CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園

2021年09月15日 04時32分17秒 | 大阪情報

2021年9月11日のNHK総合テレビの朝の番組で富田林の寺内町が紹介されていました。

これに刺激されて表題の記事を書く事にしました。

富田林寺内町へは2018年11月11日に訪問していましたがブログ記事にしていませんでした。

本日はその第1回で近鉄長野線富田林駅から徒歩3分ほどの所にある本町公園を紹介します。

住所は大阪府富田林市本町8−15

Goo地図を添付しておきます。 

それでは早速、本題に移ります。

上の写真は本町公園入口に設けられた寺内町案内板

上の2枚の写真は平成2年(1990)11月市制施行40周年を記念して本町公園内に記念植樹

された樹木と説明板

上の2枚の写真は石上露子の記念碑

旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ

小板橋(下記)は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにしました。

小板橋

ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき

今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめく

  ゆうちどり

石上露子(いそのかみ つゆこ 1882-1959)

明治時代後期に「明星」の歌人として活躍した石上露子は、本名を杉山タカといい、

富田林杉山家の長女に生まれた。幼少の頃から文筆に親しんだ露子は、17、8才の

頃には「夕ちどり」のペンネームで「婦女新聞」や「婦人世界」に随筆や小説などを

投稿し、1903(明治36)年の秋に「新詩社」の社友となった。

その端正な容姿から白菊の花にたとえられた露子は、与謝野晶子や山川登美子らと

ともに「新詩社の五才媛」として称された。

5人の才媛は他に茅野雅子、玉野花子がいる。

上の写真は石上露子の生家、重要文化財の旧杉山家住宅をモチーフとしたタイル画

上の写真は織田作之助記念碑「土曜夫人」の原稿

「夫婦善哉」などの作品で昭和20年前後の文壇に活躍し、織田作(おださく)

の名で大阪を代表する作家として親しまれた織田作之助は、その一時期を

富田林で過ごしました。

親代わりのように作之助を愛し、面倒を見ていた長姉夫婦(竹中氏)が富田林に

転居してきた昭和20年以降、作之助は、現在の富田林市寿町にあった竹中家に

身を寄せています。この時期、すでに流行作家として次々に作品を発表していた

作之助にとって、富田林に滞在した日々は、まさに円熟のときでした。

以後、昭和22年に短い生涯を閉じる2ヶ月前まで、竹中家の書斎を好んで

文筆活動の場としていました。

作之助は、「人の一生は偶然の連続である。偶然を敏感に感受して必然に変えるのだ」

という言葉を文学と人生の哲学にしていました。

平成7年11月13日に記念碑が建立されました。

上の写真は織田作之助(左)と石上露子(右)の記念碑の遠景

上の3枚の写真は石上露子の歌碑と説明板

歌碑には次の文が詠まれています。

「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」

説明板には次のように書かれています。

石上露子 (杉山タカ)  1882年-1959年
1904年(明治37年)2月、世界の列強ロシアと日本が国運を賭けての戦争が始まった。日露戦争である。同年5月金州、南山の攻略は約1ヶ月余りにわたり激しい戦いが展開された。この戦いに大阪第四師団が参加、富田林及びその周辺の村落にも多くの戦死者を出した。この時、戦死者とその遺族の身の上を按じ、国の行末を思い、言い知れぬ深い不安と悲しみにおそわれて詠まれたのがこの短歌で、明治37年7月短歌誌の明星に夕ちどりの名で発表せられた。 芝昇一 記

上の2枚の写真は水車の展示と説明板

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聖徳太子1400年御遠忌大法会 in 叡福寺 と聖徳太子所縁の寺社

2021年04月19日 04時13分44秒 | 大阪情報

聖徳太子は推古天皇30年2月22日(新暦換算622年4月8日)に死去されていますので

今年は没後、1400年の聖忌となることから、叡福寺で「聖徳太子1400年御遠忌大法会

が執り行われています。

聖徳太子1400年御遠忌大法会の要項

開催期間:2021年4月10日~5月11日 拝観時間は9:00~16:30(受付は16:00まで)

開催場所:叡福寺 大阪府南河内郡太子町太子2146  TEL:0721-98-0019

拝観料:大人 1,500円 小人 700円

公式サイト:上之太子 叡福寺 【公式】 聖徳太子御廟所 (eifukuji-taishi.jp)

期間中は、「聖徳太子絵伝」が特別に公開されるほか、雅楽、献華式、献茶式、

新作能、狂言などの奉納行事も予定されています。

大法会の詳細内容については上記の公式サイトを参照してください。

 

