飛行中年

空を飛ぶことに薪ストーブ、そして、旅をこよなく愛する一人の中年のブログです。

今こそ私たちは、 トルコに恩を返す時では?

2023-02-12 20:58:54 | 人生論(life)

もう皆さんもご存じのように、今、トルコは地震で大変なことになっています。

地震発生後、既に5日を過ぎながらも、今なお懸命な救出作業が続けられています。

私は思うのですが…。

今この時、日本人はトルコに対して、かつて助けてもらった「恩」を返す時ではないでしょうか?

実は、かつて日本人は、イラン・イラク戦争において、トルコ人に助けてもらった事実を、皆さんはご存じでしょう

か?

今夜はそんなお話です…。

 

皆さんは、「イラン・イラク戦争」をご存じでしょうか?

宗教上の理由でにらみ合いが続いていた両国の間に、更に、石油の利権も絡み…。

1980年に戦争が勃発しました。

これがイラン・イラク戦争です。(実際はかなり複雑ですが、分かりやすいように端折っています。)

この戦争は長く続くことになりますが…。

1985年に、突如、サダムフセインの命により、イラン上空に侵入する航空機はすべて撃墜せよとの指示が出ま

す。

この時、イラン在住の外国人は、急いでイランを脱出しますが…。

日本だけは、イランに航空機を飛ばすことが出来ませんでした。

理由は、まず自衛隊が、法律的に外国まで軍用機を飛ばすことが出来なかったこと。

更に、民間航空会社も、社員の安全が保障されていなかったため、どこもイラン在住の日本人を助け出そうとしま

せんでした。

この時、危険を顧みず、イランの日本人を助け出してくれたのが、トルコでした。

詳しくは、こちらをご覧ください→イラン・イラク戦争

この時、日本人はトルコに対して大きな「恩」を受けているのです。

おそらくですが、若い人たちのほとんどは、この事実をご存じないと思います。

更に…。

東日本大震災の時も、トルコは日本に対して、多くの支援をしてくれました。

 

トルコが危機に瀕している今だからこそ、今までの恩に報いるべく、私たちは支援をすべきではないでしょうか?

私はそう思うのです。

このまま、トルコに対して何もしなければ、私は、日本人として、それは恥ずべきことのように思うのです…。

 

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ハロウィンの馬鹿騒ぎ!ちょっと違う意見…。

2022-10-29 16:35:15 | 人生論(life)

もうすぐハロウィンですが、毎度、迷惑な若者たちが馬鹿騒ぎして仕方がない!

これは、当然悪いことであり、絶対に自粛してほしいものです!

…。が、しかし…。

この若者たちの馬鹿騒ぎについて、正直、私はちょっと、人と少し違う意見を持っているのです…。

 

若者は、本来元気なものであり、何かしらやってみたい!世間を自分に注目させてやりたい!

そんな欲望を持っています。

これは、どんな時代でもそうですし、これから先の時代もおそらくそれが続くでしょう。

 

そんな、元気を持て余している若者のために、日本では昔から「祭り」が上手く利用されていたことをご存じでしょうか?

 

多くの祭りでは、「若者」にその行事を任せて、若者同士を団結させ、その地域の活性化につなげていました。

祭りでは、若者が主役!

そんな主役となった若者たちは、祭りで自分のフラストレーションを発散させ、同時に、同世代の者との団結心をも育てました。

このことは、実は、その地域にとって、非常に大事なことなのです。

若者たちは、祭りという町の一大行事を任されることにより、社会の仕組みを知るとともに、自分自身の成長にもつなげます。

そうして、若者は、やがては地域を引っ張っていけるような、立派な大人に成長していけるようになると私は思うのです。

 

そのような、理想的な若者の成長を促すためには、少し上の世代の方が、彼らをうまく指導する必要があると思うのです。

 

実際、昔ながらの祭りでは、若者たちにその行事を任せながらも、要所要所では、経験のある者が、彼らを上手く指導したりしています。

いわば、若者たちの「相談役」になっているということですね!

