日間だけ面会を許された」。銃殺刑の後、気持ちの整理がつかない中、頭部に包帯が厚く巻かれた穏やかな顔のまだ温かい遺体と再会した。
その後、遺族は反乱分子の家族として監視下に置かれた。一般市民との接触も妨げられたが「近所の人たちがいろいろな理由をつけて実家に来て、こっそり励ましてくれたのはありがたかった」。戦後もひっそりと慰霊を続けたが、勝雄さんの思いを後世にとどめたいと、夫らの協力を得て、遺稿などの記録集「邦刀遺文」を24年前に自費出版した。
決起の背景について波多江さんは「派閥事情で銃を持った人もいると思うが、兄の場合は士官学校から政治の裏側を見て、部下の実家の生活事情も知り、我慢できなくなった」とみる。クーデターの企図は間違いだったと思うが、軍の政争という面が強調されるのにも拒否感が残る。
戦後70年を経ても、プロレタリア作家の弾圧に反戦演説の糾弾と自由が制限された時代の記憶は鮮明といい、再びそうならないためには人づくりが大切と語る。「教育勅語があって国のために死んでも仕方ないという時代、兄は13歳から軍の空気しか知らず、陛下と国のためにという考えにのめり込んだ。そういう教育は恐ろしい。中学校辺りからの教育は、本当に大切なことだと思う」。
波多江たまさんは私の母と同じ1914年生まれです。あるお願いでお手紙を差し上げたところ転倒で両手不如意ながら丁寧な長文のご返事をいただきました。さわりだけ披露します。「昔の教育は、今とは全く違って、国と天皇だけでした。考えられない時代です。兄達の事件を追っている人々が大変多いのにも驚いています。有難う御座います」
後記1 波多江たまさんは2019年6月29日104歳で永眠されました。ご兄妹の冥福をお祈りします。
後記2 画像のリンクが切れました。代わりに(失礼!)寺島英弥氏「引き裂かれた時を越えて・・・〈二・二六事件〉に殉じた兄よ」(Foresightに連載)をおすすめします。対馬中尉の古里と家族の歴史が詳しく描かれ画像も豊富です。さらに安田少尉についても同様です。
2.26事件の信頼できる語り部末松は青年時代の大岸の言葉を引いて語っている。その革新が偽物であるか本物であるかは「脂粉の香りと下肥の臭いの違い」にどう反応するかでわかる、と。「大岸少尉に共感して革新に志した私が、素朴に頭に描いたことは、軍隊の蹶起は農村に蜂起する蓆旗[mushiro bata]と呼応すべきであるということだった」(前掲 末松太平『私の昭和史』 以下末松関連記事の典拠は同書)
末松が念頭においていた蓆旗の小作争議は大正末期から昭和にかけて青森県車力村(現つがる市)で起こった。末松が青森連隊に着任した時期と重なる。大岸は末松の1年前から配属されていた。
西・北津軽の百姓は冬の風雪と夏秋の冷害、水害(洪水・溢水・滞水)と、ときには塩害(汽水湖である十三湖の逆流)に、苦しんだ。岩木川下流域は高低差が20kmで1mしかなく、湿地帯ではしばしば田んぼが沼沢と化した。百姓が水に浸かって作業する田んぼは腰切り田、乳切り田と呼ばれた。
画像 中泊町立博物館蔵
厳しい自然環境と大地主が支配する社会環境により小作農たちは大正昭和になっても農奴状態から抜け出せなかった。
あまつさえ戦後恐慌、世界恐慌と都市による金融支配、商業支配が米穀の価格下落、コスト割れ、漁業出稼ぎ収入の減少となって農民の生活を破壊した。肥料が買えず借金を返せず土地税を払えず、土地を失った。小作農は年貢を納められず小作地を取り上げられた。
西津軽郡車力村小作争議は村の赤ひげ先生とも評すべき村医・岩淵謙一(東京医専卒 4町歩未満の小地主)と岩淵の小作農にして同級生・三上徳次郎、岩淵の弟謙二郎(法大中退、建設者同盟)、娘婿武内五郎(早大卒 建設者同盟 日農関東同盟で木崎村小作争議の指導経験 戦後社会党代議士)によって始められた。争議の原因はある地主が岩木川氾濫による減収にもかかわらず、地租免除地から例年どおり小作米を徴収したことであった*。
*以下の出典:渡辺克司「1920年代における限界地・漁業出稼ぎ地帯の小作争議の性格」(車力村対象) 北海道大学農經論叢第45集27-53頁
1924年11月、岩淵たちは普選準備運動の政治研究会と日農関東同盟の援助を得て県内初の小作組合を結成して、不当小作料減免の法廷闘争を支援した。1年余りかかったがその裁判で勝利した。
その間、車力小作組合は二つのイヴェントで世間を驚かし有名になった。
組合は、非合法共産党の指導下にあった全協系青森一般労組と共闘関係にあった。1925年県下初のメーデーが車力村の鎮守の森を発してシュプレヒコールと歌声に包まれてにぎやかに繰り広げられた。650名の行列が蓆旗と赤旗をかかげて革命歌インターナショナルを歌いながら村内を行進した。その時の車力総戸数170戸のうち組合員数は60名であったから外、村外からの参加者が多かったことが分かる。
その直後の、大地主を核とする旦那衆を向こうにまわした村会議員選挙で、組合は、組合候補を当選させないためだけに立候補した「車力の殿様」鳴海周次郎を1票差で落選させて勝利した。
力を付けた車力村小作組合は、車力村農民組合に改称して、これまた日農から改称した全農の青森県連合会(渋谷悠蔵委員長)の主要ポストに幹部(三上争議部長)と要員を派遣して県下の小作争議をリードした。京都で山本宣治が当選した第1回普通選挙(1928年)では労農党を支持し有権者1080名中128票を得た。その時の組合員数は100名であった。