叡福寺のGoo地図は下記サイトに記載しています。

 聖徳太子墓(叡福寺北古墳)訪問記 on 2014-12-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


 

聖徳太子関連年表
538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
574年 聖徳太子生誕
      574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)出生地は橘寺     
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
     聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
582年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺
      推古天皇即位
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 仏教興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
601年 斑鳩宮を造営
603年 冠位十二階を定めた
605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む
604年 十七条憲法を制定
615年 仏教を篤く信仰し「三経義疏」を著す
622年 聖徳太子死去
      622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

さらに詳細は http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Sh%C5%8Dtoku   

聖徳太子墓

上の2枚の写真は叡福寺の聖徳太子墓(叡福寺北古墳) 撮影:2014-12-2

 

近つ飛鳥博物館の常設展で聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の展示の説明版を
示します(上の2枚の写真)

聖徳太子墓(叡福寺北古墳)訪問記 on 2014-12-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上記ブログより聖徳太子の墓所に関する記載を再掲載します。

この墓には聖徳太子の他に聖徳太子の母君の穴穂部間人皇后(あなほべのはじひとこうごう)と
妃の菩岐々美郎女膳臣女(ほききみのいらつめかしわでのおみのむすめ)の3人が
葬られていることから三骨一廟と呼ばれています。

造営年代と納骨時期について:
聖徳太子は生前にこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したとされる。
推古29年、太子の母・穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に埋葬した。
更に推古30年(622)2月、大后の眠る廟に、太子と前日に亡くなった妃の
菩岐々美郎女膳臣女が合葬された。
法隆寺金堂に安置されている釈迦像の光背に刻まれた銘文による


石室は現在宮内庁の管理下にあり立ち入ることができない。

近年での学術調査として宮内庁職員である富岡鉄斎が、明治12年に入廟し、
このときも三棺合葬となっている石室図を記録として残しています。
明治の初めまでは石室にはいることが可能で先人がいくつかの記録を残している。

 

聖徳太子所縁の寺社

(1)法隆寺

  

上の写真は法隆寺西院伽藍 五重塔 撮影:2015-12-20

 訪問記:法隆寺 on 2015-12-20 その10 (最終回) 法隆寺大宝蔵院の百済観音 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

(2)橘寺

上の写真は橘寺(太子堂)です。 撮影:2011-5-16

訪問記:奈良散策記 その4 橘寺 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp) 

 

(3)斑鳩寺

上の写真は斑鳩寺 三重塔 撮影:2018-4-18

訪問記:斑鳩寺訪問記 on 2018-4-18 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

(4)鶴林寺

上の写真は鶴林寺の本堂(左)と太子堂(右) 撮影:2014-1-8

訪問記:鶴林寺の修正会/鬼追い on 2014-1-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

    鶴林寺 on 2009-12-8 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

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旧川口居留地

2021年02月28日 04時50分37秒 | 大阪情報

旧川口居留地について資料が出てきたので記憶に留めるためにブログを作成しました。

上の写真は10区画増設(26区→36区)後の居留地区画

 出典:明治19年「新修大阪市史」第5巻

以下はWikipediaより旧川口居留地の概要を記したものです。

開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分岐点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた
大坂船手が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に
充てることが予定されていた。
なお、大坂船手の船員たちの多くは同じく勝海舟が頭取を務める神戸海軍操練所に転属されている。
また、1867年には幕府が「戎」の文字の使用を禁止したため、予定地の南隣に位置する
戎島町が梅本町に改称されている。

1868年7月に26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ
西洋の街へと整備される。居留地に接する富島町、古川町、本田一番町~三番町、梅本町も
外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われた。
また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する洋風建築の大阪府庁舎(2代目。1874年竣工、
1926年大手前へ移転)や大阪市庁舎(初代。1899年竣工、1912年堂島へ移転)が建設された。
1899年に居留地制度は廃止されたが、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり
大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェが出来、様々な工業製品や嗜好品が
ここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。

 

大坂の開市は慶応3年(1867)12月(新暦換算1868年1月)居留地は上述のように1868年7月

に26区画の競売が実施され、明治19年(1886)6月7日に10区画(2,667坪余=約8,800㎡)

