江戸から明治にかけて活躍した岩国出身の著名な陽明学者
東沢瀉(ひがしたくしゃ)について紹介したいと思います。
沢瀉は天保3年(1832)岩国の錦見(にしみ)に生まれました。
父は岩国藩の家臣で沢瀉は長男でした。
10歳のころから勉学に没頭し詩文や漢書を学びました。
そして岩国藩の藩校養老館(現在の吉香公園付近にあった)
に入学しました。当時の岩国では進歩的な学問が無く江戸に出て
陽明学を学ぶこととなった。(1854年)
当時の江戸ではペリーの再来航で大騒ぎしている時期であった。
岩国に帰った沢瀉は陽明学を教えながら徳川幕府に対抗する
精義隊を組織し勤皇の志士として多くの門弟もこれに従いました。
ところがこの活動が過激であるとの理由で柱島に栗栖天山と共に
流されました。
世が明治となって沢瀉も許され岩国市の保津面高に住み塾を開き
百数十名の生徒に教えました。
先生の楽しみは書画で門人は先生からもらった書画を大切に保存
したそうである。1884年には息子(正堂)に塾を譲って3層楼と
呼ばれる3階建ての建物(1階は勉強部屋2階は眺めの部屋
3階は大切なものを保管)で書画や読書を楽しんだ。
明治24年(1891)60年の生涯を閉じた。
写真は188号線のすし和の裏手にある先生の記念館の写真です。
東沢瀉(ひがしたくしゃ)について紹介したいと思います。
沢瀉は天保3年(1832)岩国の錦見(にしみ)に生まれました。
父は岩国藩の家臣で沢瀉は長男でした。
10歳のころから勉学に没頭し詩文や漢書を学びました。
そして岩国藩の藩校養老館(現在の吉香公園付近にあった)
に入学しました。当時の岩国では進歩的な学問が無く江戸に出て
陽明学を学ぶこととなった。(1854年)
当時の江戸ではペリーの再来航で大騒ぎしている時期であった。
岩国に帰った沢瀉は陽明学を教えながら徳川幕府に対抗する
精義隊を組織し勤皇の志士として多くの門弟もこれに従いました。
ところがこの活動が過激であるとの理由で柱島に栗栖天山と共に
流されました。
世が明治となって沢瀉も許され岩国市の保津面高に住み塾を開き
百数十名の生徒に教えました。
先生の楽しみは書画で門人は先生からもらった書画を大切に保存
したそうである。1884年には息子(正堂)に塾を譲って3層楼と
呼ばれる3階建ての建物(1階は勉強部屋2階は眺めの部屋
3階は大切なものを保管)で書画や読書を楽しんだ。
明治24年(1891)60年の生涯を閉じた。
写真は188号線のすし和の裏手にある先生の記念館の写真です。