CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

柳井市瑞相寺

2021年02月21日 06時14分16秒 | バーチャル探訪

山口県柳井市にある瑞相寺をGoogleストリートビューでバーチャル探訪しましたので

紹介します。

瑞相寺の基本情報

住所:山口県柳井市柳井津308  TEL:0820-22-0427

宗派:浄土宗知恩院派 山号:放光山   御本尊:釈迦如来

開山:永正13年(1516)宇治平等院本尊仏と法誉祐西師を迎え開山

 

Goo地図を添付しておきます。

 

上の写真は江戸時代の絵図 辻本家蔵絵画

上の写真は観光案内図から瑞相寺の位置を示しました

 

実訪問記は下記ブログで書いています。2004年8月29日に訪問

 柳井瑞相寺(浄土宗) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 

上の写真の地蔵菩薩石像付近には一里塚があったところです。

総本山知恩院77世日野霊瑞大僧正、78世野上運海大僧が出られたお寺だそうです。

見どころとしては閻魔十王堂には、亡者の罪業を裁判するという閻魔大王十王十躰と、

地蔵菩薩像、奪衣婆像があります。

 瑞相寺 (justhpbs.jp)

岩国市の寺町にも同名の寺があります。

 (下記ブログで書いています。)

 岩国瑞相寺の鬼瓦 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 岩国瑞相寺の句碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

所在地は岩国市岩国1-14-21

公式サイト:岩国浄土宗 瑞相寺 – 山口県岩国市のお寺 (zuisoji.com)

歴史など詳細に紹介したサイト:巌縁山 増上院 瑞相寺 – 山口県岩国市 – 浄土宗 – 見どころ | まいてら (mytera.jp)

 

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銭形砂絵(琴弾公園内)及び男木島灯台

2021年02月16日 04時36分21秒 | バーチャル探訪

本日(2021-2-16)4時台にNHKテレビで香川県観音寺市琴弾公園内にある「銭形砂絵」

の映像が流れており、珍しいユニークだと思い写真を撮りましたので紹介します。

出典:NHKテレビ 瀬戸内 ふるさとの絶景より

銭形砂絵の所在地は琴弾公園内(香川県観音寺市有明町14)のGoo地図を添付

問い合わせ先:0875-24-2150(観音寺市観光協会)

 アクセス:JR観音寺駅から徒歩20分だそうです。

うどん県旅ネットのサイトより銭形砂絵の由緒書きを引用紹介します。

 

有明浜の砂に描かれた「寛永通宝」は、東西122m南北90m、周囲345mもある
巨大な砂絵で、琴弾山山頂から見るときれいな円形に見える。
寛永10年(1633)藩主、生駒高俊公を歓迎するために、一夜にして作られたといわれ、
他に類を見ないものといえるだろう。この銭形を見たものは健康で長生きができ、
お金に不自由しないと伝えられている。
近年銭形を見て宝くじを購入した人が高額をあてたことから金運スポットとして知られ、
多くの観光客が訪れている。テレビ「銭形平次」のタイトルバックにもなりました。

 

琴弾公園には「世界のコイン館」が設置されているそうです。

寛永通宝が鋳造されたのは寛永13年(1636)からで上記の生駒高俊公歓迎・・・との

言い伝えには矛盾があるがいずれにせよ地元では長期にわたり大切に維持管理されてきた

ことで現在も存在しているのだと思います。

 

上述のNHK番組で男木島灯台についても紹介されていましたので写真紹介します。

(下の3枚の写真)

所在地住所表示:香川県高松市男木町1062-3(男木島資料館)

Wikipediaによる概要解説

男木島灯台(おぎしまとうだい)は香川県高松市の男木島北端トウガ鼻に立つ石造の灯台。
日清戦争後に瀬戸内海海上交通が増加したことに対応し、「灯台の父」と呼ばれるブラントン
離日後の1895年(明治28年)、日本人独力で備讃瀬戸東航路の東端にあたる位置に建設された。
灯塔は総御影石(庵治石)造りで、日本に2基しかない無塗装の灯台の一つ(もう一つは角島灯台)。