拡張されました。

拡張後に36区画となりました。神戸の126区画と較べるとこじんまりとした感じです。

この居留地は港としては不適で大型船が入港出来ないことから明治5年(1872)には

外国船の入港が途絶えた。

川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。

川口旧居留地は明治32年(1899)条約改正により廃止され、大阪市にひきつがれた。

現在は本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑(1961年大阪市建立)がひっそりと

立っているのみである。

川口居留地について詳しく解説されているサイトがありましたのでリンクさせていただきます。

 pageq1 (sakura.ne.jp)

 

 

 

 

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はたごや 阪急池田駅前店でのランチ on 2019-2-20

2019年02月23日 04時07分56秒 | 大阪情報
2019年2月20日、カップヌードルミュージアム大阪池田の展示を見るために阪急池田駅に
来ていました。その時に「はたごや 阪急池田駅前店」でランチを頂きましたので
写真紹介します。

先週(2月14日)に続いて2回目の訪問です。
 前回の訪問記:
  はたごや 阪急池田駅前店でのランチ on 2019-2-14

メニュー表は上記ブログに掲載しています。


はたごや 阪急池田駅前店の基本情報

住所:池田市満寿美町2−10 井上ビル1F TEL:072-750-3321
営業時間:昼11:30~15:00(L.O.14:00)
     夜17:00~23:00(L.O.22:30)
定休日:なし  運営:株式会社H&Rコーポレーション


所在地のGoo地図を添付しておきます。


公式サイト:https://hr-corp.jp/
ぐるなび: https://r.gnavi.co.jp/k414511/


上の写真は私が注文した日替わり昼膳 1,000円(税込)
当日の日替わりの内容は鰆の竜田揚げ、大根と鶏の煮物、豆腐の明太子和え
漬物、味噌汁でした。

大根の煮物が特に美味しかった。


上の写真は奥様が注文した穴子釜飯御膳 1,680円(税込)

釜めしは穴子の他に鯛、蛸、鶏から選べます


上の写真は穴子釜飯の拡大写真


上の写真はデザートと飲み物


上の写真はお店の入口にあった飾り物
感じが良かったので写真を撮らせていただきました。

当日は食事の後、小林一三記念館を訪問していますので記憶のために入場券を添付
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はたごや 阪急池田駅前店でのランチ on 2019-2-14

2019年02月20日 04時32分43秒 | 大阪情報
2019年2月14日、カップヌードルミュージアム大阪池田の展示を見るために阪急池田駅に
来ていました。その時に「はたごや 阪急池田駅前店」でランチを頂きましたので
写真紹介します。

はたごや 阪急池田駅前店の基本情報

住所:池田市満寿美町2−10  TEL:072-750-3321
営業時間:昼11:30~15:00(L.O.14:00)
     夜17:00~23:00(L.O.22:30)
定休日:なし  運営:株式会社H&Rコーポレーション


公式サイト:https://hr-corp.jp/
ぐるなび: https://r.gnavi.co.jp/k414511/


上の写真は当日いただいた鯛めし御膳 1,380円(税込)


上の写真はランチメニュー表


上の写真は限定20食の日替わり御膳 1,000円(税込)のメニュー表


上の写真は季節メニュー 牡蠣フライ 1,380円(税込)のメニュー表


上の写真は花籠御膳(2,480円)と潮騒解析(2,980円)のメニュー表




上の2枚の写真はドリンクメニュー




上の2枚の写真はお店の外観


上の写真はお店の看板
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弥生時代の巨大環濠集落 池上曽根遺跡 on 2017-3-28

2017年04月03日 06時00分05秒 | 大阪情報
2017年3月28日、大阪府立弥生文化博物館で講演会があり出かけていました。

その時に見学した弥生時代の巨大環濠集落「池上曽根遺跡」について写真紹介します。
池上曽根遺跡は大阪府和泉市池上町と泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代の全期と
中世までにまたがる複合遺跡です。

池上曽根遺跡の基本情報
住所:和泉市池上213-1(池上曽根史跡公園) 
TEL:0715-45-5544(池上曽根弥生情報館)
国史跡指定:1976年4月26日(1978年11月15日、1993年2月5日追加指定)
国史跡指定面積 115,000㎡
池上曽根史跡公園面積:35,000㎡(第1期整備範囲)
復元建物(平成13年(2001)にオープン):
 大型掘立柱建物、大型くり抜き井戸、竪穴住居、小型掘立柱建物、
 遺構復元(環濠、竪穴住居、祭祀遺構ほか)


