CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その4 刀工備州祐高造之宅跡

2019年11月19日 04時05分12秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第4回で刀工備州祐高造之宅跡について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

第3回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡

 

上の写真は「刀工備州祐高造之宅跡」と書かれた木製の碑。

側面の説明文には「京都の五番鍛冶として御所御用鍛冶となった。横山祐定の弟子となる。」

と書かれています。

横山上野大掾祐定は、七兵衛尉祐定の子で、万治(1658-1660)から正徳(1711-1716)

頃にかけて作品がみられる新刀期の備前鍛冶を代表する刀工の一人だそうです。


上の写真はもう一つの側面の説明で「鉄砲の銘「備前長船住横山杢左衛門祐高」刀鍛冶との

兼業 弟子は二、三十人を教えたという。

又鉄砲鍛冶と京都から帰った祐高は東片上木場で作刀に励む。」

 

関連サイト:

  https://mapio.net/pic/p-85317763/

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡

2019年11月18日 04時59分36秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第3回で往還名主跡について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

上の写真は往還名主跡(木屋岡島氏)と書かれた碑

側面には説明として「山陽道の宿場であって大名が宿泊する本陣、脇本陣、三の陣等が

あって人の出入りが極めて頻繁で馬継所が設営されていた」と書かれています。

陸路海路の駅長と警察の職務を担っていた当地の名主の木屋岡島氏の館があった場所。

 

 

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

2019年10月29日 06時12分36秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第2回で潮光山 正覚寺について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

 

光山 正覚寺の基本情報

住所:岡山県備前市西片上86  TEL:086-964-2358

宗派:浄土真宗 本願寺派 山号:潮光山 

上の写真は潮光山正覚寺の本堂と鐘楼

正覚寺の由緒や御本尊などの詳細情報は調査できず備前市役所で入手した「片上史跡めぐり」

のリーフレットに記載の以下の文のみを記載しておきます。

清十郎との悲恋の後、姫路からやってきたお夏を当時の住職法円師が変換還俗させた

上の写真は境内の親鸞聖人の銅像などの展示

上の写真は境内に設置の即如門主ご巡教記念に建てられた石碑

上の写真は山門

山門前の灯篭(常夜燈)には元文3年(1738)の銘が入っています。

 

神戸事件と正覚寺

神戸事件(慶応4年(1868)1月11日)で備前藩の指揮を執っていた日置帯刀以下

兵士約500名が1月5日~1月7日 片上宿滞留の記録(「日置家記写」)があります。

このことから正覚寺にも多くの隊員が逗留したと推定されます。

以下神戸事件について記しておきます。

備前藩士の一行(約500名の隊列)は3門の大砲をもって神戸の三宮神社付近を
通行中に下記に詳述の神戸事件が起きた。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えも
あったが、備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。

伊東博文が解決のための折衝役として動いたが決裂に終わり。(以下Wikipediaより引用)

1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、

東久世通禧を代表として交渉を開始した。 諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と

当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。
この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、

日本側としては滝善三郎の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでも

あったが、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた

伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票

の前に否決される。 結局、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、

2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝善三郎を切腹させるのと同時に

備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。

神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。

瀧善三郎正信は備前藩士で500名の備前の警備隊の第三砲隊長であった。
神戸事件の概要(三宮神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。

神戸開港早々の慶応4年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山
備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の
乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って
相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える
騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを
初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。
結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して
問題は解決した。

滝善三郎正信の顕彰碑は神戸市兵庫区の能福寺にあります

能福寺の顕彰碑に関して下記のブログで書いています。

 瀧善三郎正信の顕彰碑


日置家記写、自裁之記をもとに「神戸事件と岡山藩」という題で詳細に記述されている

サイトにリンクさせていただきます。

 http://www.yomimonoya.com/koube/mitisuzi/mitisuzi04.html

このサイトで片上宿に宿泊していた瀧善三郎は、命じられて一度岡山にもどり、大砲の

用意をしている。再度往復したのだろう。壮健な青年だったと思われる。との記述あり。


 

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

2019年10月04日 17時30分36秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第1回で宇佐八幡宮について写真紹介します。

岡山県備前市の宇佐八幡宮の基本情報

住所:備前市西片上1  TEL:0869-64-3723

御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

創建:建武3年(1336) 南朝年号では延元元年

公式サイト:https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/17857/ (岡山神社庁)

