国指定 特別遺跡 63カ所のリストを作成してみました。
数が多いので2回に分けて記述していきます。今回はその後半です。前半は下記リンク。
特別史跡は史跡の中でも特別重要な史跡で世界遺産、国宝、特別名勝、日本100名城
等にもなっている特別史跡も多数あります。
一度は訪問しておきたい場所のリストでもあります。
手元に写真があるものは添付し無いものは公式サイト等、関連サイトにリンクしておきます。
都道府県 指定日 時代
㊱ 山田寺跡 奈良 昭和27年(1952)3月29日 飛鳥
指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
上の写真は約1370年前の山田寺と周辺の様子推定図
出典:藤原京資料室の大パノラマ模型の中の山田寺付近の部分写真
当時の様子がビジュアルに想像できます。
詳細は下記ブログで書いています。
㊲ 本薬師寺跡 奈良 昭和27年(1952)3月29日 飛鳥
本薬師寺は藤原京(現橿原市)にあった寺院跡です。
現在奈良市の「薬師寺」の前身寺院です。
指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
上の写真は本薬師寺跡の金堂付近の現況と礎石(2016-12-22撮影)
㊳ 平城宮跡 奈良 昭和27年(1952)3月29日 奈良
世界遺産でもあります。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
上の写真は平城宮跡の推定復元図 平城宮の説明板より 撮影:2016-10-5
平城宮は約1Km四方の敷地と東側に東西約250m、南北750mの張り出し部を持ち、
その南半分の南北350mの範囲を東院地区と呼んでおり皇太子がいる時はその居所
「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」、「東院」、「東内」
として利用され、神護景雲元年(767)に完成した東院玉殿(瑠璃色の瓦を葺き彩色)
宝亀年間(770~780)には「揚梅宮(やまもものみや)」に改造
高麗福信(*1)が造営卿として造営を担当
㊴ 文殊院西古墳 奈良 昭和27年(1952)3月29日 古墳
文殊院の境内にある古墳(円墳)で訪問して写真を撮った記憶がありますが
写真が見つからないので関連サイトにリンクしておきます。
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
㊵ 巣山古墳 奈良 昭和27年(1952)3月29日 古墳
巣山古墳は、奈良県北葛城郡広陵町三吉にある古墳 (4-5Cの前方後円墳)
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
㊶ 石舞台古墳 奈良 昭和27年(1952)3月29日 古墳
石舞台古墳は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。
埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
上の写真は石舞台古墳の現況 方墳であることが確認されています。
何度か訪問していますが写真が出てこないのでこの写真を添付しました。
出典:NHK総合テレビ2020年4月18日19:30より放送 「ブラタモリ#162」
「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?~」
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
㊷ 藤原宮跡 奈良 昭和27年(1952)3月29日 飛鳥
藤原宮跡は奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡の中心史跡
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
上の写真は橿原市 藤原京資料室展示の藤原京の模型です。撮影:2016-12-22
㊸ 高松塚古墳 奈良 昭和48年(1973)4月26日 古墳
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
上の写真は高松塚古墳の外観 撮影:2011年5月16日
上の写真は高松塚古墳壁画の西壁です。
出典:写真撮影禁止だったので展示ガイドのリーフレットよりコピー。
西壁には飛鳥美人として超有名になった女子群像(写真の右手)、真ん中に白虎
左手に男子群像、さらに白虎の上方に月像が配置されています。
㊹ 平城京 奈良 昭和53年(1978)10月27日 奈良
左京三条二坊宮跡庭園
宮跡庭園は奈良の主要道路の一つである「大宮通」沿いの、かつての奈良そごうや
イトーヨーカ堂奈良店、現在のミ・ナーラの向かい正面に位置する遺跡(庭園)です。
知名度が低く訪問する人も少ないが奈良時代の「庭園」がそのまま残る見応えのある遺構です。
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
上の写真は2015年12月20日に訪問した平城京左京三条二坊宮跡
㊺ キトラ古墳 奈良 平成12年(2000)11月24日 古墳
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
上の写真はキトラ古墳 撮影:2016-10-6
㊻ 岩橋千塚古墳群 和歌山 昭和27年(1952)3月29日 古墳
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
かんさい情報ネットten. 2023年7月19日で放送紹介されました。
その内容は下にGooで共有させていただいたYoutube動画のとおりです。
【若一調査隊】国内最大級の石室内へ潜入!ここでしか見られない埴輪に遭遇…特別史跡『岩橋千塚古墳群』を徹底調査!
