CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

徳島県鳴門市のハート形をした無人島「鏡島」

2021年11月12日 04時33分11秒 | バーチャル探訪

昨日(2021-11-11)テレビ6chのワイドスクランブルで徳島県鳴門市にある

無人島の「鏡島」がドロ-ン撮影によりハート形であることが判明したとの報道を

視聴しました。ドローンによる撮影は地元の写真家の小川直樹さん。

 

上の写真が青い海にぽっかりと浮かぶハート形の島。徳島県鳴門市のウチノ海にある無人島

「鏡島」です。  地元の写真家・小川直樹さんがドローンを使い、撮影しました。

地元の人達もこれまで知られていませんでした。

今後、観光資源としての活用が期待されています。

上の写真は鏡島の大体の位置を示したものです。出所:Google地図

 

ニュースの内容は下に添付のYoutube の通りです。(Gooで共有)

“ハート形”島撮影 地元民も知らず・・・観光資源に?(2021年11月11日)

 

HEART ISLAND KAGAMISHIMA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK BS3番組(新日本紀行 幸福への旅 ~帯広~)で紹介された幸福駅

2021年10月10日 04時16分34秒 | バーチャル探訪

2021年10月7日Pm2:40~3:18に表題の番組が再放送(昭和48年に放送の番組)され

視聴した。この番組の写真を利用して幸福駅の過去と現在を探る

バーチャル旅行に誘いたいと思います。

 

幸福駅は北海道の国鉄広尾線、帯広駅から5駅目の駅で昭和48年(1973)、NHKの表題番組で

紹介されると、縁起の良い駅名から一大観光ブームとなりました。昭和62年(1987)2月2日

に広尾線が廃線となった後も駅は観光施設として残り、多くの人々が訪れています。

「幸福交通公園」として帯広市が管理、幸福地区観光再開発協議会が帯広市から管理を受託

過去

上の写真は雪で覆われた幸福駅と番組の表題「幸福への旅~帯広~」

 

番組ではまず昭和48年(1973)頃の東京(上の写真)と上野駅で幸福駅行きの切符

を購入する場面から始まります。

 

上の写真は雪景色の中、走る国鉄広尾線の列車

幸福駅は昭和31年(1956)8月26日?- 国有鉄道広尾線の幸福仮乗降場(局設定)として開業
同年11月1日 - 駅に昇格。幸福駅となる。旅客のみ取扱い。

昭和62年(1987)2月2日国鉄広尾線の廃線に伴い廃駅。

 

現在

上の写真は2018年10月に撮影された幸福交通公園の遠景

レール上にはキハ22形キハ22 221、キハ22 238の2両の気動車とモーターカー1両が

静態保存・展示されている

上の4枚の写真も同じく2018年10月に撮影された幸福駅の駅舎付近

幸福駅のシンボルです。鉄道駅時代は待合室として利用されていました。

 

幸福駅の公式サイト

 幸福駅発|北海道帯広市・幸福駅公式ホームページ | Just another WordPress weblog (koufuku-eki.com)

 

幸福町の歴史

1897年に福井県からの集団入植が行われる前の幸福町周辺は、アイヌ民族により

「サツナイ」と呼ばれる地域でした。尚、サツナイとは「乾いた川」を意味し、

近隣を流れる札内川を指します。

福井県から入植者は52軒約240人でした。入植者の平均所有耕地は約20haであった。

約120年の歴史で約半分の25軒となったが耕地面積は47ha、新しい時代の大規模農業で

安定したものにしようと、明日を目指して頑張っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本最東端の島「南鳥島」と南鳥島に上陸し日本の領土とした水谷新六

2021年09月25日 06時33分36秒 | バーチャル探訪

2021年6月14日9:00~10:39にNHK BSプレミアム プレミアムカフェで放送の

「池内博之の漂流アドベンチャー3 明治冒険野郎 幻の宝島を求めて(2018年)」を

視聴しました。

番組で紹介された南鳥島に関する写真を利用して南鳥島をバーチャル訪問します。

特記していない写真は全て上述の番組からの引用です。

上の写真は南鳥島の大体の位置を示したものです。

位置は北緯24度17分12秒、 東経153度59分50秒

出典:今がわかる時代がわかる2005年度 世界地図 成美堂出版(2006)Page174-175

上の写真は桃色で日本単独の排他的経済水域(EEZ)薄いピンクは韓国との共同開発水域 

又は 日本の排他的経済水域のうち周辺国による主張と重複する水域

東端で少し離れた小さい円が南鳥島周辺のEEZ 43万㎢の面積があります。

上の写真は南鳥島の航空写真です。下側が北です。

表記していませんが三角形の各頂点には名前がつけられており下側が黒井崎(北の鼻)、

上側右が笠置崎(海賊船)、上側左が坂本崎です。

番組ではサンゴ礁が隆起してできたとの説明があった。

三角形の形状の島で1辺は約2Kmの非常に小さな島である。

上の写真は南鳥島の夕景

上の写真は日本で一番早い日の出風景

上の写真はセグロアジサシ

上の写真はサンゴで覆われた浜辺を散策する俳優の池内博之さん

上の写真はサンゴの拡大写真

上の写真はヤシが生い茂る歩道を歩く俳優の池内博之さん

 