この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で日本の灯台50選にも選ばれている。
周辺は瀬戸内海国立公園に指定され、灯台からは明石海峡に次いで全国第2位の交通量の船舶を望むことができる。

 

 

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尾道市にある聖徳太子ゆかりの浄土寺バーチャル探訪

2021年01月30日 05時32分27秒 | バーチャル探訪

尾道市の浄土寺については2005年1月1日に訪問し下に添付のブログを書いています。

 浄土寺---尾道 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

今回、過去の資料を整理していたら坂井敬樹氏「千五百枚の写真集」 昭和30年前後

の「尾道写真」備後レポート社のCDが出てきました。

そこでこの写真の一部とGoogleのストリートビューを利用して由緒ある浄土寺を

バーチャル訪問することとしました。

尾道・浄土寺の基本情報

住所:尾道市東久保町20-28 TEL:0848-37-2361

宗派:真言宗泉涌寺派 大本山 山号:転法輪山 院号:大乗院

御本尊:十一面観音像立像(重文) 観音霊場:中国33観音霊場第9番札所

創建:推古天皇24年(616) 開基:(伝)聖徳太子

中興:鎌倉時代後期に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証により中興

公式HP:真言宗泉涌寺派 大本山 浄土寺■ 聖徳太子をはじめ、足利尊氏・源氏物語ゆかりの寺です。 (ermjp.com)

 

浄土寺の概略説明(前記ブログより)

聖徳太子が616年に創建したと伝えられている。本堂(嘉歴2年(1327))及び

多宝塔(元徳元年(1329))の国宝をはじめ重要文化財などが多数ある。
2005年正月の訪問で参拝者が多く訪れていた。
また足利尊氏や蓮如上人も訪れたゆかりの寺である。

浄土寺境内の建物

(1)本堂と阿弥陀堂

上の写真は本堂(左側)と阿弥陀堂(右側) 出典:上述のCD

本堂(国宝)は 嘉暦2年(1327)に建築されました。昭和28年(1953)3月31日に

国宝に指定されました。(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚)

文化庁のデータベース解説文には「本堂は正中二年(1525)の火災後貞和元年(1345)

に再建された建物で和様を基調として唐様、天竺様を混用したいわゆる折衷様式に属し、

瀬戸内海沿岸諸地方に存するこの種建築の代表的なものである。

又年代の確証あるものとしては最古の例に属する。」と記載されています。

阿弥陀堂(重文)は貞和元年(1345)の建築物 大正2年(1913)4月14日に重文に指定

     
     
     

(2)多宝塔


上の写真は阿弥陀堂(左側)と多宝塔(右側奥) 出典:上述のCD

上の写真は多宝塔 出典:上述のCD

上の写真は山側から俯瞰した多宝塔と境内 出典:上述のCD

多宝塔は元徳元年(1319)の建造物で昭和28年(1953)3月31日に国宝に指定されました

浄土寺のシンボル的な建物で法輪内に納入の経巻類は附指定されています。

(3)山門

上の写真は山門 出典:Googleストリートビューより

室町前期(1333-1392)の建造物 昭和28年(1953)11月14日に国の重文に指定

(4)護摩堂

上の写真は護摩堂 出典:上述のCD

(5)庫裡

上の写真は庫裡(重文) 出典:上述のCD

かっては食堂であった。享保4年(1719)の建造物です。

庫裡に隣接している客殿も国の重要文化財です。

平成6年(1994)7月12日に重文に指定されています。

(6)方丈

上の写真は浄土寺方丈(重文) 元禄3年(1690)の建造物です

平成6年(1994)7月12日に国の重要文化財に指定されています。

同じ日付で方丈の他に露滴庵附中門、唐門、庫裡及び客殿、宝庫、裏門の6棟が

重要文化財に指定されましたあ。現地説明板を下に添付。

(7)境内建物配置

上の写真は浄土寺境内の建物配置 出典:Google地図

 