Goo地図はこちら
 






上の3枚の写真は2001年に復元された大型掘立柱建物と大型くり抜き井戸とその説明版

大型建物は東西19.2m、南北6.9m、面積133㎡(約80畳)26本の掘立柱で
支えられそのうち16本の柱が残存していたとのこと。
柱の材種はケヤキが3本 その他はヒノキ

柱の年輪年代法で伐採された時期は紀元前52年と鑑定。

1995年、96年度の発掘調査で上記の大型掘立柱建物が一度きりの建物ではなく
弥生時代中期後半という短い期間「にほぼ同位置で3~4回建て替えが行われており
大型掘立柱建物D→同A→同B→同C→同1(Cと1は同時存在の可能性あり)の順で構築。
2001年の建物再現は大形建物1をモデルとしている。

上の写真は大形掘立柱建物と大形井戸の重複関係


上の写真は1995年に発掘調査(94-1区)された時の様子です。










上の4枚の写真は復元された大型くり抜き井戸とその説明版及び発掘調査時の様子







上の3枚の写真は池上曽根史跡公園と池上曽根遺跡全体を示した説明図


上の写真は2001年に復元の竪穴式住居
池上曽根遺跡全体では250戸の竪穴式住居が見つかったことから約1,000人の人が
住んでいたと推定されています。発見された水田などから推定して何人が食っていけるかで
推定した村の人口は約600人。

どの時点かはハッキリしないが池上曽根遺跡の村は他の村から攻撃を受け滅亡した模様

発掘の経緯 By Wikipedia
1903年(明治36年):池上町在住、南繁則が自宅の土塀(遺跡の土を用いて築造)から石鏃を発見。
1921年(大正10年):池上町在住、南繁則が長首壺を発掘。
1949年(昭和24年):和泉市池上ポンプ場東方から畿内第II様式の壺形土器が多量確認され、
           大規模遺跡として知られるようになった。
1954年(昭和29年):大阪府立泉大津高校地歴部が土器を採集。
1958年(昭和33年):市営住宅の建設に伴い、和泉市教育委員会が発掘調査。
              紀元前2世紀頃の土器・炭化米などが出土。
1961年(昭和36年):府営水道敷工事に伴い、泉大津高校地歴部が発掘調査。
          多くの溝、竪穴式住居跡、土壙などを検出。弥生時代中期を中心とした
     土器などが多量に出土した。遺跡の南北約400メートルにおよぶ広がりが把握された。
1967年(昭和42年):国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が範囲確定調査を行う。
1969年(昭和44年):国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が発掘調査を開始
                       (〜1971年(昭和46年))
1971年(昭和46年):府道松之浜曽根線内範囲確定調査を行う。
1974年(昭和49年):府道松之浜曽根線内第一次発掘調査開始。
1978年(昭和53年):国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が発掘調査を開始(〜1979年(昭和54年))。
1987年(昭和62年):府道松之浜曽根線内第二次発掘調査開始。
1990年(平成2年):史跡池上曽根遺跡整備委員会による発掘調査。
1993年(平成5年):集落を取り囲む大溝を検出。南北約300メートル、東西約400メートルの大環濠と推定された。
          この溝の中から多量の土器・石器や獣骨の他に農工具を中心とした木製品出土。
          その中には鳥形木製品、男性器形木製品など含まれていた。
          方形周溝墓(弥生時代前期)、厚さ30センチメートル以上堆積した土器片、
1995年(平成7年):大型高床式建物・丸太くり抜き井戸検出。




上の写真は漆や土器の製造をしたと考えられる工房跡(掘立柱建物)


上の写真は土器の製造をしたと考えられる工房跡(掘立柱建物)


上の写真は工房施設の関連説明板




上の2枚の写真は土屋根を持つ竪穴倉庫 イワシ醤油が生産・貯蔵されていたか?




上の2枚の写真は環濠の再現







上の3枚の写真は再度、池上曽根遺跡の全体説明図と遠景
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堺市立 鳳小学校 創立120周年記念壁画 「鳳だんじり祭」 on 2017-3-29

2017年03月29日 04時55分07秒 | 大阪情報
昨日(2017-3-29)、大阪府の和泉市の弥生文化博物館での講演会参加のため
JR西日本の阪和線に乗っていました。弥生博物館の最寄り駅は信太山駅であるが
9時30分の開館までに時間があり過ぎるため鳳駅で途中下車し、大鳥大社に
向かって歩いている途中に表題の壁画を見つけたので写真紹介します。