ここでWikipediaより南鳥島の解説文と歴史について引用させていただきます。

南鳥島は、小笠原諸島の島。本州から1,800Km離れた日本の最東端として知られている。行政上は東京都小笠原村に属する。現在は一般住民はいないが海上自衛隊、気象庁、国土交通省・関東地方整備局の人員が常駐している。

日本国の島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。マーカス島、マルカス島(Marcus Island)とも呼ばれる。本島とトゥイシ(注1)の間が、日本国の施政権の及ぶ領土間で最長の大圏距離を取ることができる地点である(約3,139Km)。

注1:与那国島の附属岩。与那国島西崎との距離のほうがわずかに短いが、こちらとの距離も約3,139kmである。

1543年、スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる。1864年、ハワイのミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認。記録が確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカの測量船「Tuscarora」が、フランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置を測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師がマーカス島と命名した。1889年、アメリカ商船「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。

1885年、イギリス帆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した。また、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという。他に、静岡県の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している。

1896年(明治29年)12月3日に水谷新六が南鳥島を発見し、水谷は島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入。東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。

上の写真はアホウドリの捕獲の風景(大沼商店発行)

アホウドリの羽は羽毛布団の原材料として欧州で人気で高値で売れた。

外貨の貴重な収入源であった。今となっては鳥獣保護の面でひどい話ではあるが・・・

上の写真は水谷新六が明治政府に提出した島嶼発見御届

明治30年(1897)に提出されています。

尖閣諸島の魚釣島の開発で知られる古賀辰四郎氏もアホウドリの捕獲を手掛けた人の一人です。

詳細は下記サイト

 古賀辰四郎氏による尖閣諸島の開拓(1884年~) | 情報ライブラリ | 笹川平和財団| 島嶼資料センター- THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION (spf.org)

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知した大日本帝国も軍艦笠置を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。
この事件の際、軍艦「高千穂」に同乗していた地質調査所の技師が南鳥島の土を採取・分析。リン酸分が30%程度であったことから、南鳥島が燐鉱の国内産地として注目される。
1903年(明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。3月に府より許可が降りる。これにより鳥糞石(グアノ)の採掘が本格化する。
最盛期には年間1,000トンのグアノを採掘。島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設されたトロッコによって運搬されて貨物船で出荷された。主な出荷先は東京の「全国肥料取次所」であった。グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた。大正初期の生産高は年間600トンであった。
この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島合資会社」に移転。
1922年(大正11年)- グアノ事業の権利が全国肥料株式会社に移転する。
グアノ採掘はその後も続いたが、不況によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。会社及び労働者は南鳥島から撤退した。
昭和初期 - 漁業を営む数世帯が暮らしていたという。

南鳥島の歴史(続き)

以下もWikipediaからの引用です。
1933年(昭和8年) - 全島民が撤収し、無人島になる。
1935年(昭和10年) - 大日本帝国海軍が気象観測所を開設する。
1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ウィリアム・ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受ける(日本本土への初空襲は同年4月のドーリットル空襲)。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1945年(昭和20年) - 連合国軍の一国であるアメリカ軍によって占領される。
1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍総司令部がSCAPIN-677を指令し、日本の南鳥島への施政権が停止される。
1947年(昭和22年) - 台風発生に伴う高潮で被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる。
1951年(昭和26年) - 日本の気象庁がアメリカ合衆国連邦政府の委託を受け、南鳥島で気象観測業務を始める。
1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカの施政権下に入る。
1963年(昭和38年) - 南鳥島ロランC局が完成する。これを受け、南鳥島にアメリカ沿岸警備隊が駐留し、日本の気象庁職員は撤収する。
1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。
1993年(平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収し、海上保安庁が管理を引き継ぐ。
2002年(平成14年)12月10日 - 国土地理院により電子基準点が設置され、日本最東端の点となる
2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。
2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定
2009年(平成21年)12月1日 - 南鳥島ロランC局(LORAN自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。
2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。
2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。
2012年(平成24年)6月28日 - 東京大学研究チームにより、南鳥島付近の海底でレアアースが発見される。翌年3月、鉱床の一部が高濃度であることが発見される。

 

ここからは明治29年(1896)12月3日に幻の宝島を求めて航海して偶然、南鳥島を発見

した水谷新六について話を進めていきます。

上の写真は大正4年(1915)刊、「日本少年」10(13)「無人島に二十三日間漂流」に

掲載の水谷新六の写真

 