 Goo地図はこちら

  

上の写真は宇佐八幡宮の最大の見ものである備前焼の狛犬

鳥居横の「宇佐八幡宮備前焼狛犬」は備前市指定文化財で胴回り約2.5m高さ1.4mの

大きさで文政9年(1826)の刻銘がある。備前焼としては県下有数の大きさである。

備前釜元・森五兵衛正統、服部章兵尚芳の作

上の写真は宇佐八幡宮の備前焼狛犬の現地説明板。

上の写真は宇佐八幡宮の遠景

元禄3年(1690)に書かれた「小国氏先祖書」によれば建武3年(1336)筑紫へ下向する途中、

足利尊氏は備前福岡へ逗留した。当時潟神(片上)に住んでいた小国氏は、軍旅の門出のご祝儀

ちして生栗を献上し、筑紫まで供をして筑前多々良浜で戦った。しかし、旗色が悪かったので

小国氏が豊前の宇佐八幡宮に参詣し、戦勝祈願をしたところ、たちまち戦運が開け、尊氏は

九州制覇を成し遂げた。その旨を小国氏が尊氏に申し上げると同年尊氏は宇佐八幡宮の社家

のうち松永氏を招へいして、八幡宮を潟神村(現備前市片上)の富田松山に祀ることとした。

さらに足利尊氏が神田50余町歩を寄進した。

その後、応永元年(1394)に和鹿林の山頂(若林山)に遷座し、更に正保3年(1646)

現在地に遷座された。

寛永11年(1634)から明治維新(1868)まで毎年8石9斗9合の寄進を受け10万石の

格式が与えられていた。

上の2枚の写真は旧山陽道「片上宿(方上津)」の碑

藤井宿と三石宿への距離の目安が記載されています。「津」は港であったことを示す。

 

 

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岡山城訪問記(金箔が彩る宇喜多秀家の烏城) on 2019-4-5

2019年09月01日 04時48分24秒 | 旅行記

2019年4月5日、岡山城を訪問した時の写真を紹介します。

 

岡山城の基本情報

住所:岡山市北区丸の内2丁目3−1

建立時期:慶長2年(1597)

別名:烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)

岡山城の公式サイト:https://okayama-kanko.net/ujo/index.html

 

天守閣

 

上の写真は岡山城の入口付近からの遠景

戦国時代に、備前東部の邑久郡から興った宇喜多直家が岡山の地・石山にあった岡山城の前身

にあたる城砦に入城したのは天正元年(1573)の秋であった。

石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小さな城にすぎなかったが宇喜多直家が金光宗高を

謀殺しこの地を支配した。直家はこの城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄

の基礎をつくった。直家の子の宇喜多秀家は天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東

「岡山」に本丸を移し石山城を取り込む形で城郭が建造された。その後小早川氏、池田氏により

整備、拡張が行われた。 明治2年(1869)の版籍奉還により藩主の池田章政は岡山藩知事に

明治6年(1873)の廃城令により順次建物の取り壊しや堀の埋め立てが実施され、明治15年

(1882)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。明治23年

(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896)

には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられる

のは本丸を残すのみとなり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えた。

昭和20年(1945)に岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなった。

本丸跡の学校は昭和29年(1954)に移転し烏城公園として整備され、昭和41年(1966)に

天守閣が復元され観光施設ともなっています。昭和62年(1987)に史跡に指定されてからは、

歴史に視点を置いた整備が求められるようになり、平成4年度から本丸跡中の段で発掘調査

コンクリート建物の撤去、石垣の解体修理、江戸時代末期の建物の表示、築城期の石垣の露出展示

などが行われています。発掘調査や復元事業は本段や下の段にも実施整備されてきています。

岡山城の地図

上の写真は現地説明板の地図 

岡山城の古写真

 

上の写真は岡山城の古写真(明治初年(1968))と説明板 岡山城天守の展示より

 

廊下門

 上の写真は廊下門 上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路として

使われたためこう呼ばれた。昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートで再建された。

月見櫓

上の写真は月見櫓

宇喜多秀家時代の石垣

上の写真は宇喜多秀家時代の石垣展示

 

表書院跡

 

 

上の3枚の写真は表書院跡と現地説明板

不明門

 

上の2枚の写真は不明門(復元)と現地説明板

 

天守より後楽園を臨む

 