その後1929年2~3月の耕作地立入禁止に対する闘争では、全農県連と共に地主側の暴力団、消防団、警察と対峙、衝突、乱闘を展開した。「立禁」には勝利したが耕作権の確立は成らなかった。
「立禁」闘争勝利直後の4.16共産党事件(1929年)にからむ治安維持法による弾圧で活動家をことごとく失った車力村小作争議は、階級闘争色こそ色あせたが、1930~35年の農村大不況期間、弾圧を受ける中で争議件数において右肩上がりの増加をみた。
1件当たりの規模縮小と件数増加の様相に、中小地主の経営悪化と小作家族の飢餓的状況が伺われる。件数はピークの35年西津軽郡で3倍増、北で10倍増であった。争議原因も経営が苦しい地主による攻勢的小作料値上げおよび土地取り上げが主となり、それに応じて小作側の要求も「小作契約継続」が多くなった。
末松は、車力村小作争議は2.26の原点である、先輩大岸の上部工作はしょせん手段、蓆旗蜂起のための下部工作こそが革新の目的、本流であるべき、と言い切っている。「私は出征中の体感もあるし、のれんを張る手前からも、この下部工作こそ、東北、北海道のお株にすべきものだと思った」
まず末松の満洲出征中の「体感」から始めることにしよう。
兵隊の多くは小作人の倅であった。兵士たちの教育に当たった隊付き青年将校たちは農村の出口のない地獄のような実態を知った。末松も例外でない。売られたのは娘ばかりではなかった。兵士の死も売られた。末松の見聞の中にそれがある。
ある満洲出征兵士は「お前は必ず死んで帰れ。生きて帰ったら承知しない」、国から下りる金が必要だという趣旨の手紙を親からもらった。それからまもなくの「討伐行」で部隊でその日ただ一人の戦死者になった。身の回りが綺麗に片付けられてあった。
別の話だが、遺骨が留守部隊に帰還すると遺骨の奪い合いがあった。留守部隊で慰霊祭を終えたあと遺骨が衛門を出ると親戚間で見栄も外聞もなく奪い合いがはじまる、仲裁する留守部隊の苦労は並大抵でない。
末松はひとが肉親の骨肉で食いつなぐ凄惨な現実の原因を追究した。
結局は農地問題である、この本質を突く言葉に私は末松の誠を確信した。
末松は、没落農民であった父がよく明治期の地主小作人創成の話をしていたのを思い返した。土地税が高くて維持できなくなった農民は土地を、ときには酒一升の景品まで付けて、手放した。また共同体の共有地=入会地は機転の利く有力者名で登記され私有財産となった。ソ連の国有財産が高級官僚に払い下げられてたちまち大財閥ができた史実を連想させる話である。
末松は地主小作制度の起源を解明してくれる適任者を求めて渋谷悠蔵(全農県連委員長、東津軽郡新城村農民組合長、戦後社会党代議士、淡谷のり子の叔父)に出会って以下の話を聞いた。茂浦湾の村民は軍港予定地となった土地を売った。茂浦は軍港にならなかった。県令は同郷の奈良県人に土地を払い下げる斡旋をした。茂浦は奈良県人の不在地主が多いということだった。
もう一つ、官有地(青森県の山林の7割が官有地だった)の払い下げを申請、許可されて村人が共同開拓した土地が、音頭取りした有力者の所有地として登録され、村人が小作人にされてしまった話も聞いた。
粗っぽい筋書きで申し訳ないがこうした経緯で、一方に地主資本家と化した都会の「不在地主」あるいは城郭のような居宅を構える「〇〇の殿様」とよばれる地主=金融業者、他方にボロをまとい雑穀と木の実、草の根で命をつなぎ、藁の中で寝る垢だらけの百姓、という社会構造が出現した。
車力村では「貴族院議員でかつ銀行兼営の在村大地主である鳴海家[当主周次郎]は1925年時村内に130町歩8反(村内作付面積の12% )、村外併せて205町5反、小作人200人を抱えていた」 一方小作組合の構成は「所有地」(小作地を含む)3町未満の自小作限界農民を中核としそれに下層の小自作・小作の出稼ぎが加わっていた。
末松は探求を農民運動の実践につなごうとしたが独りよがりに終わった。私も採るに足らない体験があるが実践に入り込むのは容易でない。そして末松にストップをかけたのは火をつけた当人大岸大尉(在和歌山連隊)だった。策略家といわれた一面がよく出ている。憲兵、特高の動きを察知するまでもなく青年将校運動に累が及ぶことを考えての横槍だった。
「結局は農地問題である」と末松は言った。この断ちがたい本質的難題を戦後GHQが一刀両断して日本資本主義にあらたな跳躍台を与えた。他力による革新! 農地解放! 問題を孕むが歴史に残る農地所有の平均化大改革には違いない。
私は、農地改革が革命ともいってよい大改革であったことをアルバイト中の大学構内で偶然出会ったブラジル人留学生集団に教えられた。早くて1965年頃の話である。かれら男女は日本のように「大改革Grange reforma」を実現すればブラジルは経済大国になると語っていた。ブラジル国歌を鼻であしらっていたかれら改革志向の留学生たちは帰国後軍事政権下の弾圧を無事生き延びたであろうか、気にかかる。
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