自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学時代/水俣闘争 1962

2016-08-03 | 体験>知識

1962年秋、私は単独で南九州の水俣駅に降り立った。目の前に新日本窒素水俣工場がありその正面を合化労連新日本窒素水俣労働組合がピケで固めていた。ロックアウト中の工場内には第2組合員数百名が籠城していた。
今回は京大同学会を名乗りカンパ持参だった。湯川博士の秘書が趣意書を見てその場で3万円出してくれた。博士直筆の署名をみて労組幹部は感激し、さっそくノーベル賞学者のカンパを情宣した。
わたしは情宣部に配置された。たしか正門前にあったプレハブ小屋で青年行動隊と寝食を共にし宣伝カーに乗って市域全域を回った。拠点があった鹿児島の出水市にも情宣に行った。地区ごとに見張り小屋があり主婦の会が交代で会社側の動きを監視していた。機関誌とビラを市内数十ヶ所に配布した。数人一組になって宣伝カーで放送しながら回った。
要所では車から降りてマイクを握った。会社と警察の策動、味方の活動をニュースとして流した。絶対に勝つ、と味方を奮い立たせるのが宣伝の任務だが、私は心からそう叫ぶことができなかった。
山村あり漁村ありだった。温泉地で湯に入り昼食をとったこともあった。農村では団結稲刈りにも参加した。衝突も揉み合いもないから毎日が場所を変えた秋のピクニックみたいだった。
ある日ピクニック気分を吹き飛ばす自動車事故を体験した。
宣伝カーの運転士が床の新聞を取ろうとして左手を伸ばした瞬間、車が路肩を踏み外して2m右下に横倒しに落下した。わたしは助手席に座っていたので運転手の伸びた手を見ると同時に「アッ、シマッタ」という声を聞いた。傾いた車が一瞬止まった。車軸が路肩にひっかかったらしい。その一瞬が乗員をケガから救った。身構えたかどうかはわからないが心構えができた。


わたしの頭上の棚から大きな重いバッテリが吹っ飛んだのに誰にも当たらず全員無事だったのは幸運だった。別の宣伝カーが水俣川に落ちた際には合化労連のオルグ松永さんが死亡したことを最近知った。
青年行動隊は気のいい連中だった。年齢が近いこともあってはじめからへだたりを感じなかった。セクト色のある話はなかった。江口青行隊長(民青)は私を「すねかじりが・・・」とからかった。姓名があるのに何故かみんなから親しみを込めてトンちゃんとよばれていた。ホルモンのトンチャンと関係あるのだろうか? 洗面器を鍋代わりにパーティをした。ホルモンの初体験だった。今回知ったことだが彼は後に熊本県党本部専従役員になった。
松本副隊長(社青同)は名前で満良とよばれていた。健康優良児のようにどっしりしていて闘志に満ち溢れていた。数年後仲間数人で京都に遊びに来てくれた。後、市会議員になった。
写真説明:青行隊3幹部 左から松本、江口、松田 

女性隊員たちに当時流行っていた歌謡曲「島原の子守唄」を教わった。
不知火海を挟んで対岸の天草と島原半島はかつて貧しい農漁村だった。近世以降多くの唐ゆきさんが海を渡って苦界の稼ぎで家族を助けた。島原の子守唄はその暗い歴史の伝承をもとに宮崎康平が作詞しレコード化して国民的な子守唄にした。わたしはこれがきっかけでからゆきさんとまぼろしの邪馬台国に興味を抱くようになった。

水俣市はチッソの城下町だった。むろん「城主」はチッソだった。「藩士」は他所から採った大卒、高卒だった。かれらは学卒とよばれ寮生活をしていた。地元から中卒を採って希望者を定時制高校に通わせたが高卒つまり「学卒」扱いをしなかった。優秀な職人でも「郷士」どまりだった。この悪しき「身分制」は、ムラ内で上司と部下が顔をあわせる居心地悪さを避けるためだった。社内では若い学卒がヴェテランの職人に指示を出した。三池同様水俣でも職場闘争が熾烈になった。
この異常な分割支配の従業員構成が水俣闘争を特色づけ、持続的にエネルギーを補給した。
1962年春闘が始まると会社は4年間の「安定賃金」制を回答した。組合が拒否し次元ストが続いた。夏にいたって会社はロックアウトを宣言し「藩士」だけで保安施設を管理した。同時に職制以上で第2組合を難なく立ち上げた。組合は上記の「身分制」どおりに真二つに割れた。当然数の上では第2組合は劣勢だった。
こんなわけで青行隊には骨太で伸びしろのある有能な青年が大勢いた。

水俣に来て3週間経った。情宣部長が「そろそろ・・・」とうながしにきた。そしてキャバレーかバーでねぎらってくれた。そこの女性とダンスをした。下手なステップとヤッケにジーパン、登山靴が場違いだった。その女性が笑いこけた。

1963年正月、帰省先から水俣に回った。状況と仲間が気になったので立ち寄っただけだった。
一部の顔見知り情宣部員の姿がなかった。第二組合に移っていた。誰と誰がいない、という話を聞くのは辛かった。一緒に宣伝カーでまわった当時の元気のない、うつむきかげんのA君の顔が浮かんだ。
皆も心もち沈んでいてあの弾んだ明るさが見られなかった。
地労委の斡旋受諾と以後の闘争の進展は次稿で・・・。





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