重要文化財の宝篋印塔と納経塔

上の写真の左手は鎌倉時代前期(1333-1392)の宝篋印塔(重文)

昭和36年(1961)3月23日に国の重要文化財に指定されています。

写真はありませんが上記の宝篋印塔の他に次の重要文化財があります。

1)石造宝篋印塔(重文) 昭和28年(1953)8月29日に国の重要文化財に指定
   貞和四年(1348)戊子十月一日の刻銘がある

2)石造宝塔、基壇付(重文) 昭和28年(1953)8月29日に国の重要文化財に指定
   弘安元年(1278)戊寅十月十四日の刻銘がある

 

 

重要文化財の仏像(4体)

 

浄土寺には重要文化財に指定されている仏像が多く保管されています。

上の写真は木造十一面観音立像(明治32年(1899)8月1日に国の重文に指定)

本堂に秘仏として保管されています。 像内に仁平4年(1154)造立の銘あり

出典:重要文化財3 彫刻Ⅲ 木造-菩薩2、明王 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page51

木造聖徳太子立像(右側)には乾元2年(1303)の銘 院憲作

木造聖徳太子立像(左側)には暦応2年(1339)の銘 幸春作

2体は共に大正元年(1912)9月3日に国の重文に指定 開山堂に安置

出典:重要文化財5 彫刻Ⅴ 木造-神像・肖像他 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page81

上の写真は木造聖徳太子立像(南無仏太子像)

頭部内部に建武5年(1338)10月24日 院勢作の銘あり

昭和2年(1927)9月18日に国の重要文化財に指定されました。

出典:重要文化財5 彫刻Ⅴ 木造-神像・肖像他 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page81

 

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市電が走る風景 in 富山県高岡市 (NHKテレビ)

2020年12月28日 05時09分44秒 | バーチャル探訪

現在、日記を観ながら2020年を振り返っています。

その作業の過程で、2020年1月22日、NHKBS3 7:45から放送の「トコトコトラム」

の番組で市電(路面電車)が走っている風景を確認できましたので写真紹介します。

 

上の写真は番組が始まってすぐの場面

上の写真は路線図でトラム(路面電車)は高岡駅と越の潟(新湊市)を結んでいます。

正式な路線名は加越能鉄道万葉線。運行は万葉線株式会社

上の写真は走行中のトラム

副題で「万葉線トラム愛あふれる電車」と書かれています。

 

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ポーランド クラクフのコペルニクスの銅像

2020年11月28日 04時59分13秒 | バーチャル探訪

昨日(2020-11-27)、NHKBS3の世界まち歩きという番組でポーランドのクラクフ

街歩きで表題のコペルニクスの銅像が紹介されていたので写真紹介します。

上の写真がポーランド クラクフのコペルニクス(1473-1543)の銅像

この銅像の詳しい情報は下記のサイトを参照して下さい。(英文)

 Nicolaus Copernicus Monument, Kraków - Wikipedia

 

銅像は1899年から1900年に Cyprian Godebski(ポーランドの彫刻家)によって設計製作。

当初はthe Jagiellonian University's Collegium Maiusに設置されていたが1953年に

クラクフの 植物公園、Witkowski大学の建物前に移設された。

上の写真はコペルニクスが18歳でヤギェウォ大学(Jagiellonian University)に入学し4年間、

自由七科を履修した。中世の大学のシステムは下記のようになっています。

出典:総合世界史図表 第一学習社(1987)Page75

コペルニクス(1473-1543)はクラクフ大学で自由七科を学んだ。

Wikipediaよりコペルニクスがどのような学問を履修したのか引用紹介します。

コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスは
クラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った
著名な天文学者で、従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていた
アルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。
さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の
彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、
叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にある
フロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、
法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、
彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ
出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物
したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って
1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは
今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。
パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年フェラーラ大学でカノン法の博士号を
取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方および
その近隣から出ることはなかった

 

コペルニクスは1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)
太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。
コペルニクスの最晩年の1543年 『天球の回転について』を表します。

地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った

1543年5月24日永眠

遺骨はポーランド、フロムボルクの大聖堂に埋葬されています。(DNA鑑定で確証済)

 

 

 

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キルギス共和国 イシク・クル湖へのバーチャル訪問

2020年07月01日 05時16分19秒 | バーチャル探訪

2020年6月27日(土)の15:30~17:00、NHKBS3chで【行くぞ!最果て!