この若者と、それを指導するものとの関係。

のちのち仕事や、町の発展に大いに役に立つものとなっていきます。

 

昔はそんなふうに、祭りを上手く利用して、若者のフラストレーションを発散させると同時に、彼らを人として成長させることにもつなげていた…。

私はそう思います。

 

現在は、人と人との関係が薄くなり、都会では昔ながらの「祭り」がなくなってしまいました。

 

私は、昔の祭りのように、若者たちのフラストレーションを発散させ、彼らが持つ力を良い方向に進められるような…。

そんなイベントを企画し、若者たちを主役にし、彼ら自身の人としての成長も促せるような…。

そんなことができれば…。

この、ハロウィンの馬鹿騒ぎのようなことも、なくなるのではないかと思うのです…。

 

 

 

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恐山のイタコさん…。

2022-05-04 21:05:19 | 人生論(life)

私は毎年北海道に行っていますが、その途中でよく寄る恐山…。

青森の下北半島にありますが、ここは、死者が集まる場所ともいわれ、イタコさんが有名ですね!

「口寄せ」といわれる、死者を自らの体に乗り移らせて、その思いを伝える行為が有名です。

若いころは何も悟らずに、胡散臭い!なんて、イタコさんには失礼なことを思っていましたが…。

イタコさんのこんな仕事って、実はとても大事なことだと、年をとってから分かるようになりました…。

…。

このイタコさんの口寄せ。

「予約ができない。」ことを皆さんはご存じでしょうか?

なぜ予約ができないのか…。

死んだ者の声を聞きたい人たちは、夏の暑い日差しの中、自分の順番が回ってくるのを何時間でも待っています。

この「予約ができない。」ことって、私は、実は重要な意味が隠されているんじゃないかって、思えてならないんで

す…。

 

皆さんは、お釈迦様のケシの実の話をご存じでしょうか?

お釈迦様の名声を聞いたある女が、死んだわが子を抱いて、お釈迦様にこの子を蘇らせてくれと頼みます。

そんな女に、お釈迦様は「それならば、ケシの実を集めてきてください、ただし…。そのケシの実は死者が出た家のものは

ダメです。死者が出ていない家のケシの実だけを集めてください。」と言いました。

女はわが子を蘇らせたい一心で、死者が出ていない家のケシの実を集めようとしますが…。

いくら家を回っても、死者が出ていない家なんて見つかりません…。

だって、人は必ず死ぬんですから…。

疲れ果てた女は悟ります。

そして、再びお釈迦様のもとへと訪れ、こういいます。

お釈迦様、あなたは私に人は必ず死ぬことを悟らせたかったんですね。そして、この苦しみは自分で乗り越えるしかない

んですね…。

 

恐山の口寄せは、一見胡散臭そうに思えるかもしれませんが、愛する者を失った方たちは、どうしようもなくて、自分の

気持ちの整理がつけられず、藁をもすがる思いでイタコさんに会いに来ます。

その時…。

順番を待つ人たち、周りの人すべてが、自分と同じ境遇にあることに気づきます。

何時間も待つ間に…。

当然周りの方との会話も生まれるわけであり…。

そんな人とのかかわりあいの中で、おのずと自分の心の整理がついてくるように思えるんです。

人は必ず死にます。

残されたものは…。前に進むしかないんです…。

決まり切った答えですが、愛する者を失った方は、それがなかなかできないんです…。

そんな、愛する者を失った方の心のケアをするのが、イタコさんの仕事であり、それには、恐山に行って、長い時間順番

を待ち、周りにいる自分と同じ境遇の方と話をしてみることが必要なんだと思うんです。

だから、あえて、イタコさんの口寄せは、予約を受け付けず、延々と順番が回ってくるまで待たせるようにしているんだ

と、私には思えるんです…。

 

 

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大川小学校の悲劇、釜石の奇跡、この二つに触れてみて…。

2021-05-29 14:55:29 | 人生論(life)
大川小学校の悲劇とは、東日本大震災時、宮城県石巻市にかつてあった大川小学校が、78名の生徒と避難してきた住民、約100名近く

が大津波の犠牲となった痛ましい事故です。


釜石の奇跡とは、同じ東日本大震災の時に、生徒と教職員などが的確に避難し、ほとんどの方が助かった出来事です。

結果は全く違っているのですが、実際にこの二つの出来事に触れてみると…。

結構似た部分があるのでは?と、私には、今、思えています。


実はこの二つの出来事、かなり微妙なところで、その「最終的判断」が変わったことをご存知でしょうか?

