2022年3月7日(月)に累計の訪問者数が200万uuを突破しました。
憶えの為、記載しておきます。
本ブログも2004年に開設していますので17年間以上続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。
直近の週間アクセス数
(2022.2.13 〜 2022.2.19) 7,158UU、28,080PV 305位
(2022.2.20 〜 2022.2.26) 7,412UU、26,291PV 297位
アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。
尚、2022年3月7日(月)現在の総閲覧数は7,419,382PVです
過去のアクセス数の推移は下記ブログで記載しています。
累計訪問者数 180万を突破 on 2021-8-28 副題:横尾なごみ坂付近の花壇 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
195万を達成した時の記録
累計訪問者数 195万を突破 on 2022-1-19 副題:時候と最近のコロナ感染状況 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
190万を達成した時の記録
累計訪問者数 190万を突破 on 2021-11-30 副題:時候と神戸日向遺跡 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
185万を達成した時の記録
累計訪問者数 185万を突破 on 2021-10-16 副題:ジェームス邸 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
3月6日頃は24節気の第3節「啓蟄(けいちつ)」です。
次の節気「春分」の15日前。草木の芽生えがさかんになり、陽の光の強さも春本番に
向かっているのがよくわかる頃です。
また、3月5日~9日は日本の七十二候の第七候 蟄虫戸を啓く(すごもりむしとをひらく)
暖かくなって草木が芽を吹き始めると、その気配に誘われて、小さな虫達が眠りに
ついていた部屋の戸を開くように現れだします。
われわれ人間もコロナ禍で巣ごもり生活から抜け出すことができれば良いのですが
第6波におけるコロナの勢いは凄まじくいつ終息するのか見通せない今日この頃です。
絵が無いと寂しいので3月5日(土)の21時からABC朝日(6ch)で放送された2時間ドラマ
津田梅子 ~お札になった留学生~から何枚か写真を添付します。
ドラマの概要をまず書いておきます。
明治4年(1871)、6歳の津田梅(広瀬すず)は尊敬する父・津田仙(伊藤英明)の
すすめで、岩倉使節団の随員と共に日本初の女子留学生としてアメリカに渡ることになった。
当時の日本には女性が質の高い教育を受けられる場がなく、優秀な男性を育てるためには
母親にも教養が必要だとする北海道開拓使の黒田清隆の肝いりで、女子留学生の派遣が
決まったのだ。梅のほかには14歳の吉益亮と上田悌、11歳の山川捨松(池田エライザ)、
9歳の永井繁(佐久間由衣)がおり、メンバーの中で最も幼いのが6歳の梅だった。
仙から「国の期待を背負っていることを忘れるな」と諭された梅子は、小さいながらに
母・初(内田有紀)ら家族と離れる寂しさをこらえ、使命を胸に刻んで渡米する。
アメリカで学びはじめて1年後、目の病気にかかった亮と激しいホームシックに襲われた
悌の帰国が決まった。アメリカで面倒を見てくれたのは黒田清隆に女子留学生の派遣を
進言した森有礼(ディーン・フジオカ)。11年間の留学を終えた山川捨松と津田梅子は
明治15年(1882)横浜に到着します。1年前に留学を予定通り終えていた永井繁子と共に
「誰もが学ぶことのできる英語学校を作ろう」と夢を語り合い奮戦するが中々理解が
得られず実現までには長い時間を要した。最終的には明治33年(1900)の秋に女子英学塾
(のちの津田塾大)が捨松、梅、繁3人の支援で開学することになります。
ドラマでは繁の紹介で出会った大学教授・神田乃武(井之脇海)に胸をときめかせる梅の姿。
梅が伊藤博文(田中圭)の妻子の家庭教師として住み込みで働くことになる姿などもありました。
また1年で帰国することになった吉益 亮(宮澤エマ)が小さいながらも英語を教える私塾を
開設したもののコレラで死去してしまう事も描かれていました。
上の写真は昭和4年(1929)の夏、死の直前の津田梅子(原田美枝子)
上の2枚の写真は書斎での津田梅子。最後の日記の文は昨夜は嵐で終わる。
上の写真はアメリカに向けて出航する5人の女子留学生の場面
実際の姿について、下記ブログで書いた内容を再掲します。
大山捨松の生涯 ~その情熱と志~ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真はWikipedia(岩倉使節団)で使用の米国留学女学生
左から、永井繁子 (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、
山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳。
5人の略歴は下記のとおり(Wikipediaより)年齢は出発時
永井しげ:永井繁子(ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘
(旧幕臣・永井久太郎の養女)。
上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、
後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。
吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、
1885年以前に死去。
津田うめ:津田梅子(つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・津田仙の娘。
山川捨松(やまかわ すてまつ)、満11歳、会津藩の国家老・山川尚江重固の末娘。
上の2枚の写真も女子留学生に関する資料
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page212
女子留学生の派遣は開拓次官・黒田清隆の建議による。
上の写真は米国での生活。
上の写真は17歳で帰国した津田梅子(広瀬すず)と父の津田仙(伊藤英明)
上の写真は一番左の瓜生(旧姓:永井)茂子(佐久間由衣)が神田乃武(井之脇海)を
山川捨松(池田エライザ)と津田梅(広瀬すず)に紹介する場面
上の写真は桃夭女塾(現在の実践女子大学)で紅茶を飲む時の作法を教える津田梅子(中央)
と同席の塾長、下田歌子(平岩紙)の場面・・・左上の立っている人物
下田歌子は学習院の前身である華族女学校でも女子教育に注力していました。
上の写真は明治33年(1900)の秋に女子英学塾(のちの津田塾大)において、
捨松、梅、繁の3人が女学生を集めて開学の挨拶をする場面
上述のドラマについてはもう少し詳しく後日、纏めてみようと思っています。
実際のお話については下に添付の動画が詳しい。
大山捨松の生涯 ~その情熱と志~