CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

阪堺電気軌道の住吉公園駅の廃止セレモニー on 2016-1-30

2016年01月31日 04時55分51秒 | 大阪情報
大阪市の路面電車、阪堺電気軌道の住吉公園駅が廃止されることになり、
2016年1月30日、住吉公園駅での最終運行を見送るセレモニーが開かれた。

上記のニュースをテレビの報道と神戸新聞の夕刊記事で観た。

2012年3月27日に住吉公園と住吉神社を訪問した際に撮った阪堺電気軌道の
列車の写真や地図があったので写真紹介します。


写真は阪堺電気軌道上町線の住吉公園から住吉鳥居前駅に向かって走行中の列車。
 住吉鳥居前駅より2012-3-27撮影


上の写真は阪堺電気軌道上町線の住吉鳥居前駅の路線図看板 2012-3-27撮影




上の2枚の写真は阪堺電気軌道の住吉公園駅周辺の地図(2012-3-27撮影)


上の写真は住吉駅に停車中の阪堺電気軌道の列車(2012-3-27撮影)






上の3枚の写真は2016年1月30日 朝8時32分住吉公園駅発 別れの終電
 テレビの画像より

阪堺電気軌道住吉公園駅は通勤時間帯の7時、8時台のみに運行するので
「日本一終電が早い駅」として鉄道ファンには知られている

2014年のハルカス開業後のダイヤ改正で毎朝4、5本の発着になり、
住吉-住吉公園間は幹線からはみ出した「盲腸線」となった。
平日の終電は午前8時24分、土日祝日は同32分で利用者は平日で100人程度

阪堺電気軌道によると、約100メートル東に阪堺線の住吉鳥居前駅があるため、
廃止後も大きな影響はない。

住吉公園駅は南海電鉄の住吉大社駅に隣接しており、大正2年(1913)7月に開業
103年の歴史がある。駅舎や、構内のテナントは残るそうです。



上の写真は阪堺電気軌道・阪堺線の列車(2012-3-27撮影)








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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その10(完) 理安寺

2015年11月23日 06時50分11秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第10回目(最終回)です。
今回は理安寺をお送りします。
ようやく最終回にまでたどり着きました。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社 

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その9 光松寺

理安寺の基本情報

住所:高槻市京口町1-1-8 TEL:072-675-1379
宗派:浄土宗  山院号:起行山総智院
御本尊:阿弥陀如来 
創建:時期は不詳 光譽承認




上の2枚の写真は道路側から観た理安寺の外観です。

高槻市の観光情報による理安寺の解説を引用させていただきます。

「高槻城の鬼門に当たる位置にある寺町。その中に理安寺はある。元和5年(1619年)、時の高槻城主・松平家信が夫人の菩提を弔って以来、松平氏の菩提寺として繁栄した。古くは「利生安国」から利安寺と称していた。」


上の写真は理安寺の本堂。 本堂には起行山の扁額がかかっていました。


上の写真は高槻市教育委員会が作製した説明版。
Wikipediaより理安寺に関する説明を引用させていただきます。
「創建年月は不詳だが、光誉上人が創建したといわれている。元和5年(1619年)に高槻城主となった松平家信が先婦人の菩提を弔って、理安寺を再興させた。それ以降、松平家の崇高が厚く、松平家の菩提寺として繁栄した。家信の次男で後に高槻藩主となった康信のときには、寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに栄えたという。古くは「利生安国」から字を取って、利安寺と称していた。

墓地には、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人・藤井竹外と親交の厚かった市村甘泉の墓が建っている。」



上の写真は鐘楼。


上の写真は地蔵堂。


上の写真は南無阿弥陀仏と書かれた石碑。


上の写真は理安寺の由緒について35世住職が石碑に刻んだものです。
内容を要約すると「理安寺は旧名緫安寺と言っていた。元和5年(1619年)に高槻城に入城した松平家信が先婦人の菩提を弔い寺を再興したこと寛永19年(1642)後妻が死去した時に理安寺と改称した」と石碑に刻まれています。


上の写真は理安寺の歴代住職の墓碑。


上の写真は理安寺の前(南面)の道路を挟んだ街並み。
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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その9 光松院

2015年11月23日 04時23分20秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第9回目です。
今回は霊雲山 光松(こうしょう)寺をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社 

