小学校の卒業式の祝辞で、司馬遼太郎氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」を久しぶりに聞きました。
小学校六年生向けに国語教科書用に書かれて、氏が「一編の小説を書くより苦労した」と洩らすほど力を傾注したという文章です。
一部抜粋します。
…さて、君たち白身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
自分にきびしく、相手にはやさしく。という自己を。 そして、すなおでかしこい自己を。
二十一世紀においては、特にそのことが重要である。 二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。 科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。 川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に侍っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。人間は、助け合って生きているのである。
私は人という文字を見るとき、しばしば感動する。 ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。 社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。 家族を中心とした社会だった。 それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。 他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」「他人の痛みを感じる」「やさしさ」
みな似たような言葉である。 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。 だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。 その訓練とは、簡単なことである。 例えば、友達がころぶ。 ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「だのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。 人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。 人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
もう一度くり返そう。 さきに私は自己を確立せよ、と言った。 自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。 いたわりという言葉も使った。 それらを訓練せよ、とも言った。 それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。 そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。 君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見つづけながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。