堺市立 鳳小学校の基本情報

住所:堺市西区鳳中町2丁目22 TEL:072-262-0124
設立:明治19年(1886)10月19日千種小学校として(創立記念日)
   前身は明治6年(1873)第八番小学校として大鳥郡船尾村に設立
   明治9年(1876)大鳥小学として大鳥村専光寺堂宇に仮設
   明治9年(1876)泉北郡大鳥村145番地に校舎新設

公式HP:http://www.sakai.ed.jp/weblog/index.php?id=sakai025

次に本題の壁画の写真紹介をします。


上の写真は鳳小学校 創立120周年記念壁画の遠景です。

長承寺、野代、北王子の法被が描かれています。

大鳥地車(おおとりだんじり)をテーマに野田青年團、大鳥青年團の皆さんが
創立120周年を記念して描かれたものです。

大鳥だんじり祭は大鳥大社の秋祭りで毎年10月に開催されているようです。
大鳥地車と野田地車が宮入します。


南町、長承寺の提灯が見えます


野代の提灯が見えます


北王子と新在家の提灯が見えます


野田と大鳥の提灯が見えます

Wikipediaによれば
だんじりは宮入順に、大鳥、野田(大鳥村の字)、新在家(北王子村の字)
、北王子、野代、長承寺、上(鶏鳴)、石橋(草部村の字)、
富木、濱寺元町(旧 下村)の10台が大鳥大社に宮入されるようです。



上の写真は大鳥大社側から観た鳳小学校と壁画の遠景です。
前の通りは旧「熊野街道」で別名「小栗街道」とも呼ばれています。

熊野街道は平治元年(1159)平清盛と平重盛の親子が熊野詣で通った道として
有名です。

新在家、野田、大鳥の法被を描いたもの
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茨木市 郡遺跡、倍賀(へか)遺跡の現地説明会 on 2017-1-29

2017年01月30日 15時55分15秒 | 大阪情報
2017年1月29日(日)、茨木市 郡遺跡、倍賀(へか)遺跡の現地説明会
があり参加してきました。現地の様子を写真紹介します。

茨木市松下町の「郡遺跡、倍賀遺跡」は大阪府文化財センターが2016年6月より
発掘調査が進められ2017年2月末で終了する予定になっています。


発掘調査の範囲は上記図面のとおり全部で16,500㎡で北より1区から6区に
区分して調査されています。今回の現地説明会は5区と6区が対象で東西100m
南北60m弱の6,000㎡が対象でした。






上の3枚の写真は今回の現説現場と付近の地図。
パナソニックの工場跡でヤマトグループ関西圏最大の総合物流ターミナル
「関西ゲートウェイ」の着工に伴い実施された発掘調査です。

パナソニックの「テレビ事業発祥の地」跡地でプラズマ方式のテレビの生産が
行われていました。




上の3枚の写真は現地説明会の会場を外側(南西側)から撮ったもの
当日、現地に11時50分頃到着 12時30分からということで近隣の
春日神社と中央図書館内の富士正晴の記念館を見学後現説会場に入場。