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺

光松寺の基本情報

住所:高槻市大手町2-47 TEL:072-675-1075
宗派:西山浄土宗  山院号:霊雲山深入院
御本尊:阿弥陀如来
創建年:不詳 開基:良元
中興:永禄年間(1558~1569年) 顕空登順による中興


Goo地図はこちら

  

公式HPhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~koushouji_gikuu/


上の写真は道路側から観た光松寺の山門、鐘楼、本堂


上の写真は光松寺の掲示板で義空独白と称する「説話」が掲示されていました。
当日は903話 「星月夜」と第902話「一帖と一坪」が掲示されていました。
HPには最新の「義空独白」が掲載されています。


上の写真は本堂。
本堂は棟札から正徳3年(1713)に再建された建物だそうです。


上の写真は光松寺の説明板(高槻市教育委員会作成)

Wikipediaより光松寺に関する解説を引用させていただきます。

創建年月は不詳だが、寺伝によると良元が結んだ草庵が始まりと伝えられている。当初は高槻城内にあったとされるが、永禄年間(1558~1569年)の高山右近の高槻城改築にあたりこの地を賜り移転したとされる。そのときに光明寺から顕空登順上人を迎え開山としたと伝えられる。顕空登順上人が本堂を創建し、後に、庫裡、観音堂、鐘楼堂、客殿、玄関、土蔵などを増築した。1995年(平成7年)の阪神大震災により被災し、本堂は1998年(平成10年)に修復されている。




上の写真は光松寺の前の道路を挟んだ風景です。昔の風情を感じることが出来る
街並みです。

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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺

2015年11月18日 06時43分19秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第8回目です。
今回は常地山 本行寺をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社 

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会

常地山 本行寺の基本情報

住所:高槻市大手町2-43 TEL:072-675-0006
宗派:日蓮宗 山号:常地山
御本尊:題目宝塔、釈迦多宝の二仏
公式HP:http://hongyouji.net/a05/



上の写真は常地山 本行寺です。
本行寺のある地域は高槻城の鬼門にあたるそうで、寺が多く立地しています。


上の写真は本行寺の説明版です。

慶安4年(1651年)に、高槻城主の永井直清が平癒祈願をし、見事かなったこと
から本堂を建立し、それ以来高槻城主の祈願所となり、「病を除く寺」として
有名になったとされる。(Wikipediaより)


上の写真は高麗門(左)と法華経守護神の塔(右手)
法華堂守護神の塔は昭和61年(1986)6月に再建されたものです。


上の写真は高麗門の説明版。


高麗門をくぐると正面に妙見堂が見えてきます。


上の写真は本堂です。


上の写真は本堂に架けられている扁額。



上の写真は境内庫裡前の庭です。良く手入れされています。

上の写真は外から観た庫裡。


上の写真は日清戦争、西南の役、日露戦争で殉職死された方を祀る石碑。


上の写真は高槻三面大黒天神


上の写真は鐘楼。



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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会

2015年11月12日 05時00分27秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第7回目です。
今回はカトリック高槻教会(高槻カトリック教会)をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社 


カトリック高槻教会の基本情報

住所:高槻市野見町2−26 TEL:072-675-1472
設立:昭和28年(1954)

公式HP:http://www.catholic-takatsuki.jp/index.html






上の3枚の写真は高山右近記念聖堂を中心に撮ったカトリック高槻教会。

高山右近記念聖堂(1962年3月完成)は高山右近の臨終(1615年2月3日)
の地であるマニラ郊外アンテイポロにある聖母大聖堂を模して建設されました。


上の写真はカトリック高槻教会内の高山右近像。


上の写真は高山右近の顕彰碑です。
もとは現在の商工会議所の場所に建立されましたが後年カトリック高槻教会に
移設されました。

昭和21年(1946)11月、当時大阪司教だった田口芳五郎司教の選書です。
ジュスト高山右近太夫長房(Justus Ut Palma Florebit)を顕彰する文章
が書かれています。

高山右近の生涯についてはWikipediaに詳細に書かれています。
  https://en.wikipedia.org/wiki/Dom_Justo_Takayama









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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社

2015年11月11日 04時47分31秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第6回目です。
今回は野見神社をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

