2014年5月2日に禅昌寺を訪問しましたので写真紹介します。
禅昌寺(ぜんしょうじ)の基本情報
住所:神戸市須磨区禅昌寺町2丁目5-1 TEL:078-732-2590
山号:神撫山(じんぶさん) 宗派:臨済宗南禅寺派(大応派)
通称:雀のお宿(スズメ寺)や紅葉寺として知られています。
本尊:十一面観音。
創建:延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建
後光厳天皇(1338-1374 在位=1352-1371)の勅願による
禅昌寺は下記の摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区
Google地図にリンク


上の写真は現在の庫裡(方丈)。
室町時代には幕府から寺領三十六石を寄進したと言われる。
天正8年(1580)の豊臣秀吉の三木城攻撃時に焼かれ、その後桃山御殿の豊国亭を移して
方丈としていた。しかしこれは明治12年(1879)に火災で焼失した。
現在の方丈建物は大正4年(1915)に再建されたものである。
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられていた。

上の写真は歴代の住職のお墓です。

上の写真は禅昌寺の中興で大正時代に住職を務めた 嶋田菊僊(1872-1959)後に336世南禅寺管長のお墓。
嶋田菊僊(しまだきくせん)大禅師の号が雲龍であることから雲龍塔と書かれています。
嶋田菊僊(しまだきくせん)は禅昌寺の住職時代に村人が雀に田んぼを荒らされて困っているという話を聞き
禅昌寺に雀を呼び寄せれば雀も村人も安泰であろうと考え開山堂の軒下に瓢箪を吊るして「雀のお宿」と
しました。下の2枚の写真は開山堂の遠景と軒下の瓢箪です。



上の写真は鐘楼。鐘には前述の嶋田菊僊大禅師の名前「雲龍菊僊」の銘が刻まれています。

上の写真は禅昌寺の境内社です。

上の写真は左甚五郎の作と言われる山門。読みづらいが「神撫山」の扁額が掲げられています。

上の写真が伊藤博文詩碑です。
「聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋 」と書かれています。
明治初年、伊藤博文が若くして初代兵庫県知事のころ、
秋の一日この禅昌寺に観楓に来たときの作です。
裏面には昭和26年3月 武貞一族大法要 と書かれています。
禅昌寺の床の間に同じく伊藤博文の詩(下記)が飾られています。
「清時不用問桃源携酒来尋紅葉邨
漫擬当年狂杜牧青尊相対到黄昏」
境内には句碑がいくつかあり過去にブログ記事を書いていますのでリンクしておきます。
滝瓢水(たきひょうすい)(1684~1762)江戸時代中期の句碑 in 禅昌寺
瀬川露城の句碑 in 禅昌寺 on 2012-5-16
境内の墓所には地元の武井家、武貞家、秋宗家などの板宿の旧家の墓に混じって有名な地震学者の
関谷 清景(せきや きよかげ/せいけい、安政元年12月11日(1855年1月28日)- 明治29年(1896年)1月8日)
博士の墓もあります。下の写真。

Wikipediaより関谷博士の略歴を引用紹介します。
関谷 清景は日本の機械学者、地震学者、火山学者。
明治時代に、地震観測網の必要性や震度階を提唱するなど、現代に通じる地震学の基礎を作り上げた。
日本初の地震学の教授。また、磐梯山噴火の際には、現地でアンケート調査を実施するなど、詳細の記録を収集した[1]。
1854年: 岐阜県大垣市に生まれる。
1876年: ロンドンに留学(機械学)。
1877年: 結核により帰国。
1878年: 東京大学理学部機械工学科助教になる。
1884年: 『地震報告心得』を取りまとめる。
1886年: 帝国大学理科大学地震学教授になる。
1888年: 磐梯山現地踏査。
1892年: 震災予防調査会創設。
1896年: 結核が悪化し死去。
明治28年(1895)結核療養のため禅昌寺に寄宿されていたようです。
関谷教授のあと、帝国大学の地震学教授の席は一時田中館愛橘が受持ち、ついで大森式地震計や大森公式で
名高い大森房吉が座ることになります。
地震学事始―開拓者・関谷清景の生涯 (1983年) (朝日選書〈237〉の中に禅昌寺で
次のようなエピソードが書かれています。
死の前年(1895年)の秋、療養の住居、須磨の禅昌寺の美しい楓を見物に来て酒宴をしていた人たちが、
枝を盛んに折るのを見かねて清景が制止した。
しかしその言葉を聞かないばかりか、車夫の数人が清景に悪言雑言を吐いた。
怒った清景は、この狼藉者を打ちのめしてやるから棒を持ってこい、と寺の小僧に命じたと言う。
歩行も不自由な体で、屈強な車夫を相手に立ち回りをしようとする、前後の見境もない行動にでようとするのは、
よほど激しい気性であったと推測されます。
禅昌寺(ぜんしょうじ)の基本情報
住所:神戸市須磨区禅昌寺町2丁目5-1 TEL:078-732-2590
山号:神撫山(じんぶさん) 宗派:臨済宗南禅寺派(大応派)
通称:雀のお宿(スズメ寺)や紅葉寺として知られています。
本尊:十一面観音。
創建:延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建
後光厳天皇(1338-1374 在位=1352-1371)の勅願による
禅昌寺は下記の摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区
Google地図にリンク


