宮原旭氏の経歴を調べてみると‥。
1904(明治37)年5月24日 男爵 宮原家長男として、東京都大森で誕生。 1983(昭和58)年12月10日 逝去、79歳。
学習院の小・中・高等学校を経て、英国グラスゴー大学に留学。航空工学を専攻するかたわら、ウェストラン飛行機工場に通って実習。大学卒業後も同社に留まって飛行機に熱中した。
この頃始まった英国キングス・カップ・エアレース(1929年)には、先輩友人と共に試作機を完成してレースに参加した。
エンジン・トラブルで途中棄権となったが、当時を回想する宮原氏は「悔いは残らなかった、あんなに燃えたことは無かった」と頬を紅潮された。
帰国して三菱航空機に入社した氏は、国策に従って軍用機の開発にも携わったが、その後退社して日本小型飛行機株式会社に技師長として迎えられ(1939年)、終戦までに多くのグライダー設計製作に関与した。
その中、特殊滑空機「蜂」は日本初のモーターグライダーである。
やがて平和の時代となり 氏の胸中に英国時代のスポーツ航空への夢が蘇り、同好の士と語らって軽飛行機開発株式会社を設立、グライダーの開発製作に着手した(1960年代)。そこで意欲的なグライダーが多数誕生したが、その後外国製グライダーに押されて製造打ち切りに至った(1975年)。
1960年代後半からはスカイスポーツ関係諸団体からの要請を受けて公職に就任し、幅広く多忙な活動を行った‥。
と、あります。
また、多くの貴重な航空機の写真も残しておられ、その写真は「男爵の愛した翼たち」上下巻にまとめられています。
これは鳥人間大会の某審査員の方が私にこっそり教えてくださった話ですが、上に紹介した「男爵の愛した翼たち」の中には、常識的に当時まだ若者だった宮原氏が、よく撮れたものだという貴重な写真も含まれていて、それについては、おそらく宮原氏が自分が貴族であるという立場をちゃっかり利用して、コネクションを作って撮らせてもらったのでは?などとも話されていました。
晩年はJAAに所属していたのですが、この時、世界的に爆発的な人気となったスカイスポーツが日本にも上陸‥。
これが「ハンググライダー」であったわけで、当時ヒットした映画と音楽の後押しもあり、瞬く間に日本各所で、ほとんど自作の領域のハンググライダーが、(ちょっとキレた若者たちの間で)ゲリラ的に飛び始めることとなります。(乱暴な言い方ですが、正直こんな感じだったと思います‥。)
宮原旭氏は、この新しいハンググライダーが、簡単で安価な翼で空を飛べることに着目。
今まで以上に、スカイスポーツが一般の方々の身近なスポーツになる可能性を見出し、社会的な問題が起こらぬうちに、取り急ぎ法律、制度、管理的な整備を整えます。
つまり、「転ばぬ先の杖」ですね‥。
宮原氏のこの努力により、ハンググライダーは規制を受けることもなく、自由なままの翼を維持して今日まで成長を遂げることになります。
更には、日本に「パラグライダー」が入ってきたときも、ハンググライダーでそのような実績もあったため、「パラグライダーのハンググライダーと同じ‥。」という考えかたで法的に整備。
パラグライダーも大きな規制を受けることなく、自由な翼となることができました。
つまり、宮原旭氏は、現在のように自由に飛びまわれるハンググライダー、パラグライダーの礎を築いたことになるのです。
このことに関しては、本当に今のハング、パラフライヤーは感謝しなければなりません。
‥正直‥。
現在、各所で社会的に問題となる事故が起こっていますが‥。
そんなことが続けば、当然ハンググライダーもパラグライダーも、この先規制を受ける対象となりうる可能性があります‥。
空は自由に飛べますが、その自由とは、フライヤー一人一人が自己責任でフライトを管理出来てこそ自由な空が存在し得るのです。
宮原旭氏の努力を水の泡にしないためにも、そのことだけは決して忘ないようにし、宮原氏が愛した「自由な空」を、この先も守り続ける必要があると思います‥。