宇喜多秀家

Wikipediaによる宇喜田秀家(1572~1655)の解説。
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。
豊臣政権下の五大老の一人。通称は「備前宰相」。
大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山57万4,000石の大名。
八丈島で83歳の天寿をまっとうしたようです。

宇喜田秀家公の墓所は
東京都八丈町大賀郷の稲場墓地
丹船山薬王樹院東光寺(東京都板橋区)

お舟入りと御座船の展示パネル

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蛭田二郎先生作の彫刻作品「ももたろう」 on 2019-4-5

2019年08月07日 05時26分11秒 | 旅行記

2019年4月5日、岡山城と後楽園をメインの訪問場所として出かけていました。

その途中で蛭田二郎先生作の彫刻作品「ももたろう」を見つけましたので写真紹介します。

上の写真は岡山駅前(ビックカメラ前)の彫刻「ももたろう」です。

 

岡山城に寄る途中のしろちか(城下地下広場)の噴水にある女性の彫刻も

蛭田二郎先生が制作されたそうです。(下の写真)

噴水設備の色彩豊かな光景に目を奪われてしまいました。

 

蛭田二郎先生は、岡山大学や倉敷芸術大学で教授としても活躍されていたそうです。

 

参考サイト:

  http://www.okayama-news.info/momotaroodori.html

 

 上記サイトによれば市電の走る通りは「桃太郎大通り」と呼ばれており桃太郎の像以外に

 お供の動物(イヌ、サル、キジ)の像も展示されています。

 https://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/eaae400f130673ba0e6e68966be81d42


田原本町の桃太郎伝説

奈良県の田原本町には桃太郎生誕したという伝説が残っていますのでその関連の写真を

添付しておきます。(下の2枚の写真 撮影:2018-11-25)

桃太郎生誕の地とされる法楽寺=田原本町黒田には残念ながら訪問できませんでした。

田原本町の散策記は下記のとおり。

  奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その10(最終回) 唐古・鍵考古学ミュージアム

『日本書紀』の崇神記によると、四道将軍の一人彦五十扶芹彦命(吉備津彦)は、朝廷から

遣わされて西海を平らげ、その後、出雲振根を誅したと言われています。

また、『古事記』の孝霊記では、弟の若日子建命(ワカヒコタケノミコト)と共に鬼が

住んでいた吉備(今の岡山県)を平定したと伝えられています。

後世の桃太郎の話は、その吉備津彦をモデルにして成立したと考えられます。

・・・・・・以下省略・・・・・・・


田原本町が桃太郎生誕の地とする根拠は桃太郎のモデルである吉備津彦命が田原本町黒田の

地に廬戸宮(いほどのみや)を営んだ第7代孝霊(こうれい)天皇の皇子であること及び

その地が桃の生産地であったことによるそうです。


桃太郎ゆかりの地は全国にあるが、「桃太郎サミット」や「日本桃太郎会連合会」に参加する

自治体は、上記の田原本町の他に「岡山県岡山市・総社市」「香川県高松市」「愛知県犬山市」

 

 

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JR西日本 日生駅、駅前公園の与謝野晶子の歌碑

2019年02月09日 04時35分40秒 | 旅行記
2019年1月20日から1泊2日で赤穂に来ていました。その時に寄った
JR西日本日生駅の前にある駅前公園で与謝野晶子の歌碑を見つけましたので
写真紹介します。


上の写真は歌碑の全景です。


上の写真は歌碑の歌の部分で国立公園ひなせ諸島のあとに
「妻恋ひの 鹿海こゆる話聞き それかと見れば 沖の鶴島」と書かれています。


上の写真は歌碑の説明書きです。
「与謝野晶子先生之歌碑
  昭和8年6月、与謝野鉄幹・晶子御夫妻は、正宗敦夫氏らと共に、日生諸島での
  舟遊びに興じ、その美しい景観に心をうたれ、心情を数首の歌に託された。
  書は与謝野晶子先生の御令孫、与謝野馨(衆議院科学技術委員長)によるものである。
        平成二年五月吉日  日生町」


与謝野晶子についてWikipediaより引用紹介します。

与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 -
1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の
「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。

鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・
甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女
として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から
疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)
に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、
「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、
露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、
1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の
関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)
を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人
出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で
始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに
行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の
序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を
開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた
(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が
組まれた[5]。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスの
マルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、
ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著
『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、
女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともに
お茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を
成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の
職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらって
いたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、
残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動と
エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。
同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。
戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。