上の写真は現在の庫裡(方丈)。
室町時代には幕府から寺領三十六石を寄進したと言われる。
天正8年(1580)の豊臣秀吉の三木城攻撃時に焼かれ、その後桃山御殿の豊国亭を移して
方丈としていた。しかしこれは明治12年(1879)に火災で焼失した。
現在の方丈建物は大正4年(1915)に再建されたものである。
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられていた。

上の写真は歴代の住職のお墓です。

上の写真は禅昌寺の中興で大正時代に住職を務めた 嶋田菊僊(1872-1959)後に336世南禅寺管長のお墓。
嶋田菊僊(しまだきくせん)大禅師の号が雲龍であることから雲龍塔と書かれています。
嶋田菊僊(しまだきくせん)は禅昌寺の住職時代に村人が雀に田んぼを荒らされて困っているという話を聞き
禅昌寺に雀を呼び寄せれば雀も村人も安泰であろうと考え開山堂の軒下に瓢箪を吊るして「雀のお宿」と
しました。下の2枚の写真は開山堂の遠景と軒下の瓢箪です。



上の写真は鐘楼。鐘には前述の嶋田菊僊大禅師の名前「雲龍菊僊」の銘が刻まれています。

上の写真は禅昌寺の境内社です。

上の写真は左甚五郎の作と言われる山門。読みづらいが「神撫山」の扁額が掲げられています。

上の写真が伊藤博文詩碑です。
「聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋 」と書かれています。
明治初年、伊藤博文が若くして初代兵庫県知事のころ、
秋の一日この禅昌寺に観楓に来たときの作です。
裏面には昭和26年3月 武貞一族大法要 と書かれています。
禅昌寺の床の間に同じく伊藤博文の詩(下記)が飾られています。
「清時不用問桃源携酒来尋紅葉邨
漫擬当年狂杜牧青尊相対到黄昏」
境内には句碑がいくつかあり過去にブログ記事を書いていますのでリンクしておきます。
滝瓢水(たきひょうすい)(1684~1762)江戸時代中期の句碑 in 禅昌寺
瀬川露城の句碑 in 禅昌寺 on 2012-5-16
境内の墓所には地元の武井家、武貞家、秋宗家などの板宿の旧家の墓に混じって有名な地震学者の
関谷 清景(せきや きよかげ/せいけい、安政元年12月11日(1855年1月28日)- 明治29年(1896年)1月8日)
博士の墓もあります。下の写真。

Wikipediaより関谷博士の略歴を引用紹介します。
関谷 清景は日本の機械学者、地震学者、火山学者。
明治時代に、地震観測網の必要性や震度階を提唱するなど、現代に通じる地震学の基礎を作り上げた。
日本初の地震学の教授。また、磐梯山噴火の際には、現地でアンケート調査を実施するなど、詳細の記録を収集した[1]。
1854年: 岐阜県大垣市に生まれる。
1876年: ロンドンに留学(機械学)。
1877年: 結核により帰国。
1878年: 東京大学理学部機械工学科助教になる。
1884年: 『地震報告心得』を取りまとめる。
1886年: 帝国大学理科大学地震学教授になる。
1888年: 磐梯山現地踏査。
1892年: 震災予防調査会創設。
1896年: 結核が悪化し死去。
明治28年(1895)結核療養のため禅昌寺に寄宿されていたようです。
関谷教授のあと、帝国大学の地震学教授の席は一時田中館愛橘が受持ち、ついで大森式地震計や大森公式で
名高い大森房吉が座ることになります。
地震学事始―開拓者・関谷清景の生涯 (1983年) (朝日選書〈237〉の中に禅昌寺で
次のようなエピソードが書かれています。
死の前年(1895年)の秋、療養の住居、須磨の禅昌寺の美しい楓を見物に来て酒宴をしていた人たちが、
枝を盛んに折るのを見かねて清景が制止した。
しかしその言葉を聞かないばかりか、車夫の数人が清景に悪言雑言を吐いた。
怒った清景は、この狼藉者を打ちのめしてやるから棒を持ってこい、と寺の小僧に命じたと言う。
歩行も不自由な体で、屈強な車夫を相手に立ち回りをしようとする、前後の見境もない行動にでようとするのは、
よほど激しい気性であったと推測されます。