電気や水が安定供給されていることが当たり前と、
日本に居たら思いますよね。
宅配物や郵便物はスピーディーに
自宅郵便受けかドアの前まで持ってきてくれるし、
交通各社が電車やバスを時刻通りに発着させるのは経営のイロハであり、
スーパーマーケットやコンビニの店内はいつ行ってもきらびやかで明るく、
日本中どころか世界各地から運ばれた商品が展示されています。
日本の暮らしはなんて便利で快適なんでしょう。
ありがたいことです。
しかし、・・・・・・しかしです。
これは、「当たり前のこと」ではありません。
時刻通りの電車、バス。ありがたい!
家まで宅配してくれて本当にありがたい!
世界中の品物、美味しいお米、システム化されたサービス、
飲める水道水e.t.c.何を取ってもスゴイことだ、と
ここ菏澤では、心からそう思えるのです。
かと言って、それらに不足のある菏澤の生活が耐え難いかと言うと、
始めの数週間を経過した後は、どんどん日常化し、普通になっていきます。
バスが時刻通り来ないことを事前に知っていれば、
早めに宿舎を出るとか、スケジュールを詰め詰めにしないとか、
とにかく対処すればいいのです。
世界中の品物はなくても、
ここ山東省のもの、近隣省の特産物などがたくさんあります。
チーズは売られていませんが、寧夏や内モンゴルの牛乳があります。
哈爾浜のハム、黒竜江省の東北米、煙台の醤油やりんご、
それらは私の食事を豊かにしてくれています。
そして、それらは特筆すべき安さです。
おそらく貧しい家庭でも野菜や果物はふんだんに食べられているでしょう。
(もちろん、ネットで買えばもっと広範囲に、例えばチーズでも買えるでしょうけど)。
日本に居る時の何十分の1かのモノとサービスですが、
その中にも満たされる気持ちはいくらでも湧いてきます。
つまり、私が言いたいのは、
「何一つ不自由のない暮らし」というのは惰性と慣れに裏打ちされており、
また、たいへん主観的で、基準などないということです。
さらに、人間はモノを一方的に与えられるだけの非力な存在ではありません。
外界の条件に即して、自分の能力を縦横無尽に発揮できる
けっこうすごい動物なのです。
私は現代の日本社会の人々の中に、「受け身」ムードが色濃く漂っているのを感じます。
それは、御膳立てされて当たり前、してもらって当たり前の生活を何年にも渡って続ける中で、
蔓延してきたもの、即ち、自分の力を発揮できるチャンスを失った者が発散する
臭いのようなものではないかと思います。
近年、政府の経済政策により、
富めるものと貧しい者の二極分化がすすんでいますが、
富の集中によって金持ちは、「何不自由ない暮らし」を当たり前として生活しています。
しかし貧乏に転落した多くの庶民は、
「当たり前」も金次第だと否応なく気がついてきています。
イライラ感も増えてきた気がします。
ヘイトクライムの行動者が、家に集金に来たおばちゃんを怒鳴りつけたという記事を読み、
(やはりそうなのだ、ヘイトのヒトタチは弱い立場の人に八つ当たりしているんだ)と思いました。
その落ち着かない不安の中に、〈これから将来もっと不自由になるのではないか〉
という恐れがあるんじゃないかな、と推測します。
ヘイト行動とまでいかなくても、日本の庶民の多くが少しずつ品格を失いつつあると思うのは
私だけでしょうか。
それが「失うことへの恐怖、焦り」からくるのであれば、
ここで私は声を大にして言いたいのです。
「モノなんかなくたって、全く大したことじゃないです。
不便な生活も、慣れたら普通ですよ。
何しろ自分の力を最大限発揮するチャンスが到来したんですから、
むしろ元気になりますね。P(^_^)q
不自由は、思考を生み、工夫を育て、行動力を養います。
ということで、案ずるより、不自由が易し!」と。
江戸末期に日本を訪れた西洋人が日本の大人たちがいつも子どもを可愛がり、
子どもを抱いて笑っているのを見て、
(どうしてこんな貧しい国の人たちがこんなに幸せそうなのだろう?)
と不思議に思ったというエピソードは周知の通りです。
私たちは、何不自由ない、モノに囲まれた受け身の暮らしより、
平和で笑いに満ちた、創意工夫のある生活を追求したほうがいいんじゃないかしらね。