水谷 新六は嘉永元年3月3日(新暦換算1850年4月14日)川上松蔵の次男として三重県桑名市に

生まれた。その後水谷家に養子に出され水谷姓となる。根っからの冒険好きの探検家であり、

実業家である。明治初年(1868)に東京に出て呉服屋で働き始め明治16年(1883)に

小笠原の父島に渡り雑貨商を営んだ。その後「金十字社」という会社を興しサイパン島、

トラック諸島、ポナペ島などのミクロネシアの島々との貿易を開始したと言われ、

グランパス島の探検を繰り返す中で明治29年(1896)12月3日に水谷新六が南鳥島を発見。

島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。明治30年(1897)、水谷は島嶼発見届を提出し、

島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入(板垣退助が署名)、

東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で

争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。

水谷新六はアホウドリの羽毛の販売やグアノ(鳥の糞)の販売を手がけました。

鳥島のアホウドリ捕獲では玉置半右衛門がこれにより巨利を得たことで有名。

明治29年(1896)12月28日、小笠原母島から労働者23名を移住させ上記事業を開始しました。

明治30年(1897)6月15日、水谷は八丈島、小笠原から雇い入れた労働者を乗せて南鳥島に

到着した。労働者を下船させた後、採取していたアホウドリの羽毛を積み込んで6月30日に

出航したところ、船は岩礁に激突して大破し沈没してしまった。水谷ら乗組員は辛うじて

船に備え付けられていた伝馬船に乗り移り、島まで漕ぎつけて一命は取りとめた。

その後、救助を求めるために伝馬船(長さ6.7m、幅1.5m、深さ0.55m)で小笠原に向けて出航。

まず伝馬船を修理補強した上で帆を張り、明治30年7月10日朝、水谷ら4名はビスケット、

干し肉、干魚、飲料水、雨水を貯める樽、そして旧式のクロノメーターを伝馬船に

積み込んで出航した天候の悪化により小笠原には到着できず漂流することになります。

南鳥島から勝浦まで約1800キロメートルの伝馬船で約40日間、航行する結果となる。

後の水谷の証言によれば食料が尽き木綿製のシャツまで食べたという。

上の2枚の写真は大正5年(1916)「日本少年」11(1)『死を決して太平洋をボートで乗切る』実業之日本社

この伝馬船での約1800キロメートルの航行は快挙として各新聞に取り上げられた。

水谷新六はその後もアホウドリなどの資源を追って、沖大東島、東沙諸島、北西ハワイ諸島へと

その活躍の場を広げた。第一次世界大戦時は、南洋群島の占領を目指す日本海軍の水先案内人を務めた。

晩年はよく判っていないが死没時期は大正10年(1921)以降とされる。

上の2枚の写真は島民の墓所です。明治43年(1910)7月23日に建てられたとの銘がある。

また太平洋戦争での戦没者を慰霊するための忠魂碑も建っています。

上の2枚の写真は太平洋戦争の残骸

 

最後に俳優の池内博之さん一行を温かく迎えてくれた南鳥島で働いている人達との

別れの場面の写真を添付して筆を置きます・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャイコフスキーの墓と葬儀の模様 in アレキサンドルネフスキー墓地

2021年09月14日 04時57分18秒 | バーチャル探訪

2021年9月13日、NHK BSプレミアム プレミアムカフェ 選 「サンクトペテルブルク

音楽の都300年の物語」を視聴しました。

この中で表題の「チャイコフスキーの墓 in アレキサンドルネフスキー墓地」が

紹介されていました。番組の映像を利用してチャイコフスキーの墓を紹介します。

上の3枚の写真がアレキサンドルネフスキー墓地内のチャイコフスキーの墓

墓の綺麗な写真は下記サイトで見ることができます。

  Category:Pyotr Ilyich Tchaikovsky grave - Wikimedia Commons

Pyotr Ilyich Tchaikovsky(ローマ字表記:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)

          (露語表記: Пётр Ильич Чайковский)

チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)

イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーの次男として生まれた。

死去:1893年11月6日(53歳)サンクトペテルブルクにて死去

死の直前の状況と葬儀についてWikipedia(チャイコフスキーの死)より引用紹介します。

1893年11月6日、サンクトペテルブルクでチャイコフスキーが53歳で亡くなった。交響曲第6番の初演から9日後の出来事だった。死因には諸説あるが、一般にはコレラ、並びに併発した肺水腫が原因だとされている。チャイコフスキーの死の直後にも死因に対して様々な議論があった。

コレラの発病の原因として、チャイコフスキーが周りの反対を聞かず生水を飲んだことが理由とされている。当時のロシアにはコレラが流行しており社会に多大な影響を与えていたが、それは主に衛生設備に恵まれない下層階級の人々の病気と考えられており、様々な噂を呼んだ。治療を担当した医師のカルテの正確性も疑問視されていた。後述するように、チャイコフスキーが同性愛者だったことも様々な噂を呼ぶ原因となった。チャイコフスキーは1894年の予定を決めていたことや、自殺説には決定的な証拠がないことから、現在ではコレラで死亡したという説が一般的である。


死の当日、皇帝アレクサンドル3世がカザン大聖堂での国葬と5000ルーブルの支出を決定。11月7日(ユリウス暦10月26日)には交響曲第6番がエドゥアルド・ナープラヴニークの指揮によって再演され、大きな反響を呼んだ。

葬儀は11月9日(ユリウス暦10月28日)に行われた。六頭立ての馬車に棺が乗せられ、最初にマリインスキー劇場へ運ばれた。その葬列は聖職者、遺族、各界代表者、法律学校の学生など長いものだった。道の両側には見送るファンなどの群衆が1万人にも達していた。葬列はマリインスキー劇場を引き返しカザン大聖堂に到着し、ここで葬儀が行われた。大聖堂には本来の収容人数を超えて、8000人以上の人々が参列した。そのなかには外国外交官や報道陣、そしてたくさんのファンがいた[5]。葬儀は2日かけて行われ、それが終わるとチャイコフスキーの生前の希望で、アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフビン墓地に葬られた