与謝野晶子の生家跡が堺市にあり訪問記を書いていますのでリンクしておきます。

堺散策 その8 与謝野晶子生家跡


  
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備前岡山 日生名物 カキオコのランチ on 2019-1-20

2019年02月06日 15時01分18秒 | 旅行記
2019年1月20日から1泊2日で赤穂に出かけていました。出発当日、赤穂から少し
足を延ばして日生まで行き名物のカキオコのランチを頂いてきましたので写真紹介します。

行った店は当初「もりした」を予定していたのですが、満席であきらめ「オレンジハウス」
となりました。

オレンジハウスの基本情報
住所:岡山県備前市日生町日生241−103 TEL:0869-72-0914
営業時間:11:00~22:00  定休日:木曜日


びぜん♥あそぼのサイトで紹介されているオレンジハウスの紹介

Goo地図を添付しておきます。





上の2枚の写真は当日いただいたカキオコ(900円)と生ビール(600円)


上の写真はメニュー表

当日は食べていませんが日生カキオコまちづくりの会が作成したリーフレットでは
「すだち焼きそば」がお薦めの一品になっています。

日生カキオコまちづくりの会のサイトには日生のカキオコの名店、15店が地図とともに
紹介されています。

カキオコは通年食べられるようです。
11月~4月は日生産生牡蠣で5月~10月は冷凍牡蠣になります。


上の写真はお店の外観です。


上の写真は観光案内所での記念撮影
カキオで私の顔が写っています。


上の写真は日生港の風景
みなとの見える丘公園(楯超山)に描かれた「ひなせ」の文字が目をひきます。


上の写真も日生港の光景
遠くに平成27年(2015)4月26日に開通した備前♡日生大橋が目を引きます。



上の写真は日生駅周辺の観光地図


上の写真は牡蠣養殖の1年の作業内容が書かれた説明図
駅前の観光案内所で掲示されていたものです。



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大垣名物 水まんじゅう in 金蝶園総本家 郭町店 on 2015-8-27

2015年08月31日 16時55分56秒 | 旅行記
2015年8月27日、青春18切符を利用して関ヶ原と大垣市を散策してきました。

本日は大垣市の名物「水まんじゅう」を写真紹介します。




大垣は良質な地下水が豊富な事から、水の都と言われています。この名水に
よって明治時代の初めに生まれたのが、大垣名物「水まんじゅう」です。

上の写真は名水「大手いこ井の泉」にあった垂れ幕でここで発祥したとの
表示です。


上の写真は大垣の老舗和菓子店の金蝶園総本家 郭町店でいただいた
「水まんじゅう」です。

夏にピッタリの和菓子です。1個120円です。

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第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡 現在志貴御県坐神社 訪問記 on 2013-7-20

2015年08月06日 08時12分28秒 | 旅行記
本日は2013年7月20日に訪問した第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡 
現在の志貴御県坐神社について写真紹介します。

志貴御県坐神社は元伊勢神社の一つで日本書紀巻第五 崇神天皇の記述に
春日から磯城(しき)に都を移したとあります。


 志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社の基本情報

住所:桜井市金屋896  金屋の石仏から北西200m 
               神社西側には天理教敷島大教会
御祭神:大己貴神(おおなむちのみこと)
 別名
  大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
  大国主神:おおくにぬしのかみ
  大物主命:おおものぬしのみこと
  八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
  葦原色許男神/葦原醜男神:あしわらしこをのかみ
  顕国玉神/宇都志国玉神:うつしくにたまのかみ
  国作大己貴命:くにつくりのおおあなむちのみこと
  所造天下大神:あめのしたつくらししおおかみ
  所造天下大穴持命:あめのしたつくらししおおなもちのみこと

 志貴連の祖神である天津饒速日命(あまつにぎはやひ)とする説など諸説あり

例祭:  9月17日
創建:不詳であるが天平2年(730)の正倉院文書の大倭国正税帳に
  「志貴御県神戸・・・」との記載があり、遅くとも8世紀初頭には存在








現存する志貴御県坐神社は三輪山を背後に背負い、海柘榴市や仏教伝来地に近く、
大和平野やを見渡せる高台にあります。

現地案内板には下記のように書かれています。

「第十代、崇神天皇の皇居跡と伝えられています。
神山・三輪山を背後に背負い、歌垣の伝えで名高い海柘榴市を脚下に控えて、
大和平野を見渡す高燥の地です。
東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。
南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。
北へは、山辺の道、奈良、今日を経て北陸、日本海方面へ。
西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。
古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です」