まず、この二つの出来事の共通点は、マニュアル通りに避難場所に避難している。ということで

す。

大川小学校は小学校自体が避難場所に指定されていました。(ちなみに大川小学校の海抜高度は1メートル)

釜石の奇跡が起こった鵜住居地区の場合も、地震が起きてすぐに指定の避難場所に避難しています。

二つとも、マニュアル通りの行動をとっているのです。

しかし…。

大川小学校の場合、学校そのものが指定された避難場所だったことより、「高い場所に避難した方が良い」という意見が出ながらも、なかなかそ

の場からの移動が始められませんでした。

周りは急斜面ばかりで、しかも雪が残り足元が悪い中、子供やお年寄りがいる状態で、マニュアルを破ってそのような場所に避難するのは問題があ

るのでは?という意見もあったからです。

確かに、実際にその場所を見てみると、小さな子供やお年寄りが高い所へ安全に移動できそうな斜面は、大川小学校の周りにはありません。

対する、釜石 鵜住居地区の場合、同じように避難場所へと移動していますが、指定された避難場所で、たまたま裏山が地震で崩れていたため移動

を決意。結果、ほとんどの子供の命を救うことができています。

釜石 鵜住居地区で起こった奇跡も、裏山がたまたま崩れていなければどうなっていたかわからない…。このことは、同、鵜住居地区にあ

る「いのちをつなぐ未来館」で語り部をされている方も語られていました。


前回の私のこのブログで、実際にこの釜石の奇跡が起こった場所の写真を掲載しましたが、指定された避難場所から、道路が整備されてい

たため、 次の避難場所への移動が問題なく行えた。
ことも、臨機応変な行動をとることができた要因と思えます。

結論を申しますと…。

この二つの出来事は、マニュアルで指定された避難場所は「危険」であったわけです。

つまり、マニュアルが間違っていたのです。

そのことに対して、どのような行動をとったか、あるいは、どのような行動をとることがその場で可能だったの

か。


そのことが「明暗」を分けてしまったように思えます。

おそらくですが、大川小学校の場合も、もし、近くに誰でも高いところに避難できる整備された道があれば、安全な場所に避難していたと思え

ます。



では、なぜ今回のこの二つの出来事で、間違えたマニュアルが作られたのでしょうか?

この理由は、私たちが、自然を全く理解していなかったことに原因があると私は思います。

この時の避難を指示したマニュアルは、実は、先の三陸津波の事例を参考としており、それを超える大津波は想定していなかったのです。

つまり、今回のような大津波は、誰も起こるとは思っていなかったのです。

しかし、地震や津波に対する研究が進む中、過去、想像を超える大きな津波が発生していることが分かってきまし

た。


以前にも、私はこのブログで書かせてもらいましたが、そのような、過去起こった大津波を正確に調べることが

とにかく重要であると思います。


そして、それをベースとして、安全な避難マニュアルを作らなければ、大川小学校のような大きな悲劇が再び起こ

ってしまうと思います。




ちなみに、もし大地震にあった時、どの程度の津波が来るか、すぐに自分で予測できる方法があるのをご存知でしょうか?