上の写真はアレキサンドルネフスキー墓地 通称チフヴィン(Tikhvin)墓地

 

上の写真はチャイコフスキーの葬儀の模様 1893年11月9日-10日に実施

次にGoogleストリートビューでアレキサンドルネフスキー墓地の場所を確認しました。

住所はPloshchad’ Aleksandra Nevskogo, 1Б, Sankt-Peterburg

上の写真の右手がチフヴィン(Tikhvin)墓地、左手がラザレフ墓地、正面の奥は

アレクサンドルネフスキー修道院

上の写真はアレクサンドルネフスキー修道院

実際に行かれた方の詳しい訪問記にリンクさせていただきます。

 チャイコフスキーが眠る【チフヴィン墓地】と【ラザレフ墓地】サンクトペテルブルク (pianotohikouki.com)

 

番組ではチャイコフスキー以外に5人組と言われた作曲家の墓についても紹介されていました。

上の写真はバラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev, 1837年1月2日 - 1910年5月29日)の墓

上の写真はボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin,1833年11月12日 - 1887年2月27日)の墓

上の写真はリムスキーコルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov 1844~1908)の墓

上の写真はムソルグスキー(Modest Mussorgsky 1839~1881)の墓

 

5人組のもう1人グリンカ(Mikhail Glinka 1804~1857)の墓も番組で紹介されていましたが

写真を撮れませんでした。

写真を確認したい方は上記のサイトで確認してください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県平泉町 無量光院跡へバーチャル訪問

2021年09月01日 04時39分11秒 | バーチャル探訪

本日は岩手県平泉町にある無量光院跡をバーチャルで探訪したいと思います。

中尊寺へは訪問したことがありますが無量光院跡へは行ったことはありません。

「無量光院」(むりょうこういん)は奥州藤原氏の三代目・藤原秀衡(1122-1187)が

京都の平等院鳳凰堂を模して建立された寺院で、寺院跡に残る遺構として現在は

浄土式庭園の苑池が復元されています。

写真は特記の無いものは2021年8月31日の朝9時からNHKBSPで放送の中尊寺に関する番組によります。

上の写真は無量光院のCG像

 

上の2枚の写真は無量光院周辺の近遠景 北上川と書いてしまいましたが正しくは北上川の支流

藤原三代の栄華を感じることが出来る復原図です。

上の写真は背後に金鶏山を配した無量光院 CG像

wikipediaによれば

無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院であった。当時は平等院の規模をも上回る煌びやかな寺院であったが、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである。

寺院跡は「無量光院跡」として国の特別史跡に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。


沿革
平安時代末期に奥州一帯(現在の東北地方)に勢力を振るった奥州藤原氏は、初代清衡が中尊寺二代基衡が毛越寺を造営した。そして三代秀衡が建立したのが無量光院である。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。

『吾妻鏡』文治5年9月17日(1189年10月28日)条によれば、無量光院は京都府宇治市の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。発掘調査の結果、四囲は東西約240メートル、南北約270メートル、面積約6.5ヘクタールと推定され、平等院よりも規模が大きかったと推定される。

本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた。

 

上の写真はGoogle地図で示された無量光院跡

所在地住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉花立

上の写真はGoogleストリートビューによる復元された池

2012年(平成24年)より中島と池の復元・整備が進められている。

 

歴史書「吾妻鏡」

吾妻鏡の文治5年(1189)9月17日条の「寺塔己下注文」に無量光院跡は奥州藤原氏

三代藤原秀衡が宇治平等院を模して建立したことの他、、藤原氏の政庁「平泉館」との

位置関係が記されています。

 

藤原秀衡について
生誕 保安3年(1122年)?
死没 文治3年10月29日(1187年11月30日)
秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った

 

最後に発掘調査の概要を記載しておきます。

上の写真は無量光院跡の位置図です。出典:岩手県平泉町文化財調査報告書 第133集(2020)

JR平泉駅から北西約500m、周辺には水田や住宅があり東北本線や県道で3分割されています。

規模は南北約320m、東西約240m

無量光院跡は、南側を除いた三方を土塁で囲まれ、その内側には梵字が池と呼ばれる池跡と

大中小3つの島(中島、東島、北小島)が設けられています。また西側は土塁の外側に沿って

堀が設けられており、現在でもその痕跡を見ることができる。

昭和27年(1952)、文化財保護委員会が調査した結果、本堂は正面5間側面4間で、

左右に桁行折れ曲り、延長9間梁間1間の翼廊が連繞し、中島には栗石が一面に敷設され、

三箇所に建物の存したことが明かにされ又苑池は本堂及び翼廊の前面に設けられて中島を

配し、しかもこの池は本堂翼廊の背後にも繞くことが認められ、堂宇庭園の規模が

宇治平等院に類似していることが立証された。

上記1952年の1次発掘調査から最近の46次発掘調査(2019年8月19日~11月1日)が実施

現在も発掘調査が続けられています。

上の写真は無量光院跡の全景 出典:岩手県平泉町文化財調査報告書 第133集(2020)