野見神社の基本情報

住所:高槻市野見町6−6 TEL:072-675-1316
御祭神:須佐之男命(創建時は牛頭天王)、野見宿禰命
創建:9世紀末、平安時代中期の宇多天皇の時代(887年 - 897年)と伝わる
   もとは上宮天満宮付近にあった式内社・濃身(のみ)神社が移ってきた
公式HP:http://www.nomijinja.jp/



上の写真は野見神社の境内案内図です




上の写真は野見神社の説明板


上の写真は野見神社の説明板(英語版)


上の写真は野見神社の年間行事表


上の写真は高槻戎神社と能舞台の遠景。左手は社務所。
右手に永井神社の鳥居も写っています。




上の写真は永井神社の入り口の門
永井氏は高槻城の城主で江戸時代、約200年続いた


上の写真は永井神社の説明版です。


上の写真は永井神社の拝殿


上の写真は永井先公 遺愛碑


上の写真は四社明神。


上の写真は小島神社。


上の写真は護国神社。

拝殿と本殿の写真を撮るのを失念してしまいありません。



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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

2015年11月08日 04時37分14秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第5回目です。
今回は藤井竹外邸跡をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像


藤井竹外邸跡はカトリック高槻教会の南側、高槻現代劇場文化ホールとの間に
あります。住所:高槻市野見町2-33 




上の写真は藤井竹外邸跡の石碑と説明板。

説明版には下記の内容が書かれています。

幕末の漢詩人の藤井竹外は文化4年4月20日(1807年5月27日)、高槻藩士
藤井沢右衛門の長男として生まれた。
竹外は藩の教育機関である青莪堂(せいがどう)=九代藩主永井直進により設立
で学び鉄砲術をはじめ武芸にも励んだといわれる。また、文武両道の素養を備え
青年期から頼山陽を師と仰ぎ詩作に傾倒した。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭
し、七言絶句を得意としたため、「絶句の竹外」と呼ばれたという。
嘉永7年(1854)刊行の「竹外二十八字詩」(前編)には、215首の詩が
収められており、中でも「花朝下澱江」「花井」「芳野」などは彼の代表作として
知られている。
慶応2年(1866)、60歳で世を去ったが、門下の高階春帆や市村水香らが
明治時代に「竹外吟社」を結成、竹外の作風の継承と発展に努めた。
竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、旧城下の本行寺(大手町)にも、自然石
に刻まれた「竹外先生之墓」がある。この地は北大手門内の藤井竹外邸であり、
詩碑は昭和52年(1977)10月に生誕170年を記念して建てられたものである

高槻市教育委員会



藤井竹外の略年譜を添付しておきます。
1807(文化4) 生誕
1825(文政8) 19歳 小姓として高槻城鶴之間番役
1829(文政12) 23歳 福井斉(せい)と結婚
              ( 鉄砲名手と言われる。)
1832(天保3) 26歳 頼山陽 大塩平八郎訪問途次竹外宅訪問
1836(天保7) 30歳 息子又一誕生
1845(弘化2) 38歳 『竹外亭百絶』刊行
1848(嘉永元) 42歳 江戸勤番終え帰郷
1854(嘉永7) 48歳 『竹外二十八字詩』刊行
1861(万延2) 55歳 隠居
1862(文久2) 56歳 京都三本木へ移る
             (頼山陽旧居・梁川星巌旧宅に近く)
1866(慶應2) 60歳 病没
              (高槻北山乾性寺に葬られる、のち高槻本行寺移築。)


竹外二十八字詩評釈より「花朝下澱江」の漢詩を紹介します。
  桃花水暖江
  背指弧鴻欲没頭
  雪白比良山一角
  春風楢未到江州

       [大意:春の淀川を下り
       背をふり返り一羽の鳳がいる方向をみれば
       雪白い比良山の一角
       まだ春風も届いてはいないようだ]
              

 
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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

2015年11月07日 06時27分48秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第4回目です。
今回は高槻城の残影と高山右近像をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園