秘境×鉄道「疾走!シルクロード」】を視聴しました。2018-7-14の再放送です。

ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの3か国を舞台にシルクロードを俳優の

古原靖久がレポートする番組で大草原の絶景や遊牧民の暮らしが紹介された。

この番組の中でキルギス共和国のイシク・クル湖について興味を持ったので

Googleアースなどでバーチャル訪問することにしました。

まず、キルギス共和国(キルギスタン)についての概要を調べてみました。

写真の出典で特記が無いものは上述のテレビ番組によります。

キルギス共和国の基本情報

英文表記:Kyrgyz 面積:20万㎢(日本の約半分) 人口:

正式国名:キルギスタンKirgzstan 首都:ビシュケクBishkek(旧名フルンゼ)

国体:共和制国家  独立国家共同体 (CIS) 加盟国

近隣国:北から時計回りにカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウズベキスタン

政治:旧ソ連を構成していた中央アジア5カ国で「最も民主的」、2005年と2010年

   に野党勝利による政変があった。しかし、キルギスの大統領たちは政権交代

   による第一野党勝利後にそれぞれ国外に亡命している。 

ブルタニカ百科事典による紹介:https://www.britannica.com/place/Kyrgyzstan/History

観光情報(トリップアドバイザー):https://www.tripadvisor.com/Tourism-g293947-Kyrgyzstan-Vacations.html

上の写真はキルギス共和国の位置を示しました。完全な内陸国です。

出典:成美堂出版 2005年版世界地図 Page150-151

キルギス共和国の世界遺産(3つ)についてのサイトを下記に添付

 http://whc.unesco.org/en/statesparties/kg

今回のブログの主題であるイシク・クル湖は東側端に位置する湖で大きさは

琵琶湖の9倍あるそうです。水の透明度は世界で2番目だそうです。

Wikipediaより引用紹介します。 英文表記はIssyk-Kul

長さ182km、幅60km。面積は6,236 km2。周囲は688kmで、琵琶湖の9倍。
最大深度は668m。標高は1,606mという高地にある。周囲から流れ込む河川が188存在するが、
イシク・クルより流出する河川は認められない。塩分濃度は0.6%程度である。
透明度は20mを超える。数少ない古代湖の一つである。 
標高が高く、冬季は厳寒の気候であるが、夏の水温は20度、冬の水温は3度程度ある。
塩分濃度が比較的低いにも拘らず、冬でも湖面は凍らない。
原因は不明だが、これは湖底から温泉が湧き出ているためという説がある。 
イシク・クル周囲には多数の鉱山が存在する。
その為、ソビエト連邦支配下では、外国人の湖畔への立ち入りは禁じられていた。
しかしキルギスが独立した後は、貴重な観光資源としての活用が行われている。 
イシク・クルの湖底には、多数の遺跡が水没している事が確認されている。
湖畔の砂浜には陶器など、湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せることが有る。
なぜ遺跡が存在するかは未だに謎である。この件に関しては何度か潜水調査が行われ、
遺跡は1つではなく、様々な時代の遺跡が水没している事が判明した。
その内の1つに、曾て湖畔に存在したという烏孫の赤谷城がある。 
昔の文献によると、この湖には少なくとも16世紀頃までは島が有り、
更にその島には城が存在していたという事だが、今はその面影は全く無い。 
イシク湖には旧ソ連時代から魚雷の試験場があったため、旧ソ連時代にはイシク湖に外国人は立ち入れなかった。

上の写真はイシク・クル湖

上の写真はイシク・クル湖の湖底と解説する考古学者のドミトリーさん

4万人の町は地震による地殻変動で湖底に沈んだとの解説もありました。

この町はシルクロードの交易ルートであったと思われます。

「シルクロード:長安ー天山回廊の交易路網」として2014年にUNESCO世界遺産に

認定されています。構成要素として中国22件、カザフスタン8件、キルギス3件。

詳細は下記サイト(Wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/シルクロード_(世界遺産)