㊼ 斎尾廃寺跡 鳥取 昭和27年(1952)3月29日 奈良
(大高野官衙遺跡)
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
文化庁のデータベース解説文
鳥取県の中央部,古代においては伯耆(ほうき)国(のくに)の中央部に位置する八橋(やばせ)郡(ぐん)に所在する。遺跡の西方約350mには白鳳期(はくほうき)の寺院跡で,特別史跡斎(さい)尾(のお)廃寺(はいじ)跡(あと)がある。
調査は,昭和56年まで遡り,礎石(そせき)が列をなしていることが明らかとなり,炭化米が確認されたことから,八橋郡の正倉(しょうそう)あるいは郷倉(ごうそう)と推測された。その後の調査の結果,南北105m,東西130m以上の範囲を,北・東・南を溝によって区画され,西側は自然地形によって区画された長方形に近い敷地内に企画性をもって整然と並ぶ総柱(そうばしら)礎石(そせき)建物(たてもの)11棟,総柱(そうばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)5棟,側柱(がわばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)7棟と掘立柱塀3条を検出した。礎石の中には被熱(ひねつ)痕(こん)を残すものも認められ,須恵器(すえき)や土師器(はじき)などから,Ⅰ期は7世紀末~8世紀中葉,Ⅱ期が8世紀後葉~9世紀前半,Ⅲ期が9世紀後半の変遷をたどったことが知られる。
この遺跡は倉庫令に記されている防湿に適した台地上に立地し,総柱の高床倉庫が建て替えによって踏襲されながらも整然と並んでおり,稲穀収蔵施設である正倉の姿を具体的に示すものである。また,礎石に火災と考えられる被熱痕があることと焼米の存在は,正倉の火災との関係を示唆するものである。このように,確認された遺構は八橋郡郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))の正倉の可能性が高く,古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である。
㊽ 旧閑谷学校 岡山 昭和29年(1954)3月20日 江戸
附 椿山・石門・津田永忠宅及び 黄葉亭
指定基準:四.学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡
文化庁データベースの解説文:
閑谷学校は、岡山藩主池田光政<いけだみつまさ>(1609~82)が、家臣津田永忠<つだながただ>(1640~1707)に命じて創設した藩営の学校で、寛文10年(1670)に備前国和気郡木谷村の地に仮学校を設けたのがその起源である。学校には、藩士の子弟だけでなく、百姓の子弟にも入学を許した。また、学校経営のために近隣の所領が「学田」とされた。元禄年間には、校地を囲む石塀や聖廟・講堂をはじめとする施設の多くが整備された。
光政と永忠の没後、藩の方針により一時廃校の危機に見舞われたが、その後は順調に発展し、江戸時代後期には、郷学<ごうがく>として全国的に名を知られた。維新後の明治3年(1870)に閉鎖されたが、同6年に有志による私立学校として再興、その後、県立中学校、高等学校となり、県立和気高等学校閑谷校舎として存続したが、昭和39年(1964)に閉校した。
旧校地は特別史跡、建物は講堂が国宝、その他校内の主要建物は重要文化財に指定されている。旧校地の一部に社会教育施設県青少年教育センター閑谷学校が設立され、その名をとどめている。
本資料は、江戸時代の閑谷学校で用いられた典籍類を中心として、一部関連の資料を交えた4,041点からなる。典籍類は、学校の文庫(重文)に保管されてきたもので、193種・4,034冊が伝来している。大半は漢籍で、一部和書を交える。明版の『十三経註疏<じゅうさんきょうちゅうそ>』は、開校に際して光政が手沢本の中から下賜したものと伝えられる。和刻の儒書の中には、多く17世紀後半の刊記をもつものが含まれ、草創期の学校整備に併せて購入されたものと思われる。『小学』『蒙求<もうぎゅう>』といった初学者向けの典籍は複数部が伝来し、学校の蔵書としての特徴を示している。また、光政の教学に影響を与えた儒者中村惕斎<てきさい>(之欽<しきん>)の著書の木活字本は類品の少ないものである。
また、絵画および器物が7点含まれている。文化10年(1813)の学校の景観を描いた「閑谷学図」と、隣接地に設けられた茶室黄葉亭を描き、頼山陽<らいさんよう>の撰した「黄葉亭記」を添えた「黄葉亭図」は、江戸時代後期の閑谷学校の実態を伝える。「習字所扁額<しゅうじしょへんがく>」は、生徒の学習場の建物に掲げられていたものである。
本資料は、江戸時代の郷学を代表する閑谷学校でその教育に用いられ、大きな散逸なく伝存してきたものであり、校地・校舎とともに保存されてきたことと相まって、わが国教育史上に意義が深い。
㊾ 厳島 広島 昭和27年(1952)11月22日 平安
世界遺産でもあります。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
日本三景安芸の宮島の最も有名なのは厳島神社であり、そのシンボルの鳥居の
写真を撮りました。 撮影年月日は不明だが2005年?頃か。
神社の創建は推古天皇即位された年(593)とされ仁安3年(1168)平清盛によって現在の
姿に造営された。現在の大鳥居は明治8年(1875)に建てられたもので
平安期からは8代目である。
㊿ 廉塾ならびに菅茶山旧宅 広島 昭和28年(1953)3月31日 江戸
江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748~1827)が故郷の福山市神辺町に「廉塾」と呼ばれる
私塾を開きました。1796年(寛政8年)には塾を永続させることを目的に
塾の建物などを福山藩に献上し,福山藩の郷校としました。
全国から常時20人ほどの塾生が学び、頼山陽が塾頭を勤めていたこともありました。
指定基準:四.学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡
