本日は須磨寺の参道沿いに令和4年(2022)に整備された島守の広場を写真紹介します。
上の3枚の写真はいろんな角度から撮った島守の広場 撮影:2022-9-17
島守の広場の住所表示は神戸市須磨区須磨寺町3丁目2-11
所在地のGoo地図を添付しておきます。
上の写真はGoogle地図で島守の広場の周辺の地図です
上の写真は須磨島守の会によって建てられた顕彰パネル 撮影2022-9-17
除幕式は2022年4月23日に行われたようです。
パネルに書かれている内容をそのまま転記しておきます。
島守の広場 島田叡
太平洋戦争末期の米軍上陸直前、昭和20年1月31日に官選で沖縄県知事となり、
同年6月18日に消息を断つまでの間、食料調達や本島北部、九州への疎開促進、
10万人を超える沖縄県民の命を決死の覚悟で守り抜いた。
沖縄では現在も「島守」と称され敬愛されている。
生家があったとされるこの地より、その功績を次世代へと継承、沖縄県との
友愛の礎となるよう「琉球寒緋桜」を植栽した広場を整備し、平和を祈念する。
令和4年3月 須磨島守の会
(島守の広場の植栽は、県民まちなみ緑化事業を活用し整備しました。)
島田 叡知事と最後まで仕事に邁進した荒井退造警察部長の存在が大きかったのも
忘れてはならない。
上の写真は2022年4月23日の午後、島田叡の顕彰パネルの除幕式と琉球寒緋桜の植樹式に
集まった人々の集合写真。
出典:神戸佳族 Vol.98(2022年9・10号)Page21
上記の神戸佳族 Vol.98(2022年9・10号)Page20で島守の広場ができるまでの経緯を
須磨寺の小池弘三貫主が記載されていますので要約して紹介します。
須磨寺大仏師・山高龍雲先生の工房が2020年末まであり、その隣に庭造りが趣味の老夫婦が
住んでおられましたが2017年に諸般の事情により転居され須磨寺が買い取ることとなった。
どちらの家も古く、住むための改修には大変な費用がかかるため何か意義のある緑の多い
広場にしようという結論に達した。
須磨区選出の県議、市議のアドバイスもあり「県民まちなみ緑化事業」を利用して
島田叡さんを顕彰する広場として整備することになった。
2023-4-16に追記
関連サイト
神戸・須磨の誇り 島田叡さんの「島守の広場」須磨寺に開設
島守の広場 島田叡 まさかあの島田叡(アキラ)さん=沖縄県民に敬愛される沖縄戦最後の沖縄県知事、の生家跡に出会えるとは❗️須磨島守の会の皆さまありがとうございます😭😭😭@gogotenchu
略歴
島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月27日?)
氏について略歴を簡単に書いておきます。
明治34年(1901)12月25日、開業医・島田五十三郎の長男として生まれる
出生地:神戸市須磨区西須磨上樋詰1番地(現在の須磨寺町2丁目2番地)
生家の写真を下記ブログで紹介しています。
野球のユニフォーム姿の島田叡さんの写真を下記ブログで紹介しています。
大正14年(1925) 東大法学部政治学科を卒業
大正14年(1925)4月 山梨県属 内務官吏 を皮切りに全国を転勤して歩く
昭和3年(1928)1月 徳島県保安課長、昭和4年(1929)12月 岡山県保安課長
昭和6年(1931)1月 三重県警務課長、昭和7年(1932)1月 長崎県警務課長
昭和9年(1934)11月 福岡県警務課長、昭和12年(1937) 大阪府土木部総務課長
昭和13年(1938)1月 佐賀県警察部長、昭和17年(1942)7月 千葉県総務部長・内政部長
昭和18年(1943)3月 愛知県警察部長
昭和19年8月(1944) 大阪府内政部長
昭和19年(1944)10月10日 沖縄に初めて米軍が空爆(日本軍の反撃なし)
昭和20年(1945)1月8日 当時の大阪府知事より沖縄県知事への異動の打診
「誰かが、どうしても行かなあかんのなら、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、
日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して単身沖縄へ飛んだ。
昭和20年(1945)1月31日 沖縄県知事に単身着任
昭和20年(1945)2月26日、決戦施策の3大目標(国土防衛の強化、食料自給、自主輸送の確立)を発表
島田 叡氏の功績
(1)着任後に真っ先にやったのが沖縄住民を安全な北側や九州へ疎開させた
約10万人がこれにより救われたといわれる
(2)台湾総督府総務長官(成田一郎元兵庫県知事)に米3,000石を調達してもらう
当初、沖縄にこの物資が到達しなかったということになっていたが
52年後に米が沖縄に到達していたことが証明された
(3)大田実海軍中将(1891-1945)との間で官庁と軍の関係修復に成功
自決する(6月13日)前の昭和20年(1945)6月6日に海軍次官あてに
打った電信(下に添付)は余りにも有名です。
念のためにその電報の内容をWikipediaより引用添付させていただきます。
6月6日20:16発 6月7日18:05再発 6月7日17:32受信
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク
三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ
非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ
暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ
捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ
軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ
生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ル
モノアリ所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ
供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目
ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力
皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ
(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ
抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト
化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
関連ブログ