…。と、言っても、コレ私が考えた方法なのですが…。

まず、地震の揺れには、最初の弱い揺れP波(プライマリー波)本震のS波(セカンダリー波)があります。

これは地震の振動が、その揺れ方で伝わる速度が違うために起こる現象です。

揺れの弱いP波の方が早く伝わるため、揺れ始めてから本震のS波が来るまでの秒数をカウントするのです。それで

震源地までの距離が、まずわかります。


そこから、その地震のだいたいの規模や津波の規模が、計算できるのです。

具体的には、まず、P波が揺れ始めてから、本震S波が来るまで、その秒数に8を掛けます。

出てきた数字が、自分がいる場所から震源地までのだいたいの距離です。

例えば、揺れ始めて本震が来るまで10秒かかったとしたら、震源地までは10×8で、だいたい80キロということになります。

そして、その地震での震源地の震度なのですが、これは、80キロ震源地に近づくごとに「1」大きくなると考

えれば、だいたいですが合うようです。


例えば、揺れ始めて本震が来るまで10秒ほどかかったとして、自分のいる場所の震度が4だったとしたら、震源地まではだいたい10×8で80

キロほどですから、震源地での震度は4+1で5程度ということです。

そして、その震源地での震度の数字、上の例では5という数字が、地震の規模を表すマグニチュードの数値とだいたい合うようで

す。

(念のためですが、揺れを表す「震度」と、地震のエネルギーを表す「マグニチュード」は全く別のものですが、震源地ではたまたまその数字が合う

というだけです。)

つまり、震源地で5の震度の場合、その地震のマグニチュードもだいたい5程度です。(あくまで震源地が浅い場合。深い場合はもう少し震度が小

さい。)

更に…。

津波の大きさを知るには、本震の時間の長さと津波の大きさは比例する!と、考えればよいと思います。

例えば、妙に長い本震、先の東日本大震災の場合は3分ほどありましたが、こんな時は大津波が来ます。

この理由は、地震とは、断層がずれて起こるものであるため、その地震が長ければ、その分断層も大きく移動しま

す。


そして、その断層の移動が海の水を持ち上げ、「津波」となるからなのです。

もちろんこの方法は「かなり大雑把な方法」ではありますが、最初のP波が来てから本震のS波が来るまでの秒数を数え、そして、本震S波のだいた

いの時間をカウントするだけで、ここまでわかるのですから、正確な情報が取れるまでの、仮の判断の基準にはなると思います。

ちなみに…。

津波の警戒が必要なのは、だいたいマグニチュード6程度からだと思いますが、上で解説したように、本震の揺れが長かった場合は大きな津波にな

る可能性があるため、マグニチュードだけでの判断は危険かと思います。(この種の津波は「サイレント津波」と呼ばれているようです。)














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「釜石の軌跡」。実際に現地で確認してみました。

2021-05-21 18:07:57 | 人生論(life)
10年前の東日本大震災で、「釜石の軌跡」といわれる出来事が起こりました。

釜石市鵜住居地区の小中学校の生徒が自主的に非難し、ほとんどの子供が助かることができた。というものですが…。

本当は、これはマスコミの早合点で報道されたもので、実際は水門を閉めてくださった消防団員さん、誘導してく

れた大人の方たち、たくさんの大人の方が子供の命を守ろうと、その時できることを懸命にやったために、かろうじてだったのですが、ほとんどの

子供の命を救うことができたものだそうです。


このことについて、釜石市鵜住居地区にある「いのちをつなぐ未来館」で、実際にこの時この避難を体験され、現

在その体験の語り部をされている方も、自分たちだけがマスコミから、まるでヒーロー扱いされることにかなり悩まれ、「本当はそうではない」と

いうことを懸命に訴えられました。


そうして現在、そんな誤解も少しずつ解け始め、いのちをつなぐ未来館では、災害時にどうすれば命を守ることができるのか…。そのこと

について、真剣に考えながら、訪れる人たちに熱くその思いを語られています。




私もこの語り部の方のお話を一度聞いてみたいと以前より思っていたので、先日釜石まで足を運びました。

で、実際に語り部の方が体験した本当の話を聞いてみると…。

…。涙が止まらなくなりました…。

で、あの時子供たちはどんなことを考えながら避難したのか…。それが少しでも分かるかと思い、実際に子供たち

が避難した経路を歩いてみました。




まずは小中学校があった場所。鵜住居の駅近く、だいたいこの辺になるはずです。



海抜2メートルになります。

子供たちはここで地震にあいます。

地震は長く、本震だけでも3分半ほど揺れましたが、揺れ始めて2分ほどで既に中学生はみんなが集まって避難を始めます。

なぜこんなに早く避難できたかというと…。

この地区に住まわれている方は、津波の恐ろしさを十分承知しており、避難訓練も行われていたからです。

中学生はマニュアル通りに、800メートル離れた避難場所へと移動をはじめますが…。

このとき防災放送で、津波警報が出ていること、予想される津波が3メートルであることが言われていたそ

うです。


しかし、ともに避難していた大人たちを中心に、「この揺れで3メートルでは済まないのではないか…。」という、防災無線の放送を疑問視する意

見が 口々に出ていたそうです。

マニュアル通りに避難場所に移動。ここで、別途避難してきた小学生と落ち合います。



だいたいこの辺になると思います。

海抜4メートル。

しかし、写真では確認しずらいのですが、正面奥の山斜面が地震で崩れていたことより、マニュアル通りのこの場

所も危険性があると判断。


おそらくですが、先に述べた「津波は3メートルでは済まないのではないか。」という不安も、後押しされたのだと思います。

主に大人の人たちの判断で、「もう少し上に避難しておこう。」ということになり、マニュアルにはない上への移動が始まります。



この坂を上ったことになります。

この先にはデイサービスセンターがあり、そこまでの約300メートルを再び小中学生は移動しました。

デイサービスセンターは海抜15メートル。

この坂の移動が、子供たちの運命を「死」から「生」へと変えたのです。

その場所から少し離れたところで、町の景色を見てみました。



ここまでの避難で、保護者の方が数名子供を引き取りに来られていますが、このうち1名の子供がその後来る津波に命を落としています。

ここまで避難した時、皆は町の方で起こる異変に気が付きました。

大きな音とともに、土煙が上がっていたのです。

デイサービスセンターからは、家が邪魔をして直接町が見えないのですが、その異変が津波が原因であることを知るには時間は必要ありませんでし

た。

あまりにもすさまじい光景に、恐怖を感じ、誰が言うでもなく、皆の共通意識でさらに上へと逃げたそうです。 

そして、このとき、ついさっきまでいた最初の避難場所は、津波にのみこまれてしまっていました。



子供たちが最終的に逃げ延びた「恋ノ峠」。海抜45メートルになります。

ここでは子供たちはみな泣いていたのですが、数名の子供は、あまりもの恐怖に過呼吸状態になっていたそうです。

その後、何もできないままその場所で皆は留まっていたそうですが、そのうち保護者の方が迎えに来られ、子供たちは引き取られていきました。

しかし、中にはいつまでたっても保護者が現れない子供もおり…。

そこにいた、ともに逃げてきた先生方は、慰めの言葉もなく、共に泣くことしか出来なかったそうです…。


更に私は調べてみたのですが、これは、ネットなどには載せられていなかった情報で、実は…。

子供たちが最終的に避難した恋ノ峠も、その背後では津波が増幅現象により海抜30メートル以上まで来ていまし

た。


津波の増幅現象とは、地形の影響により、更に高いところまで津波が到達してしまうもので、東日本大震災の時は、最大50メートル以上まで津波

が到達しています。

つまり、もう少し津波が大きければ、海抜45メートルの恋ノ峠でさえも危険であったわけです。


今回ご紹介する、この子供たちの津波からの避難。

実は、その時々で起こっている状況に合わせて、臨機応変に行動しなければいけない!

ということを学ぶことができます。

東日本大震災は、「想定外の大きさの津波」を生みました。

これは、当初予定していた規模とは違うわけですから、マニュアルに疑問を持たなければいけな

いのです。

もし、マニュアル通りに最初の避難場所にとどまり続けていたとしたら…。

間違いなく多くの子供が犠牲になったに違いありません。


そのようなことを、皆さんにも知っていただきたいので、是非、「いのちをつなぐ未来館」に足を運ぶことをお勧めいたします。

また、これは私から「いのちをつなぐ未来館」さんに希望したいことなのですが…。

すばらし内容なので、これは日本人のみならず、海外の方でも理解できるようにした方が良いと思いました。

それぞれの国の言語を話せる語り部さんを持つことは不可能と思いますが…。

掲示板にQRコードを付けて、それに携帯をかざせば、いろいろな国の言語のガイダンスが流れるようにすれば、現実的なのではないかと思

いました。










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