2014年10月4日から10月6日まで2泊3日で城下町萩を訪問しましたのでシリーズで紹介していきます。
本日はその第2回で「萩市指定史跡 桂太郎旧宅」を写真・動画で紹介します。
英文表記:Taro Katsura Old Residence
訪問日は2014年10月6日
第1回 旧湯川家屋敷
桂太郎旧宅の基本情報
所在地:山口県萩市川島73番地の2
問い合わせ先:萩市江向510 0838-25-3139 萩市観光課 (平日のみ)
萩市椿3537-3 0838-25-1750 萩市観光協会
開館時間:9:00~17:00 観覧料:100円/1回
萩市指定史跡指定年月日:平成10年(1998)1月27日
Goo地図 http://map.goo.ne.jp/place/35000257206/
上は桂太郎旧宅の庭の桂太郎の銅像(拓殖大学より寄贈)と水琴窟を中心に撮った動画です
Wikipediaより桂太郎元総理大臣の略歴を紹介します。
桂 太郎(弘化4年(1847年)-大正2年(1913年))は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄。元老井上馨とは義理の親子の関係。
台湾総督、陸軍大臣、内閣総理大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、元老、内大臣、外務大臣などを歴任
桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の一子として弘化4年(1847) 萩城下の平安古に生まれ、山菜のときに川島に移り住んだ。
藩校明倫館で学び、戊辰戦争では奥羽地方鎮撫総督の参謀として活躍した。明治34年(1901) 内閣総理大臣となり、
以後3度にわたって組閣した。また拓殖大学の創立者としても著名である。
旧宅は、明治40年(1907) に桂が少年時代を過ごした川島の土地を買い戻して新築したものである。
さらに詳細はこちら

上の写真は桂太郎旧宅の入り口よりの遠景

上の写真は桂太郎旧宅付近藍場川の鯉


上の2枚の写真は桂太郎旧宅の現地説明板。

上の写真は桂太郎元総理の略歴が書かれた現地説明板

上の写真は桂太郎旧宅の庭にある水琴窟の原理図です。

上の写真は桂太郎旧宅の平面図 (現地で入手したパンフレットより)
桂太郎の紹介サイト
明治宰相列伝
桂太郎の墓は遺言により吉田松陰の墓所がある東京都世田谷区若林4丁目35-1の松陰神社に
隣接した場所にあるそうです。
世田谷区の松陰神社の説明 By Wikipedia
東京都世田谷区若林に所在する。旧社格は府社。付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。
東急世田谷線松陰神社前駅下車。
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、
高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。
松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、
青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。
松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允が
これを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。
桂自身の遺言により、この地に埋葬された。
徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。
本日はその第2回で「萩市指定史跡 桂太郎旧宅」を写真・動画で紹介します。
英文表記:Taro Katsura Old Residence
訪問日は2014年10月6日
第1回 旧湯川家屋敷
桂太郎旧宅の基本情報
所在地:山口県萩市川島73番地の2
問い合わせ先:萩市江向510 0838-25-3139 萩市観光課 (平日のみ)
萩市椿3537-3 0838-25-1750 萩市観光協会
開館時間:9:00~17:00 観覧料:100円/1回
萩市指定史跡指定年月日:平成10年(1998)1月27日
Goo地図 http://map.goo.ne.jp/place/35000257206/
上は桂太郎旧宅の庭の桂太郎の銅像(拓殖大学より寄贈)と水琴窟を中心に撮った動画です
Wikipediaより桂太郎元総理大臣の略歴を紹介します。
桂 太郎(弘化4年(1847年)-大正2年(1913年))は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄。元老井上馨とは義理の親子の関係。
台湾総督、陸軍大臣、内閣総理大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、元老、内大臣、外務大臣などを歴任
桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の一子として弘化4年(1847) 萩城下の平安古に生まれ、山菜のときに川島に移り住んだ。
藩校明倫館で学び、戊辰戦争では奥羽地方鎮撫総督の参謀として活躍した。明治34年(1901) 内閣総理大臣となり、
以後3度にわたって組閣した。また拓殖大学の創立者としても著名である。
旧宅は、明治40年(1907) に桂が少年時代を過ごした川島の土地を買い戻して新築したものである。
さらに詳細はこちら

上の写真は桂太郎旧宅の入り口よりの遠景

上の写真は桂太郎旧宅付近藍場川の鯉


上の2枚の写真は桂太郎旧宅の現地説明板。

上の写真は桂太郎元総理の略歴が書かれた現地説明板

上の写真は桂太郎旧宅の庭にある水琴窟の原理図です。

上の写真は桂太郎旧宅の平面図 (現地で入手したパンフレットより)
桂太郎の紹介サイト
明治宰相列伝
桂太郎の墓は遺言により吉田松陰の墓所がある東京都世田谷区若林4丁目35-1の松陰神社に
隣接した場所にあるそうです。
世田谷区の松陰神社の説明 By Wikipedia
東京都世田谷区若林に所在する。旧社格は府社。付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。
東急世田谷線松陰神社前駅下車。
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、
高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。
松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、
青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。
松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允が
これを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。
桂自身の遺言により、この地に埋葬された。
徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。