 

シルクロードに関するキルギス共和国内の世界遺産サイトは以下の通りです。

 1)The city of Suyab(Site of Ak-Beshim)

    2) The city of Balasagum(Site of Burana)

    3) The city of Nevaket(Site of Krasnaya Rechka)

写真などの簡単な解説は下記サイトで見れます

https://news.cgtn.com/news/2019-06-14/Kyrgyzstan-s-world-heritage-sites-along-Silk-Road--Hwn8zFnV8Q/index.html

 

上の3枚の写真はGoogle Earthからのもので湖畔での様子が伺えます

イシク・クル湖の透明度の高さも写真から感じることができます。

上の写真はGoogleの地図でイシク・クル湖が右端(東端)にあり湖より西側に

80Kmほどの所に首都のビシュケクがあります。

 

イシク・クル湖東側の町 Karakolを中心とした観光案内(写真が素晴らしい)

 https://www.kathmanduandbeyond.com/what-to-do-around-lake-issyk-kul-kyrgyzstan/

イシク・クル湖の北側のチョルボン・アタを中心とした観光案内

 https://caravanistan.com/kyrgyzstan/north/issyk-kul/

イシク・クル湖の観光プランのリスト

 https://silkroadexplore.com/places/lake-issyk-kul/

日本からの観光ツアー例

 西遊旅行

 

イシク・クル湖の南の湖岸の旅行記のyoutube動画(2013)

Exploring The South Shore of Lake Issyk Kul in Kyrgyzstan

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出雲の阿国の所縁の阿国寺と阿国の墓

2020年06月18日 04時39分53秒 | バーチャル探訪

昔撮ってあったBS放送の「出雲大社」に関する録画を観ていたら表題の「阿国寺」

と「阿国の墓」が含まれていました。

そこでGoogleアースを使用して現地をバーチャルで訪問しました写真紹介します。

写真で特記していないものは上述のBS放送の録画によるものです。

阿国寺 別名「連歌庵」

 所在地は出雲市大社町杵築東 島根県神社庁の横手にあります

 

上の写真は阿国寺

出雲阿国は歌舞伎の始祖として知られています。出雲大社で巫女をしていました。
晩年、尼僧「智月」となり、読経と連歌に興じて静かに余生を過ごしたと伝わります。
そのため、この草庵は阿国寺「連歌庵」と呼ばれるようになりました。

連歌庵はもともと中村町にありましたが、中村の大火で焼失して、二代目は明治4年、
廃仏毀釈によって取り壊され、昭和11年、「劇祖阿国会」によって再建されました。

上の2枚の写真は阿国寺の境内入り口の阿国のレリーフなど

 

上の写真はGoogleアースで訪問した阿国寺(連歌庵)

上の写真の左端が阿国寺。右端が島根県神社庁(Google earth より)

 

阿国の墓

上の写真は出雲阿国の墓

上の写真は出雲の阿国の墓の入り口

上の写真はGoogle Earth で見た出雲阿国の墓の入り口

 

阿国寺と出雲阿国の墓の所在地

上の写真はGoogle地図に阿国寺と出雲阿国の墓の位置を示しました

 

出雲の阿国の略歴解説 By Wikipedia

Wikipediaより出雲の阿国の略歴を引用紹介します。

概要 

出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、安土桃山時代の
女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、
このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。 
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、
「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。
 お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、
お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない。 
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、
彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、
これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、
彼女が伝説化してから広まったものと考えられる。

没年については、慶長18年(1613)、正保元年(1644)、万治元年(1658)

など諸説ある。1658年だとすれば享年は86歳で当時としては長寿を全うした 


生涯

出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、
文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。 
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録
(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に
「かぶき踊」を始めたと考えられている。 
『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。 
当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。 
慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、
文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期に
かぶき踊(かぶき者)というあらたな名称が定着したと考えられている。
内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、
傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。 
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、
茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、
最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。 
このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする
記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版
『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、
ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。 
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。
慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。 
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など
諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。
出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。
なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。