土が露出しているのが40次発掘調査の現場

主な出土品については下記の通り

 ・かわらけ  ・中国産磁器  ・常滑、渥美の壺

 ・瓦、釘  ・羽口、鉄滓など鉄加工生産遺物  ・土師器  ・須恵器  ・土壁

   

上の写真は無量光院跡、金鶏山、36次発掘調査地点、柳之御所遺跡の位置関係図

出典:岩手県平泉町文化財調査報告書 第131集(2019)

 

関連サイト

平泉の文化遺産 

https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/heritage

毛越寺 

https://www.motsuji.or.jp/about/index.html

文化遺産オンライン
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160478

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グァテマラのティカル遺跡(Tikal Ruins)バーチャル訪問

2021年06月26日 05時05分15秒 | バーチャル探訪

2021年6月19日(土)、NHK BS3の番組「知られざる古代文明」2016-11-20の再放送

を視聴しました。マヤ文明の遺跡であるティカル遺跡が紹介されていました。

この遺跡は世界遺産にも認定されています。

Tical国立公園として整備されています。

Wikipediaで調べると下記のように紹介されています。

ティカルのもともとの名は、「ムトゥル」または「(ヤシュ)ムタル(Yax Mutal、Yax Mutul)」

と言われている、その正確な意味はまだ解明されていない。

一方、「ティカル」はユカテコ語由来で、「水たまりにて」を意味しているとされている。

1840年代で観光客や猟師達が遺跡にあった溜池に因んで作った呼び名だという。

ティカルは熱帯雨林地帯で栄えたマヤ最大の神殿都市である。最盛期には6万人もの人々が

暮していた。ティカルの地はカリブ海とウスマシンタ川を結ぶ交通の要地であり、翡翠や

ケツァールの羽根、黒曜石などの貿易が行われていた。ティカルに集落ができたのは

紀元前800年ごろにさかのぼる。1世紀までに町は現在みる形になり、ピラミッドが作られた。

後世の碑文によれば、ティカル王朝の最初の王(アハウ)はヤシュ・エーブ・ショークと

いい、1世紀後半のころの人物だったらしい。石碑29はティカルでもっとも古い日付

(292年)を記している。

378年、テオティワカンの将軍シヤフ・カック(siyaj kak/「火の誕生」)によって征服され、

ティカルのモニュメントは破壊された。テオティワカンの王族ともいわれる

ヤシュ・ヌーン・アイン(「最初のカイマンワニ」)が即位し、新王朝が始まった。

この時代にはテオティワカンの強い影響を受けた遺物が残っているが、約30年後に

シヤフ・チャン・カウィール2世が即位するとテオティワカンの影響は弱まった。

21代目の王ワク・チャン・カウィールはおそらく北のカラクムルに攻められて562年に

殺され、それから130年にわたって石碑による記録がまったく存在しない暗黒時代にはいる。

しかし、土器は作られ続けたし、人口が減ったわけでもなく、都市そのものが衰えた

わけではなかった。25代目のヌーン・ウホル・チャークはカラクムルに攻められて

パレンケに逃れた。その後ティカルに戻って南のドス・ピラスを攻めたが、679年に敗北した。

682年に26代目のハサウ・チャン・カウィールが即位するとティカルの王朝は再び勢力を

取り戻し、長年の宿敵であったカラクムルを695年に破った。次のイキン・チャン・

カウィールのときにティカルは最盛期を迎え、王は外征を繰り返した。

古典期後期最大の建築物である4号神殿(高さ65m)や6号神殿が建設されたのも

このときである。29代目のヤシュ・ヌーン・アイーン2世は2つのツイン・ピラミッド

(Q, R)を建てた。

9世紀にはいると、中央マヤの都市は衰退し、ティカルもその例外ではなかった。

ティカルの最後の石碑は869年の日付を示している。ティカルは50年から100年かけて

ゆっくりと崩壊していった。衰退の原因は明らかではないが、人口の増加にともなって

農業収穫を増やす必要があり、その結果土地が痩せ、気候変化や病害の影響を受けやすく

なったなどの原因が考えられている。

上の写真は1号神殿 高さ47m

上の写真はティカル遺跡の遠景

上の写真は上述番組が作製したイラスト

上の写真はマヤ文明が栄えた地域の範囲

 

EXPLORING ANCIENT MAYAN RUINS! - Tikal - Guatemala Series | Episode 14

Tikal Ruins, Guatemala GoPro 1080p

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊勢平氏発祥の地 in 三重県津市

2021年06月13日 07時12分53秒 | バーチャル探訪

本日(2021-6-13)早朝Am2:00からNHK BS1で平清盛ゆかりの地を訪ねる番組を

視聴しました。この中から津市産品にある伊勢平氏発祥の地の写真紹介をします。

 

