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神饌餅つき神事 in 多井畑厄除八幡宮  on 2016-1-16

2016年01月17日 15時56分28秒 | 神戸情報
2016年1月16日に多井畑厄除八幡宮で行われた神饌餅つき神事を紹介します。

1月18日からの多井畑厄除八幡宮厄除祭に奉納の御供物として神饌餅(しんせんもち)
をつくるもちつき神事です。
8人の神主役の方々が、「エイトエイト」の掛け声で杵を持ち餅をついていきます。
8人なのでエイトという掛け声になったのか?
多井畑厄除八幡宮は地元では多井畑の厄神さんとか多井畑厄神と呼ばれ親しまれて
います.


Wikipediaより神饌の言葉の意味と解説を引用させていただきます。
「神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のことである。
 御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。
 一年の節目に行われる日本の祭は神事と祭礼から成り立ち、神事を行う際には
 その土地の人々が特別な恩恵を享受した食物を神饌として捧げ、神迎えを行って
 きた。捧げられる神饌は主食である米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に
 採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式の
 終わった後には捧げたものを共にいただくことにより、神との一体感を持ち、
 加護と恩恵を得ようする直会(なおらい)とよばれる儀式が行われる。
 2012年現在では、1871年(明治4年)に打ち出された祭式次第に準拠した
 生饌と呼ばれる素材そのものを献供する丸物神饌が一般的になったが、
 それ以前には調理や加工を行った熟饌、あるいは特殊神饌とよばれる日常生活での
 食文化の影響が伺えるものも神饌として献供されており、一部の神社では今なお
 伝統に基づいてこの型式の神饌が奉げられている。 2012年現在、特殊神饌の献供
 を行っている神社は全国各地に存在しているが、代表的な例として以下のような
 神社、神饌が挙げられる。以下略」


多井畑厄除八幡宮について簡単に紹介しておきます。

多井畑厄除八幡宮(多井畑厄神)の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
TEL:078-741-0827


多井畑厄神のHP


上の写真は2016年1月16日撮影の拝殿。


上の動画が当日の神饌餅つき神事の様子です。


上の写真はハイライトの餅を上げるシーンです。


上の動画は当日の多井畑厄神の境内と神饌餅つき神事の様子です。


上の写真は拝殿の中に掲げられていた神饌餅つき神事の看板です。


上の写真は神饌餅つき神事の行われた建物の遠景です。


ここで話題を変え寛政8年から10年(1796~98)に刊行された当時の旅行ガイド
「摂津名所図会」の中に観られる田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)に
ついて書いていきます。


寛政8年から10年(1796~98)に刊行された当時の旅行ガイド「摂津名所図会」
の中にも田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)とその周辺が紹介されています。
(上の写真)


鏡の池の説明書き:
  八幡宮の下半町ばかり西にあり。諺(ことわざ)に云ふ、松風・村雨
  ここにて水鏡を見て髪を梳り(けづり)しとぞ。

 
  現況の写真(鏡の井)


松風村雨二人墓説明書き:
  田井畑の村中にあり。この地の字を畑殿といふ。古老云ふ、むかしこの所の
  村長畑殿の娘に、もしほ・にふじとてあり。須磨の浦へ潮を汲みに通ひし時、
  在原行平卿二人をめされて松風・村雨と呼びたまふ。かの卿帰洛の後ここに
  帰り終はりをとりしとぞ。すべて今も海浜は湖をくんで米を煎て常に食す。
  いはゆる潮雑水これなり。その頃もこの山民塩を調ふる事なく、日毎に潮水を
  汲んで飯事の用をなす事古今に変はらず。


  現況の写真紹介(松風村雨二人墓)

田井畑鷲尾旧屋(たゐのはたわしのをのきゆうおく)の説明:
  田井畑の村長に鷲尾次郎兵衛といふ者あり。この祖先一谷合戦の時、
  九郎判官殿に鵯越の嶮路を案内しける支族の中なり。旧記紛失してその
  証詳らかならず。兜鎧(かぶとよろひ) その時拝領しけるとなり。
  兜は筋甲にて鍬形は独鈷の彫物あり。鎧は胴六枚札にて左右に四所蝶番あり。
  引き合はせは後の方なり。また引き合はせの上を覆ふ背板あり。
  長さは押着の板より下散の裳までこれあり。縅は惣紫糸にて裳は紅なり。
  革は承平革、小手袖その外とも草花の模様あり。また喉輸佩立等もこれあり。
  空穂(うつぼ) 熊毛をもつて製りたるなり。征矢十六筋(そやじゅうろくすじ) 
  根は雁俣鎧(かりまたよろい)通しの類なり。大小にて十六本あり。




上の写真は疫神祭塚の由緒が書かれた石碑。
「 此の塚は疫神祭塚という。四囲繞らすに築地の如きものを以てし、その斜面に濠の跡を存在せり。称徳天皇の御宇神護景雲4年6月甲寅の日勅旨を以て摂津播磨の境なる此の処に疫神を祀りて厄災を除き給えり。この事は続日本紀に明らかにして、延喜式巻3にも載せられたり。爾来此の処をば厄除の霊地として存すること久し。実に1200余年の遺跡とす。」


上の写真は疫神祭塚と書かれた石碑




上の2枚の写真(2014-1-20撮影)は境内の摂社(高良社、稲荷社など)

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