 

上の写真は阿国歌舞伎の解説 出典:山川出版「詳説日本史図録」Page144

 

出雲阿国像

所在地の住所は出雲市大社町修理免

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明智遠山家の菩提寺 龍護寺バーチャル訪問記

2020年05月04日 10時28分14秒 | バーチャル探訪

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ「長良川の戦い」(1556)が

始まろうとしています。

斎藤道三側につき敗北を味わい朝倉義景を頼り一乗谷へ逃れた明智光秀は約10年間

一乗谷で過ごしたと言われています。

さて、明智光秀の生誕地・父母・生年など未だに謎に包まれている。

生誕地に関して岐阜県内だけでも8つほど候補地が挙げられています。その中でも

有力な説である美濃明知説(岐阜県恵那市)があり「明智光秀産湯の井戸」も

残っています。

光秀は明知城の出城、落合砦(千畳敷砦)で生まれたという言い伝えが

この地域には残っています。

そこで、明知の地にある明智光秀の所縁の龍護寺をGoogle Earthを使用して

バーチャルで訪問することにしました。

 

龍護寺の基本情報

住所:岐阜県恵那市明智町1389-1  TEL:0573-54-2540

宗派:臨済宗妙心寺派 山号:大明山 御本尊:釈迦如来

龍護寺のGoo地図を添付しておきます。

上の写真は岐阜県恵那市明智町のGoogle地図 龍護寺の位置を赤字で示した

上の写真は龍護寺付近のGoogle地図

 

Wikipediaより龍護寺のご由緒を引用紹介します。(一部追記)

大永元年(1521)三河国三玄寺の住持であった「伯庭」が当地に「塔仙坊楞厳院」

という庵室を設けて住まっていたという故地に、慶長元年(1596)江戸幕府の

交代寄合となった遠山利景が一族の菩提寺として建立し「椽室」が開山した。

遠山家の子孫には遠山の金さんとして知られる遠山景元がいます。以降は江戸時代

を通じて明知遠山氏の庇護のもと杉平村に30石の寺領を有していた。

また明知遠山氏の領内にある妙見寺や長楽寺、万勝寺、観音寺などを末寺としていた。

なお遠山利景の父、遠山景行の墓は、恵那市明智町杉野の安住寺と龍護寺の両方にある。

境内には遠山利景以後の明知遠山氏の歴代の墓と、家老であった串原遠山氏の

末裔である永田氏の墓の他、遠山氏初代の遠山景朝の伯父にあたる加藤光員と

その一族の墓が隣接している。他には寺宝として明智光秀所有の直垂の布が

縫い込まれた袈裟を所蔵しており、明智光秀の霊廟所もある。 

上の写真は駐車場付近から観た龍護寺の遠景

上の2枚の写真は道路沿いにある信徒会館

上の写真は明智光秀公の霊廟所(道路沿いより)

霊廟所の中の供養塔は斜めにヒビが入っているそうです。

上の写真は現地説明版に記載の明智遠山氏と土岐明智氏系譜概要図です。

ここでは明智光秀の父は光隆としています。

遠山景行と明智光秀の叔父の光安が同一人物としています。

大河ドラマでは明智光安は明知城の城主として描かれていると思います。

 