初期のヤマト政権の中心地「磯城(しき)」から志貴御県坐神社の名前と
なったことが判ります。

また、添 (そふ),山辺 (やまのべ),磯城 (しき),十市 (とおち), 高市 (たけち)
損城 (かつらぎ) の六つの県(あがた) は, 特に,六御県と称され、延喜式の式内社
として存在してきました。



上の写真は志貴御県坐神社拝殿です。
左手の献納された灯籠は明治13年、43年などの銘があり明治40年(1907)
も村社になる前からのものが残されています。


上の写真は志貴御県坐神社拝殿の側面と本殿です


上の写真は志貴御県座坐神社境内の磐境、磐座


上の写真は弁財天が祀られた摂社。



上の写真は万葉歌碑で
磯城島の 大和の国に 人二人 ありしと思はば 何か嘆かむ」と書かれています

次に実在が確かな初めての天皇、第10代崇神天皇の皇居として伝承されてきた
磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡に話題を移します。
磯城瑞籬宮の読みは「しきのみずきのみや」と濁点の読みをしない文章が多い。




上の写真は第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡の看板と石碑。
石碑は大正4年(1915)11月に設置されたものです。

日本書紀 巻第五 崇神天皇の項に下記の記述があります。

「御間城入彦五十瓊殖天皇 稚日本根子彦大日日天皇第二子也 母曰伊香色謎命 
物部氏遠祖大綜麻杵之女也 天皇年十九歳 立爲皇太子 識性聰敏 幼好雄略 
既壯寛博謹愼 崇重祗 恆有經綸天業之心焉 六十年夏四月 
稚日本根子彦大日日天皇崩  ・・・・中略・・・・・

三年秋九月 遷都於磯城 是謂瑞籬宮」


現代語訳は下記のとおり
「御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の
第二子なり。母を伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰す。
物部氏の遠祖、大綜麻杵の女なり。
天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子と爲る。識性、聰敏し。幼くして、
雄略(大きな謀ごと)を好む。既に、壯にして寛博く謹愼みて、祇を崇て重む。
恆に、天業を經綸めむの心有します。
六十年の夏、四月に稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)崩る。
・・・・中略・・・・

三年秋九月(BC95.09)都を磯城(しき)に遷す。
     是れを瑞籬宮(みずがきのみや)と謂ふ。」


日本書紀の巻第一と第二は「神代」の話

巻第三では神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)
  すなわち神武天皇(第1代天皇)の東征

巻第四では 第2代の綏靖(すいぜい)天皇、第3代の安寧(あんねい)天皇、
  第4代懿徳(いとく)天皇、第5代孝昭(こうしょう)天皇、
  第6代孝安(こうあん)天皇、第7代孝霊(こうれい)天皇
  第8代孝元(こうげん)天皇、第9代開花(かいか)天皇

 8人の天皇について、天皇在世中の名である諱(いみな)、
 没後に葬られた名の諡(おくりな)、宮居、母の名、后妃の名、子の名
 御陵などが記載されています。

 これら8人の天皇はさまざまな点から非実在と考えるのが定説で「欠史八代」
 と呼ばれています。
 8人の御陵が葛城に集中しており葛城王朝と呼ばれている。

一方、日本書紀 巻第五にでてくる第10代崇神天皇は3世紀から4世紀初め
にかけて実在した大王でヤマト政権の大王の始祖であると考えられています。
日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物
であるとする説が有力である

邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好は
「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という説を
展開されています。

いずれにせよ、崇神天皇は大物主大神を祀り、天下平穏を願い疫病治癒の祈祷
全国を支配するために「四道将軍」を派遣し従わないものは討伐、また財政面でも
力を注ぎ戸口調査を行い税を課した。また農業も奨励し広めた。

国のまほろばを築いた天皇としてあがめられています。




上の写真は氏姓制度とヤマトの語族の分布をまとめたものです。
 出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32
大王墓は前期の大型古墳が集中していた大和・柳本古墳群にあると考えられています。


崇神天皇の陵(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵
(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定
考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。

柳本行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、
その真陵とする説(考え方)もある


上の写真は近畿の大型古墳の変遷
 出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32






















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