上の写真は伊勢平氏発祥の地の遠景です。

津市の西方郊外、産品(うぶしな)の地は平清盛の父忠盛が生まれた所といわれ、

忠盛の胞衣塚(えなづか)や産湯を使ったという産湯池があって、伊勢平氏発祥の

伝説地として県指定史跡となっています。

 

上の2枚の写真は三重県津市上空の航空写真で伊勢平氏に関する概要説明の字幕解説


上の写真は「史跡 平氏発祥伝説地」と刻まれた石碑が建っています。

 

上の写真は現地説明板

読み難いのでそのまま書き写します。

伊勢の国は、武家の棟梁平氏根拠地であった。
 平氏にも数流あるが、最も頭角をあらわしたのは、桓武天皇より出る
”伊勢平氏”で平維衡が伊勢守として在任して以来、
正度、正衡、正盛、忠盛と相ついで伊勢国や伊賀国に勢力を張った。
 中央に進出した正盛、忠盛は海賊追捕などで武功を重ねて
熊野や瀬戸内海の強大な水軍を支配し、院政政権の側近として活躍した。
安濃津は、白子や桑名とともに平氏一門の基地の港として重きをなしたが、
忠盛の子の清盛も熊野参詣に安濃津から船出している。
この産品(うぶしな)附近は忠盛誕生のときの胞衣塚、産湯池や邸宅跡など
数多い伝承に包まれた平氏ゆかりの地である。
三重県教育委員会   津市教育委員会

上の写真は桓武平氏の系図

上の写真はGoogle地図で確認できる平氏発祥伝説地

 657号線沿いにあります。ストリートビューでも確認できます。

詳細を紹介されたブログにリンクさせていただきました。

 伊勢平氏発祥の地(忠盛塚・産湯池) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲崗石窟

2021年06月07日 05時42分01秒 | バーチャル探訪

2021年6月4日、NHK Eテレ 高校講座「世界史」で中国南北朝時代に儒教から

仏教が台頭してきておりその象徴的な遺跡として雲崗石窟の石仏像が紹介されました。

そこで、雲崗石窟をバーチャルで訪問すべく写真を中心紹介していきます。

雲崗石窟は中国、山西省大同市のの西15キロメートル、武州川の北岸の断崖につくられた
北魏の石窟寺院。2001年に世界遺産の文化遺産として登録されている。
石窟の全長は約1キロメートル。敦煌石窟、竜門石窟とともに三大石窟と称され、
大同石仏としても知られている。大小53窟あり、東方石窟群(第1~第4洞)、中央石窟群(第5~第13洞)、西方石窟群(第14~第53洞)の3部分に分かれている。

北魏の和平年間(460-465年)に、当時の僧、曇曜(どんよう)和尚により彫られた。力強く、重厚かつ素朴な中国西部地方の情緒を有している。中でも第20 番石窟の座仏像は高さが13.75m、北魏の皇帝をモデルにした巨大な如来像。がっちりとした体格で、袈裟は右側がはだけており、丸々とした輪郭に、薄い唇、高い鼻が特徴的で、雲岡石窟の代表作である。

上の2枚の写真は上述した第20 番石窟の座仏像 出典:高校講座「世界史」

雲崗石窟の5体の大仏は北魏の皇帝に似せて作られたとも言われ曇曜五窟ともいう。

この曇曜五窟の仏像は、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃く残っており、ガンダーラ美術の伝播を伝える重要な史跡である。

雲崗石窟に現存している洞窟は254個で、主要な洞窟は45基で、造像は約51000体くらいで、中国の仏教芸術の頂天と称することができる。


この石窟寺院群は当時、霊巌寺と呼ばれていた。現在では石仏寺あるいは大同石窟とも呼ばれている。雲崗の石窟寺院群は、北魏(386~534年)の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して、その裁可を受け、460年頃に建設が始められたものである。石窟の建設は、孝文帝が大同から洛陽に遷都した494年頃まで続けられ、その後の石窟寺院の造営は、河南省洛陽市の南郊にある龍門石窟(世界遺産)に引き継がれた。

上の写真は南北朝時代の中国 北魏(北朝)は黄河流域に発展した国である。

雲崗石窟の最大の石窟は高さ25m、幅42mの第3窟である。この雲崗石窟は1902年、東京の築地本願寺の設計者として知られる、日本人建築史学者の伊東忠太(東京帝国大学工科大学助教授)によって発見され、一躍注目を集める存在になった。

英名はShanxi Yungang Grottoes。ユンガンシークーともいう。

雲崗石窟の所在地Google地図

上の2枚の写真は雲崗石窟のある山西省大同市のGoogle地図

 

Googleストリートビューの写真

 

Youtube動画で紹介された雲崗石窟

山西大同雲崗石窟一

山西大同雲岡石窟

Shanxi Yungang Grottoes 雲崗石窟

20130531《殷瑗小聚》中國美術史--雲崗石窟 (蔣勳)

《天下大同》第四集 云冈石窟 | CCTV纪录

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果

2021年04月26日 05時09分11秒 | バーチャル探訪

2021年 4月24日(土) 14:00〜14:54 BS・TBSで歴史鑑定天正遣欧少年使節の悲劇』

という再放送番組(2018年7月に本放送)を視聴しました。

この中で「千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果」について元長崎歴史文化博物館

研究グループリーダーの大石一久さんが解説されていましたので写真紹介します。

本論に入る前に千々石ミゲルについて概要を記載しておきます。

 

