CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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米国の中堅クラスの2つの銀行(SVBとシグネチャー・バンク)の破綻 on 2023-3-10&3-12

2023年03月15日 16時01分19秒 | Gooニュース
14日、米国の中堅クラスの2つの銀行が破綻し、これを受けて東京の株式相場が
大幅に値下がりしたのニュースがあった。
記憶に留めるため、メモ書きとして残す。

ニューヨーク州金融監督当局(CNBC)は2023年3月12日、同州地盤の銀行シグネチャー・バンク
(Signature Bank)の事業を同日付で停止したと発表した。
3月10日に経営破綻したシリコンバレーバンク(SVB)に続く破綻となる。資産規模で全米29位のシグネチャー・バンクは米連邦預金保険公社(FDIC)の管理下に入り、預金は全額保護される。

シリコンバレーバンク(SVB、米国カルフォニア州)の総資産は2090億ドル(約28兆円)で
2008年に倒産したワシントン・ミューチュアル(総資産3,070億ドル)に次ぐ2番目の
規模の米国の銀行破綻となった。
SVBは1983年の創業でIT企業が集積するシリコンバレーなどの新興企業を主な
貸出する全米16位の資産規模をもつ中堅の銀行である。
倒産した要因はFRBの急速な利上げ(金利負担の増加)によって貸出先の経営が悪化し、
預金が減少。また金利上昇によって米国債など保有する有価証券にも含み損が発生した。
2つの米国銀行の破綻は3月21日~22日に開催予定の連邦公開市場委員会(FOMC)で
議論される利上げ幅の拡大の判断に大きな影響があると思われる。

尚、預金は全額保護、FRBは銀行向けの緊急融資枠を設定する。

日本の金融機関への影響は軽微とみられる。


上の写真は3月13日(月)朝のNHK総合テレビ「おはよう日本」で取り上げたSVBの倒産
に関する説明パネルです。

関連サイト

 【緊急】“シリコンバレー・ショック”続く NYシグネチャー銀行も破綻【滝沢孝祐の「基礎から解説 アメリカ経済」】(2023年3月13日)  

 

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神戸ゆかりの有名人 その14  扇千景さん

2023年03月15日 03時24分41秒 | 神戸情報
本日は神戸ゆかりの有名人シリーズの第14回で2023年3月9日、食道胃接合部がん で
亡くなった元参院議員で女優の扇千景(おうぎ・ちかげ、本名・林寛子、旧姓・木村)さん
について神戸との関係を中心に紹介していきます。
まずは、ご逝去に心よりご冥福を祈ります。
告別式は3月27日正午から東京・増上寺光摂殿。
喪主は長男、中村鴈治郎(本名=林智太郎)氏。

本名の寛子から愛称は「かんこ」とも呼ばれていたそうです。

 扇千景さんは昭和8年(1933)5月10日 兵庫県神戸市須磨区に  銀行員の父・木村松太郎、
母・みさゑの三女として生まれる。兵庫県立神戸高等学校卒業後、
大学進学を望んでいたが、父親の強い希望により大学進学をあきらめる。
友人が勝手に願書を送付し、受験して合格した宝塚音楽学校に、父親への反発もあり、
宝塚音楽学校に進学する。


上の2枚の写真は生前の扇千景さん
出典:3月13日 19:00からのNHK総合テレビ News7より
   MHKプラスで視聴

以下、Wikipediaからの引用
昭和29年(1954)、宝塚歌劇団に41期生として入団。入団時の成績は4番。
星組公演「春の踊り」で初舞台。花組に配属後、映画専科へと異動。
宝塚在団中に宝塚映画「快傑鷹 第一篇 蛟竜風雲の巻」で映画デビュー。
以降もテレビドラマや映画に出演し、1956年には「夜霧の女」で春日野八千代の
相手役として盲目の少女ジェニイを演じ、新人演劇賞を受賞した。

昭和32年(1957)5月31日付で歌舞伎役者の2代目中村扇雀(後の4代目坂田藤十郎)
との結婚のため退団。1958年に結婚し、しばらく芸能活動から遠ざかった。
昭和34年(1959〉2月6日,長男四代目 中村 鴈治郎、昭和35年(1960)12月19日、
次男の三代目 中村 扇雀を出産した。
知人の薦めにより日本教育テレビ(現テレビ朝日)制作の単発テレビドラマ
『君はいま何を見つめている』(1959年10月29日放送)に出演する。
本作品で第14回文部省芸術祭個人奨励賞を受賞し、再デビューする。

以下の経歴については省略します。

神戸での思い出として神戸新聞NEXTが記事を書かれています。(下記サイト)
 上記は神戸新聞2020年9月7日、戦後75年ラストメッセージの記事と同じ。
その中からいくつかのエピソードを紹介します。
扇千景さんは神戸が大好きで。扇千景の扇は神戸港の別名『扇港』から取ったとのこと。
年取ったら神戸に住みたいなって思っていたとのこと。
1945年8月15日、小学校5年生の時、神戸市長田区から鳥取県岩美町の旅館に疎開していた。
扇千景さんは幼少期の思いでを次のように語られています。
「小学校に入る前から虚弱体質で、4年生まで養護学級。みんなが体操していても一緒にさせてもらえなかった。それが集団疎開で丈夫になったの。川で洗濯したり、冬は竹を半分に割ったのをスキーにして学校に行ったり。精神的にも強くなった。神戸高校のテニス部に100人入って、最後まで残ったのは4人だけ。私は県の16強までいったと思う。宝塚を受験した時の写真は、顔が真っ黒でした」
終戦から2か月後、疎開先から神戸市に戻った。
「神戸駅に親が迎えにきた。父親がその時、神戸銀行の灘支店の支店長をしていて。
その2階に連れていかれて『ここが今住んでいるところだ』と言われたそうです。
扇千景さんの2人の姉についてのエピソードも書かれています。
 
 
シリーズ過去の記事
第7回 鳳蘭さん

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