私が入場した時には上の写真のように大勢の方が並んでおられました。
主催者の発表では1,000人超えの盛況でした。


上の写真は現地説明会の案内リーフレット


上の写真は現地の遠景


上の写真は現地説明会資料ですでに埋め戻されている1区から4区の調査結果
も含まれています。
黄色い部分が今回の現地説明会の範囲。


同じく現説の配布資料からですが今回のハイライト事項が説明記載されています。

1.人形土製品



上の2枚の写真は現地説明会の資料の説明と当日撮った現物写真

2.方形周溝墓98の墓壙内の組み合わせ木棺の底板



上の2枚の写真は1区方形周溝墓98の墓壙内の組み合わせ木棺の底板と人の歯と骨
人の歯とあごの骨の周りには朱が塗られていた

3.方形周溝墓99の墓壙の碧玉製の管玉


上の写真は方形周溝墓99の墓壙の碧玉製の管玉(3点) 弥生時代中期
長さ0.8cm、大阪府域で2例目で周辺地域を含めても3例目


次にラジコンのヘリコプターを使用した空撮写真を添付しておきます。
1区


2区


3区


4区


5区


6区


次に現地の写真を添付します。

上の写真は見学中の人々






上の3枚の写真は弥生中期の土器



上の2枚の写真は弥生後期の土器



上の写真は5区での最大規模の方形周溝墓101 18m×10m


上の写真は集落域と墓域を区切る溝
この溝と方形周溝墓の周溝からは80箱にも及ぶ多量の土器が発掘されている。


上の写真は人形土製品が出土の方形周溝墓30




上の写真は平安時代の井戸


上の写真は方形周溝墓内の墓壙

次に3大ハイライト以外の展示品やトピックスを述べます

上の写真は方形周溝墓内から見つかった石器






上の3枚の写真は石包丁 人形土製品と同じ溝からは長さ29.4cmの石包丁が





上の写真は集落と墓域を区切る大溝(幅2.5m 深さ1m)及び周溝から出土の
大量の土器




上の写真は平安時代中期から後期(約1,000~800年前)の遺構面と出土品



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郡遺跡・倍賀(へか)遺跡で大規模な方形周溝墓が発掘

2017年01月27日 08時49分47秒 | 大阪情報
弥生の墓140基発見=国内有数、人形も出土―大阪


上の写真は郡(こおり)遺跡・倍賀(へか)遺跡の位置を示しました。

大阪府茨木市の郡(こおり)遺跡と、隣接する倍賀(へか)遺跡で人を
かたどった弥生時代中期の人形(ひとがた)土製品(高さ6cm)や、
140基の方形周溝墓が見つかり、大阪府文化財センターが2017年1月26日に
発表した。昨年6月から工場跡地の約1万6500平方メートルを調査。
方形周溝墓群のすぐ東では22棟分の竪穴建物跡が見つかり、集落に墓域が
隣接していたことも分かった。近畿地方では滋賀県守山市の服部遺跡で
方形周溝墓360基以上が見つかっているが、今回はそれに次ぐ多さという。
最大の墓は長辺18メートル、短辺12メートル。別の墓からは碧玉製の
管玉(くだたま)3点が出土した。また、組み合わせ式木棺の底板が残って
いた墓もあり、人の歯も見つかった。
 現地説明会は1月29日午後0時半~午後3時。

年代は弥生中期

最近は佐倉市の国立歴史民俗博物館が2003年頃から提唱されている説で
500年くらい古い年代から弥生時代が始るということも言われています。
ここでは下記のように前期、中期、後期の年代を規定します。
また縄文晩期を弥生時代に入れるという説もあります。
  前期 2400年前~2200年前

  中期 2200年前~2000年前

  後期 2000年前~1700年前


郡遺跡は昭和29年(1954)郡神社内から弥生式土器が見つかったことから
スタートし10年後の名神高速道の建設時には同志社大学が発掘調査を実施。
さらに昭和48年(1973)20,000㎡の調査、その後も新しい施設ができる
たびに発掘調査され弥生時代、古墳時代、飛鳥、奈良、平安、近世の複合遺跡
である。

この地域に弥生時代に大規模な集落跡があったことが確認されています。

倍賀(へか)遺跡は平成4年(1992)に大規模な発掘調査が実施され弥生時代
中期の方形周溝墓や古墳時代の形象埴輪などが確認されています。


上の写真は神戸市東灘区北青木遺跡の方形周溝墓出土状況
 調査期間:2011年4月1日-2012年3月31日
弥生時代中期及び後期の方形周溝墓と円形周溝墓が出土

方形周溝墓に関する関連ブログ:
  神戸市埋蔵文化財センター夏季企画展「こうべ発掘ニュース 最新号」 on 2016-7-23

  神戸市埋蔵文化財センター 平成28年度春季企画展 見学録 on 2016-4-17

  神戸市埋蔵文化財センター2015年春の企画展「弥生時代のムラ・古墳時代のムラ」
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天ぷら新宿つな八 あべのハルカスダイニング店でのランチ on 2016-10-7

2016年11月11日 04時36分28秒 | 大阪情報
2016年10月7日、天ぷら新宿つな八 あべのハルカスダイニング店で
いただいた天ぷら定食 海老と野菜の昼膳を写真紹介します。

天ぷら新宿つな八 あべのハルカスダイニング店の基本情報

住所:大阪市阿倍野区阿倍野筋1丁目1−43
       あべのハルカス近鉄本館タワー館 13F
TEL:06-6625-2247
営業時間:11:00~23:00
公式HP: http://www.tunahachi.co.jp/





上の2枚の写真が海老と野菜の昼膳1,512円(税込)です。

天ぷらは海老三尾、魚介、野菜三品です

今までブログに書いていないあべのハルカスからの眺望写真を添付しておきます

上の写真はあべのハルカスの展望階から観た大阪城方面の遠景です


上の写真は同じくあべのハルカスの展望階から観た四天王寺

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