千々石ミゲルの生涯概要

千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)頃~ 寛永9年12月14日

(新暦換算1633年1月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。
「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)で棄教後は千々石清左衛門。
肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。

  以上はWikipediaよりの引用

千々石ミゲルはイエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、
4人の中では唯一棄教してキリスト教から離れたと伝えられている。

 戒名 本住院常安 墓所は伊木力

ローマから帰国したのは天正18年(1590)6月。

で伝道師となるための修業を積んだ。天正19年(1591)豊臣秀吉の聚楽第に

招かれた4人は渡欧で習得した洋楽器による演奏を披露したさらに秀吉から仕官の要請が

あったが一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙階を受けるべく天草にあった
ノヴィシアード(修練院)に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(159)年7月25日、

他の3人とともにイエズス会に入会した。だが千々石ミゲルは次第に神学への熱意を
失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であった

マカオ留学への出発も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。
欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、
欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。

千々石ミゲルはただ一人、キリスト教を棄て仏教徒になった。
棄教後は名前を清左衛門せいざえもんと称し大村藩主(大村喜前)に仕えるが、冷遇され
長くは続かなかった。愛妻との間に4人の子供を授かったといわれているが、
晩年をどう過ごしたのか、詳細は謎に包まれている。

慶長8年(1603)千々石ミゲルはイエズス会の名簿から削除されています。

千々石ミゲルの棄教に関する文書(大村文書)と天正遣欧使節に関して下記ブログで

書いていますので、よかったらご覧ください。

 天正遣欧使節 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

棄教後の千々石ミゲルについてWikipediaで詳述されえちましので引用添付します。

 上の写真は千々石ミゲル
慶長6年(1601)、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。
棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ
従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。
大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。

ミゲルは棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は
異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。
また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、
さらに領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じないように諭したという。
イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された
伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を
見聞きして来たミゲルが反キリストに転じたことは宣教師達の威信を失わせた。

こうした出来事は、後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教と
キリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある[要出典]。
ところが、喜前が治める大村藩内はバテレン追放令後も布教が盛んであったため、この方針は
キリシタン派の反発を招き「大敵は喜前、その根源は清左衛門(ミゲル)」とされた。
喜前はミゲルを藩政から遠ざけさせただけでなく、この騒動の鎮静化を図るために
見せしめ的に処罰した。さらに島原の日野江藩に身を寄せるも、
本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった
有馬晴信の遺臣に瀕死の重傷を負わされる暗殺未遂が起きるなど、親キリシタン派からも
裏切り者として命を狙われ、長崎へ移り住むに至る[1]。
晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で
子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されており、領内で隠棲したものと考えられる。

伊木力の伝承では、大村喜前に対する恨みを弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという。

千々石(ちぢわ)ミゲルの墓所の基本情報

 所在地住所:長崎県諫早市多良見町山川内

 アクセス:JR長崎本線「大草駅」下車、長崎県営バス「下川内バス停」を南へ徒歩10分

 公式サイト:千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)

  これまでの調査という項目で過去の発掘調査の経過と成果の詳細が記載されています

上の写真は千々石ミゲルの墓所の位置をGoogle地図の上に示しました。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の遠景

上の2枚の写真はストリートビューよりで千々石ミゲル夫妻の墓所への入り口です。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の近景

上の写真は番組の中で解説される大石一久さん。

 

大石は法華宗寺院である琴海戸根町(旧戸根村)の本住山自證寺に残る浅田家

(千々石ミゲルの末裔)の位牌を調査した結果

墓碑には妙法の文字と千々石ミゲルの戒名 本住院常安とミゲルの妻の戒名 

自性院妙信 及び命日 千々石ミゲルが寛永9壬申年12月14日(新暦換算1633年1月23日)

ミゲルの妻が寛永9年12月12日(新暦換算1633年1月21日)

 

上の写真は2017年の第3次発掘調査(2017年8月20日ー9月20日)で出土の遺物

上の写真は長崎県教育委員会の「埋蔵文化財調査年報26 平成29年度調査分」Page10

(2018)出土遺物「棹(さお)通し」のクリーニング&保存処理の結果を示したもの。

さらに、ガラス製品(65点)の成分分析(蛍光X線分析)も実施された。

上の写真は発掘調査の結果からミゲルが最期まで信仰を保っていたことを示していると

語られた元長崎歴史文化博物館研究グループのリーダー大石一久さん。

イエズス会は脱会したものの信仰そのものを捨てたわけではないという結論。

千々石ミゲルは転び(棄教)したと後世まで裏切者扱いされ世間では「鬼の子」とまで

酷評されていたが上述のように信仰を捨てていなかった事が確定できれば名誉回復に

つながると期待されます。

千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会は、屈葬で墓石に戒名を刻みキリシタンの副葬品を

納めるという状況から潜伏キリシタン的埋葬状況だったと理解。

上の写真の右手下に地下レーダー探査の結果(真上から見た図)が示されています。

ミゲルの妻の墓壙(第3次発掘調査)の左手に方形の墓壙があることが事前調査で

判明している。(ミゲルが埋葬されている?)こちらを2021年8月から約2か月の予定で

発掘するとのこと。

 下記サイトに詳しく記載されています。

 天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土 : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土

天正少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる石碑(長崎県諫早〔いさはや〕市)の発掘調査が8月20日から始められ、8日、そこから「ロ...