上の写真はAR高槻城の看板です。
最近はスマホで見れるこのようなサービスが普及してきていると感じます。


上の写真は高槻城の配置図。


上の写真は歴史民俗資料館です10時からの開館で早く来すぎた為
入場できず。


上の写真は池と復興された天守台。
実際に当時天守があったのはこの場所ではなく現高校の敷地内とのこと。






上の3枚の写真は高山右近像。

Wikipediaより高山右近(1552-1615)について引用紹介します。
キリスト教の最大の理解者であったのは、高槻城主の高山父子であるが、
芥川山城主であった和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に
教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。
その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった
教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、
当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、
宗教活動を活発にしていたようである。天正10年(1582年)6月に本能寺の変で
信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585)
に明石の船上城へ転封させられた


明石市の船上城については小生もブログを作成しています。下記サイト。
 船上城跡
敬虔なキリスト教徒である右近は、在任期間2年間ではあるが明石の地に多くの
教会を建設していった。
天正15年(1587) 秀吉は、キリシタン追放令を出し、さらに各大名に対しては、
11箇条の指令を出し、厳しくキリスト教取り締まる方針を出した。
その影響で高山右近は小豆島、肥後、加賀高岡、長崎、ルソン(フィリピン)
などの地を転々とした。

高山右近没後400年にあたる平成27年(2015)、日本のカトリック中央協議会は
高山右近を地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、福者に認定するよう
ローマ教皇庁に申請した。 2015年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が
高山右近を手続きを始めることを了承され、遅くても、2016年1月までには
認定される模様。

詳細は日経新聞電子版  2015/6/22 12:14配信




上の写真は高槻城の現地説明版です。


上の写真は上記説明版の拡大版です。
高槻城の全体と城下町の様子が判ります。


上の写真も上記説明版の拡大版です。
八丁松原から高槻城内に向かう行列が描かれています。


上の写真は高槻城の石垣の基礎部の構造を解説
同じく上記説明版の拡大版です。


高槻市 市民憲章が掲示されていました。




上の2枚の写真は高槻城廐廊 桝形門の石垣石 第一中学校より出土品と
説明書き。
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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

2015年11月02日 06時28分32秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第3回目です。
今回は高槻城跡公園をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

高槻城の城跡公園は高槻市のHPによれば昭和31年(1956)に整備され面積は4.47ha
だそうです。公園には遊技の道具や記念碑、彫刻そして豊かな木々が有り憩いを
実感できる場所であります。

早速写真紹介します。


何故か公園内に信号が・・・・・


上の写真は公園内の遊具。 たこの遊具が面白い。


上の写真は戦後50周年を記念して建てられた平和モニュメント「未来のゆりかご」で
作者は手島修作氏 1996年3月建立


上の写真は昭和62年(1987)8月6日広島市長の荒木武氏より寄贈された被爆庁舎の前庭
の敷石をモニュメントにしたもので。平和を願う思いを表したもの。


上の写真は高槻市が非核平和宣言都市であることを記したモニュメントです。


上の写真は歴史民俗資料館近くの彫刻作品。









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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

2015年10月30日 17時18分57秒 | 大阪情報

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第2回目です。
今回は八幡大神宮をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標


八幡大神宮の基本情報
住所:高槻市八幡町2番9号地 TEL:072-674-7411(高槻市産業環境部産業振興課)
御祭神:応神天皇、天児屋根命、建御名方命
由緒:別記


Goo地図はこちら
 


上の写真は八幡大神宮の正面からの外観です。


上の写真は裏側から観た八幡大神宮です。


上の写真は本社及び末社(稲荷神社と月読神社)の御祭神が書かれた説明板


上の写真は末社(稲荷神社と月読神社)です。

下記は境内の説明版です。そのまま引用させていただきます。
八幡大神宮は、応神天皇・天児屋根命・建御名方命を祭神とする。
創建の年月は不詳であるが、社伝によれば、洪水によって応神天皇の像と白羽矢
がこの地に流れ着き、これを祀ったのが最初という。
戦国時代(元亀年間・1570~1573)に高山氏の兵火で焼失したが、
その後、牛頭天王(現野見神社)等とともに高槻城の守護神として歴代城主の崇敬
厚く、元和5年(1615)には松平家信が社殿を寄進したと伝えられる。
 境内には、本殿や拝殿、末社の稲荷神社・月読神社などがある。

 昭和63年 6月  高槻市教育委員会



上の写真は由緒について書かれた境内の説明板。


上の写真は八幡大神宮の年中行事について記した説明板。
 
 
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