八.旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類
51 讃岐国分寺跡 香川 昭和27年(1952)3月29日 奈良
指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
52 水城跡 福岡 昭和28年(1953)3月31日 飛鳥
日本遺産「大宰府」の構成要素でもあります。
百済の役(660年)敗戦に際し、日本を守るために築かれた城砦です。
水を貯えた濠と土塁とからなっており、今も長さ1.2kmもの巨大な土塁が存在しています。
664年に造成されたとされています。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
53 大宰府跡 福岡 昭和28年(1953)3月31日 飛鳥
日本遺産にも指定されています。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
54 大野城跡 福岡 昭和28年(1953)3月31日 飛鳥
大野城は、大宰府政庁を守るためのお城であるとともに、大宰府都城の外郭形成の
一部であったとも考えられています。 665年に築城されました。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
55 王塚古墳 福岡 昭和27年(1952)3月29日 古墳
王塚古墳は日本を代表する装飾古墳です。(装飾古墳は全国で660基、九州地方に集中分布)
6世紀の古墳で豪華絢爛な装飾が施されています。
上の写真は王塚古墳の装飾
出典:2023年7月26日 NHK総合テレビ「歴史探偵 古墳最前線」
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
56 基肄(椽)城跡 福岡・佐賀 昭和29年(1954)3月20日 飛鳥
基肄城(きいじょう)は天智4年(665)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた
日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
57 名護屋城跡 佐賀 昭和30年(1955)8月22日 戦国
築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名の割普請により数ヶ月で完成したといわれています。
「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣 した。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
58 吉野ケ里遺跡 佐賀 平成3年(1991)5月28日 古墳
説明を要しない位、有名な遺跡で邪馬台国の九州説の場所
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
59 金田城跡 長崎 昭和57年(1977)3月23日 飛鳥
金田城(かなたのき) は、対馬国下県郡の城山にあった日本の古代山城。
660年百済滅亡、663年白村江で倭国軍大敗。
国防の最前線となった対馬に防人が築いた大要塞です。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
60 原の辻遺跡 長崎 平成12年(2000)11月24日 弥生
原の辻遺跡は、長崎県壱岐市にある弥生時代の環濠集落の遺跡
「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
61 熊本城跡 熊本 昭和30年(1955)12月29日 江戸
日本100名城の一つ。
指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
62 臼杵摩崖仏 大分 昭和27年(1952)3月29日 平安・鎌倉
附 日吉塔、嘉応二年在銘五輪塔承安二年在銘五輪塔
59体が国宝に指定。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群
(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。
指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
63 西都原古墳群 宮崎 昭和27年(1952)3月29日 古墳
Wikipediaによれば、現在、高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、
方墳2基、円墳286基[2]であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が
12基確認されている。
指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
時代区分に関して安土桃山時代も戦国時代として区分しています。
指定基準のリスト
(特別史跡には、指定基準「5」及び「9」に対応するものはありません) |
一 | 貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 |
二 | 都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 |
三 | 社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 |
四 | 学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡 |
五 | 医療・福祉施設、生活関連施設その他社会・生活に関する遺跡 |
六 | 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡 |
七 | 墳墓及び碑 |
八 | 旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類 |
九 | 外国及び外国人に関する遺跡 |