自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

三池闘争/ホッパー死守か明渡しか/大炭塵爆発

2015-07-18 | 体験>知識


1960年7月17日  ホッパー前10万人集会

安保闘争が終結するとすぐ大学は夏休みになった。
同時並行的に戦われた三池闘争がクライマックスを迎えようとしていた。

全国の労働者にとって安保は三池であり三池は安保であった。
警察に殺された樺美智子さんと暴力団に刺殺された久保清さんはセットで語られた。
多分ブント有志の活動だったと思うが祇園祭宵山に四条の歩行者天国で三池闘争支援
のカンパを募った。
麻袋に詰めて自治会に持ち帰ったが二人でないと運べない重さだった。
全学連とブントは7月15日に現地に入った。
石炭から石油へのエネルギー転換で斜陽化する石炭産業のなかで首切りによって生き
延びようとする三井鉱山と活動家の指名解雇を撤回させようとする三池労組の戦い。
マスコミはこれを総資本対総労働の戦いだと例によって図式化したが今回は的はずれでなかった。
かたや総評、炭労が数億円のカンパと延べ数十万のオルグを投入し、かたや財界が数
十億円の寄金で支援し政府が延べ数万の機動隊を動員した。
会社側は第二組合を作らせ生産再開を強行した。
労組側は第二組合の就労を妨害しつつ石炭の漏斗様搬出塔ホッパーを占拠して石炭の
出荷を阻害した。

会社の訴えで7月7日仮処分の運びとなり、労組側2万、機動隊1万がホッパー前で対峙し、一触即発、死者が予想される事態となった。
警官隊は20日午前5時を期して仮処分執行のため突入する構えを見せた。
労働者側は火壕を掘り棍棒で武装していた。


重油と薪で火のピケットラインを敷くための塹壕掘り

7月17日総評、炭労は中労委に仲裁をゆだねた。労資双方白紙委任だった。
全学連は、結論が明白なので反対を叫んだが、二、三百の部隊では何の影響力も発揮
できなかった。
7月22日、全国から来たオルグ団は解散し空しく帰途についた。
全学連は大牟田警察署前でひとあばれして逮捕者と負傷者を出して引き揚げた。


労組から支給されてはじめてヘルメットを被ったブント全学連

京大ブントは還ってきた先輩医学生の報告を聴いた。
私が憶えているのは、現地では歌声運動が盛んで、出来立てほやほやの『がんばろう』の歌詞「燃えつくす女のこぶしがある」の「燃えつくす」が「燃え上がる」に代えられた、という話だけだ。
それを知った作詞者森田ヤエ子は「詩人の心を台無しにした」と怒った。「燃え上がるでは、全然不足なのよ。女は〈燃えつくす〉ほどの気持ちで闘っていたんだから」
わたしは現地には一人で行った。
新入りの一団は、本部で三池勞組のロゴ入り鉢巻を支給された。ヘルメットはなし!
労働歌をいくつか覚えた。三池の主婦の子守唄、ヤマの娘。
現地にはブントの常駐が一人いて新たに来た学生を案内していた。
野口観蔵行動隊長の話は衝撃的だった。
軍隊上がりのアナーキーな炭鉱夫で筋骨たくましく胆力がみなぎっていた。
自作の竹製の鎧とか棍棒(水筒偽装)をみせてくれた。
機動隊との衝突を想定した演習をやってきた、という話だった。
共倒れ覚悟の究極の戦いをすれば負けることはない、と言った。
「炭鉱に有るダイナマイトで坑内排水装置を爆破すれば三池炭鉱は永久に水没する」

一つ一つの些細な体験がわたしのその後の人生街道を決定付けてゆく。
まるで地固めしながら坑道を掘り進んで行くように。

ピケ小屋に一泊して故郷に帰省した。
大牟田から博多まで電車の中で東大ブントの最首悟氏と立ち話をした。
ブント指導部が安保以降もめている、と初めて知った。

8月10日中労委の斡旋案が出た。
指名解雇を取消して自主退職とする。
三池労組は渋ったが総評、炭労が説得した。
かくて三池闘争は戦後労資対決の分水嶺となった。
労働運動は政治闘争をやれなくなったばかりでなく運動そのものがポシャっていく。

三池闘争の本質は「合理化」を背景にした労働災害から命を守る労組側の保安闘争VS採炭効率を高めるための経営者側の職場管理奪還闘争だった。
危険な切り羽は安全作業に時間がかかり、出来高賃金に差が出る。
そうならないように組合は切り羽毎に職制と採炭1トンあたりの単価を職場段階で決
めていた。これを切り賃と言った。
また危険度をならすために組合は就労切り羽をまわす輪番制をとった。
切り賃と輪番制は、労働災害の無い日がないほどひどい炭鉱の労働環境に特有な職場
闘争の形態だった。
斡旋受け入れで三池労組は指名された職場闘争の活動家1200名余をまるまる失った。

3年後三池炭鉱は三川鉱で大炭塵爆発が発生し458名の死者と839人のCO中毒
患者を出した。
生産第一主義を貫徹できた会社による保安手抜きが招いた人災だった。
第二組合をふくめて三者共倒れになった。
翌年日本でも邦訳出版されたエミール・ゾラの名作『ジェルミナール』を地でゆく大惨事だった。80年さかのぼるこの小説では、戦いに敗れた坑夫側の流れ者アナキストが坑道をダイナマイトで爆破したのだった。

歴史に「たられば」は禁物だが、もしホッパー決戦に突入して坑道爆破にまで至っていたならば、大爆発事故でおおぜい死ぬことはなかっただろうと折にふれて妄想してしまう。


 

 

 



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