実際に訪問された方のサイトにリンクさせていただきました。

 1)https://tabi-z.com/ryugo-ji

 2)https://ameblo.jp/mico315-kk/entry-12514518452.html

 3)https://www.kankou-gifu.jp/spot/5828/

恵那市明智町の観光案内

 1)https://akechi-mitsuhide.jp/places-associated-with-mitsuhide/

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世界一の美濃焼狛犬 in 岐阜県瑞浪市陶町大川

2020年04月29日 04時51分40秒 | バーチャル探訪

昨日(2020-4-28)、火野正平のこころ旅で表題の狛犬が紹介されていました。

そこで、Google Earthでバーチャル訪問をしてみました。

狛犬の所在地は瑞浪市陶町大川 国道363号線と419号線の交点 八王子神社に隣接

八王子神社の住所は岐阜県瑞浪市陶町大川716番地

八王子神社のGoo地図を添付しておきます。

上の写真が世界一の美濃焼狛犬です。

上の写真は八王子神社の一の鳥居。

瑞浪市制35周年を記念して平成2年(1990)に製作、高さ約3.3m、総重量15トン、
世界一(ギネス認定)の美濃焼こま犬は、大川窯4代目羽柴与左衛門景度の作品を
モデルに、地元の人々の力の集結により生まれました。

年末年始には、周囲を約1万個の電球で装飾し、冬の風物詩にもなっています。

上の2枚の写真は冒頭に記載した火野正平の番組から「世界一の狛犬」のアップ

上の5枚の写真は同じく上記の番組からで八王子神社への参道で多くの狛犬達に

遭遇する火野正平さん。

八王子神社は地元で別名「狛犬神社」と呼ばれているそうです。

上の写真はGoogleの地図で狛犬の近くには世界一の茶壷(ギネス認定)が

あることが判ります。

狛犬の製造の逸話や茶壷についても詳しく紹介されているサイトにリンク

 

https://bqspot.com/tokai/gifu/297

 

 

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秋田県のバーチャル観光案内

2020年01月28日 04時43分25秒 | バーチャル探訪

昨日(2020-1-27)と本日の早朝における首都圏での積雪のニュースが

大きく取り上げられています。

 報道例:毎日新聞電子版

4時半からのNHKTVのニュースによれば箱根や山梨県の河口湖など山間部で23cm

埼玉の所沢で1cm、都内では多摩地区を除き雨になっている所が多く交通の乱れは

少ないようである。

川崎市麻生区で雪が降っている映像が流れていました。     

雪に関連して雪国の秋田県におけるバーチャル観光案内を取り上げました。

2020年1月11日に大丸須磨店で秋田県の観光地紹介の小展示があったのでその写真を

中心に紹介していきます。

男鹿半島のなまはげ

上の写真は大丸須磨店における「なまはげの面と衣装」の展示

 撮影:2020-1-11

なまはげは大晦日の夜、集落の青年たちがナマハゲに扮して「泣く子はいねがー、

親の言うことを聞がね子はいねがー」「ここの家の嫁は早起きするがー」などと

大きな声で叫びながら地域の家々を巡ります。

男鹿の人々にとってナマハゲは、怠け心を戒め、無病息災・田畑の実り・山の幸・

海の幸をもたらす、年の節目にやってくる来訪神です。

年末のTVで毎年のように紹介されており全国に知られています。

1978年「男鹿のナマハゲ」として重要無形民俗文化財に指定、さらに2018年には

ユネスコ無形文化遺産に「来訪神・仮面・仮装の神々」のひとつとして登録されました。

上の写真は1月19日のイベント案内

上の写真は男鹿市観光課が作成したリーフレットの表紙

 2月の第2金曜・土曜に真山神社で行われる「なまはげ柴灯まつり」

 なまはげ館の展示

 なまはげ太鼓の常設公演 4月下旬から11月上旬 男鹿温泉交流会館 五風

 赤神神社五社堂 9.99mのなまはげ立像

上記の他、男鹿半島の観光情報が詳しく紹介されています。

秋田犬

上の写真は巨大な秋田県の作り物

2018年にロシアのフィギュア選手のザギトワに秋田犬「マサル」が贈呈され話題となった

 

その他の観光名所

上の写真は北東北三県大阪合同事務所が作成した観光案内の資料です。

秋田県のその他の観光名所をリストアップしておきます。

 ・横手のかまくら

 ・秋田の竿灯まつり 2019年は8/3~8/6に実施

 ・大曲の花火

 ・世界遺産 白神山地

 ・田沢湖のたつこ像

 ・角館の武家屋敷

食の名産品として

 ・きりたんぽ鍋

 ・稲庭うどん

 

 

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