2024年1月7日(日)よりNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まります。
主な役柄と出演者は以下の通りです。
紫式部/まひろ 吉高由里子
藤原道長 柄本佑
藤原公任 町田啓太
清少納言/ききょう ファーストサマーウィカ
そこで、紫式部の簡単な年譜を作成することにしました。又、関連の写真を添付しました。
上の写真は源氏物語の作者の紫式部の像です。(土佐光起の筆)
紫式部が「源氏物語」の着想を得たのが石山寺と言われています。
石山寺訪問時に撮影:2017年10月12日
上の写真は石山寺境内の紫式部の銅像
撮影:2017年10月12日
上の写真は石山寺の源氏の間と現地説明板 撮影:2017年10月12日
石山寺への訪問記は下記ブログで纏めています。
紫式部の生没年については諸説があり確定されていないがここでは天禄元年(970)に出生
長元4年(1031)没として纏めることにしました。
天禄元年(970)0歳 この頃生まれる 父は藤原為時、母は藤原為信の娘
生誕年には973年他、諸説あり
長徳2年(996)27歳 父・藤原為時の越前守赴任に伴い、越前へ
長徳3年(997)28歳 藤原宣孝との結婚に向けて単身で帰京
長徳4年(998)29歳 藤原宣孝と結婚
長保元年(999)30歳 この頃、宣孝との娘・藤原賢子を出産
長保3年(1001)32歳 夫の藤原宣孝が死去
この後、1年ほどを経て「源氏物語」の執筆を開始
「源氏物語」の構想は大津市の石山寺で琵琶湖に映る月を観て発想
「源氏物語」は全部で54帖に及ぶ長編小説。主人公・光源氏とその息子
薫の恋愛模様を軸に貴族社会のさまざまな人間模様を描く
寛弘3年(1006)37歳 中宮・彰子(藤原道長の娘)のもとに宮仕えを開始
(宮仕え開始は1004年説もあり)
翌年5月まで自宅にひきこもる
寛弘5年(1008)39歳 この頃「源氏物語」の途中まで完成
「紫式部日記」が書かれ始める(~1010年)
紫式部日記には中宮・彰子の出産について記録したもので皇子の誕生を
待ちわびる道長や彰子、女官らの宮中の様子の他に清少納言や和泉式部など
同僚女房らの批評が書かれています。
66代一条天皇(980-1011)が「源氏物語」を読み評価
彰子に中国の詩文集「白氏文集」の「新楽府(しんがふ)」を進講
寛弘6年(1009)40歳 父・藤原為時が左少弁に昇進
寛弘7年(1010)41歳 この頃、源氏物語の「宇治十帖(45帖~54帖)」の執筆開始
上の写真は宇治川のたもとにある紫式部像 撮影日時は不明だが2005年
上の地図は宇治十帖の古跡の位置を示すものです。
出典:宇治川歴史散歩 Page104
寛弘8年(1011)42歳 弟・
藤原惟規 (のぶのり)が死去
長和2年(1013)44歳 歌集「紫式部集」を編む
紫式部自身が詠んだ和歌130首を収めた歌集。少女時代から晩年頃までの生涯を
たどるようにまとめられ、当時の紫式部の内面が伺える。
長和3年(1014)45歳 父・藤原為時が越前守を辞して帰京。
藤原為時は翌年(1015年)に三井寺に出家
紫式部がこの頃、死去したの説(この他1016年、1018年説)もあります。
寛仁2年(1018)49歳 摂政・藤原頼通邸の屏風に詩を献じる
寛仁3年(1019)50歳 この年まで中宮・彰子に宮仕えしたとの説もあり
長元4年(1031)62歳 死去
紫式部の一生を紹介したYoutube動画
【最速予習】『源氏物語』執筆以外何をした人?紫式部の生涯を15分解説【大河ドラマ 光る君へ】
光源氏のモデル
光源氏のモデルについては、嵯峨天皇の第12皇子である源融のほか、複数の人物が挙げられていて、藤原道長もそのひとりに数えられています。
関連サイト