クリスチャントゥデイ

 

 

 天正少年使節の千々石ミゲルの墓続報 出土の歯は25~45歳女性 、ミゲルの妻のものか : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

発掘調査に関する報道

発掘の骨はミゲル妻か 長崎・諫早の石碑調査 産経新聞記事(2017-11-12)
  https://www.sankei.com/west/news/171112/wst1711120030-n1.html

 内容要旨:

 16世紀末の天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの墓とみられる長崎県諫早市の

 石碑を2017年9月まで調査した市民グループは11月12日、発掘した人の骨や歯の鑑定結果

 について「20~40代の女性のものの可能性が高く、ミゲルの妻とみられる」と

 明らかにした。(骨や歯は長崎大学などの専門家が鑑定)

朝日新聞 2017-9-8記事
 https://www.asahi.com/articles/ASK984W3WK98TIPE01P.html

 内容要旨:

 ミゲルの子孫や地元の歴史愛好家、専門家らでつくる発掘調査実行委員会が8日発表した。

 実行委によると、見つかったのは、真ん中に穴が開いた直径2~5ミリのガラス玉計59個(5色)
▽長さ2・6センチの半円形のガラス板
▽人の歯とみられるもの――など。板と一部の玉は欧州で作られたアルカリガラス製の可能性が高く、
玉はロザリオなど、板は聖骨の入れ物のふたの可能性があるという。

 (施錠された長持ちを転用した木棺と思われる)

 諫早市多良見町伊木力(いきりき)地区にある石碑は2004年、元長崎歴史文化博物館研究グループ
リーダーの大石一久さん(65)が、地区は大村藩に仕えたミゲルが藩主から与えられた土地であることや、
石碑の裏にミゲルの子の名前が刻まれていることなどから、ミゲルの墓とほぼ特定した。

 (ミゲルの子供は4男の玄蕃)

 今回の発掘で、出土した陶磁器の年代から、17世紀前半の墓坑とみられ、石碑の没年と合致
▽木製の棺の上に石板を敷くなど丁寧な埋葬方法▽キリスト教の聖具とみられるものの発見――などから、
ミゲルの墓の可能性がさらに強まったという。

 16世紀のキリスト教世界の繁栄を目にしたにもかかわらず、ミゲルは帰国後の1601年ごろ、
イエズス会を脱会。4人の中で唯一棄教したとされてきたが、明確な理由はわかっていない。

 大石さんによると、16世紀末~17世紀、修道会同士の対立や寺社の徹底破壊など様々な問題が
噴出していたという。「(日本という)異文化に適応しようとしなかったイエズス会に、
ミゲルは異を唱えたのでは。信仰そのものを捨てたわけではないと思う」

毎日新聞 2017-9-2記事

 千々石ミゲルの墓:発掘調査 木製の棺跡発見 /長崎 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 内容要旨:木製の棺(長さ1m、幅60cm)に屈葬されていた。

記者発表資料:これまでの調査 | 千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京大手町、常盤橋公園内の渋沢栄一の銅像

2021年03月02日 05時48分34秒 | バーチャル探訪

2021年2月24日、10:30-11:15に放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「渋沢栄一

時代を開く 新1万円札の男の肖像」を視聴して表題のテーマを選びました。

写真はGoogleストリートビューと上述の番組によります。

上の3枚の写真は歴史秘話ヒストリアで紹介されていた東京大手町、常盤橋公園内の

渋沢栄一の銅像です。

銅像の所在地:東京都千代田区大手町2丁目7−2 常盤橋公園

所在地のGoo地図を添付しておきます。

上の3枚の写真は常盤橋公園の渋沢栄一の銅像です。 Googleストリートビューによる。

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところです。昭和8年(1933)、

財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、

公園となり、銅像も建立されました。銅像は戦時中金属供出でなくなりましたが

昭和30年(1955)に再建されたものです。

後に「資本主義の父」と称賛されるようになった渋沢栄一は、2年近くパリ万博など
欧州の先進事例を見聞し、明治政府に出仕し経済・金融政策に関わった後
「第一国立銀行」や「東京証券取引所」「帝国ホテル」など500を超える民間企業の
創立に携わりました。
特に、中心となって設立に関わった「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、日本で
初めてつくられた株式会社であり、その仕組みはのちの資本主義経済に大きな発展を
もたらしています。

資本主義の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように

堂々と立っています。

上の写真はGoogleストリートビューによる日本銀行と大手町のビジネス街

上の写真は日本で初めての株式会社 第一国立銀行(現みずほ銀行) 明治6年(1873)7月設立

上の写真は2024年に発行予定の新しい1万円札

上の写真は過去の1万円札。聖徳太子と福沢諭吉と並ぶ渋沢栄一

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする