「日本語?! この売国奴が!」
とチャットやミニブログで口汚く罵られる悔しさ、悲しさに耐え、
学生たちは勉強している。
一方、
日本語学科の先生たちはどうだろうか。
やはり、世間の目は厳しいものがあるのでは?
と心配していたところ、
ナント!
中国人の先生たちったら、
吹きすさぶ世間の反日の風をものともせず、
この大学の大学院に日本語学科を作る話を進めているとのこと。
まだ先生が見つからないので本格的に決められないが、
来年か再来年をメドに、と聞いて、
かなり本気であることが分かった。
さすが中国の民だ。
こんな状況でも、(そのうちまた収まるわい)と、
どんと構えているんだなあ。
この姿に、
母が生きていた頃語ってくれた話の中の中国の人々の姿が重なる。
1945年の敗戦時、山東省の日本軍下請け石炭会社で働いていた父は、
母を連れて生きて帰れるかどうかの厳しい状況だったが
翌1946年2月に何とか引揚げることができた。
その際、我が父母は、石をぶつけられるどころか、
逆に、近所の人たちから餞別をもらい、
リュックサックにギュウギュウ詰めに食べ物を入れられ、
「平和になったら、また遊びに来いよ~!」
と言って、手を振ってもらい、別れたという。
「中国は、昔から、戦い、平和、の繰り返しだ。
きっとそのうちまた落ち着くから。」
とも。
この話は、母が亡くなる直前まで何度も聞かされたものだ。
反日デモで
「日本人は皆殺せ!」と叫ぶ中国人の数より、
(そのうちまた落ち着くわい)と思って、
淡々といつもどおり暮らしている中国人の人数の方が、
文句なし、圧倒的に多いことが
ここ中国にいれば実感できる。
とチャットやミニブログで口汚く罵られる悔しさ、悲しさに耐え、
学生たちは勉強している。
一方、
日本語学科の先生たちはどうだろうか。
やはり、世間の目は厳しいものがあるのでは?
と心配していたところ、
ナント!
中国人の先生たちったら、
吹きすさぶ世間の反日の風をものともせず、
この大学の大学院に日本語学科を作る話を進めているとのこと。
まだ先生が見つからないので本格的に決められないが、
来年か再来年をメドに、と聞いて、
かなり本気であることが分かった。
さすが中国の民だ。
こんな状況でも、(そのうちまた収まるわい)と、
どんと構えているんだなあ。
この姿に、
母が生きていた頃語ってくれた話の中の中国の人々の姿が重なる。
1945年の敗戦時、山東省の日本軍下請け石炭会社で働いていた父は、
母を連れて生きて帰れるかどうかの厳しい状況だったが
翌1946年2月に何とか引揚げることができた。
その際、我が父母は、石をぶつけられるどころか、
逆に、近所の人たちから餞別をもらい、
リュックサックにギュウギュウ詰めに食べ物を入れられ、
「平和になったら、また遊びに来いよ~!」
と言って、手を振ってもらい、別れたという。
「中国は、昔から、戦い、平和、の繰り返しだ。
きっとそのうちまた落ち着くから。」
とも。
この話は、母が亡くなる直前まで何度も聞かされたものだ。
反日デモで
「日本人は皆殺せ!」と叫ぶ中国人の数より、
(そのうちまた落ち着くわい)と思って、
淡々といつもどおり暮らしている中国人の人数の方が、
文句なし、圧倒的に多いことが
ここ中国にいれば実感できる。